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 「名取さん」  日本の病院会計受付は美しい女性が多い。正午前に呼ばれた沙綾は、次回予約を済ませて精神科を出た。統合失調の診断を受け、生活保護を受給していた。  暖房きいた薬局を出ると、真っ青な空を冷たい風が切り裂いていた。寒さで肌がちりちりする。息が白い。季節は冬。街路樹の下を通ると、歩道の横に生えた雑草に朝の霜がくっついて残っていた。  統合失調は幻覚幻聴があり、妄想発言するもの、と日本では一般に解釈されているが、沙綾はマイナーな方の症状でかなり苦しんでいた。スマホPCを触る、或いはの専門書を読むと頭に電流が走り、拷問を受けたかのように辛い。  彼女は就労移行支援施設で働いている。統合失調の他に発達障害のADHDでもあり、ADHDの方の聴覚過敏のため、仕事の手順は書いてもらわないと理解できない。  「おはようございます、名取さん」  「おはようございます」  「寒いですね」  「本当ですね」  20代の沙綾より、10歳くらい上のスタッフ、内田は丸顔で、平安時代だったらモテモテだったのでは、というような容姿をしていた。そして、極端に声の小さい人だった。  「うちなんかもう、○☓▲○☓で、昨日なんか、○%&♯ですよ!」  それなのに、おしゃべりが大好き。  沙綾は全然聞こえない。  施設で内田に気に入られてしまい、沙綾に仕事を回す人が、ずっと内田になった。  「あなたの声、全然聞こえないので書いてください」  「わかりました!」  内田は快く席について、書き始めた。張り切っている様子。  周囲では、メンバーが次々と仕事を進めている。  「名取さん、仕事わからないこと、ある?」  「今、内田さんが対応してくださっています」  「そうですか。わかりました!」  声のよく聞こえるスタッフはそうやって、沙綾から離れていった。  スタッフの間では、沙綾は内田が好きで、内田は沙綾のために書く担当になったのだと、暗黙の誤解が生じていた。  沙綾は就労以降支援施設の幹部に直談判した。  「内田さんを私に近づけるの、やめてください」  「どうして」  「声がまったく聞こえないんです。他に声のよく通る人がいるから、その人達から仕事を習いたいです」  「しかしねえ、メンバーさんの担当指定は出来ないんだよ。男性が恐い、という相談だったら、女性担当をつけられるけどね」  「それから、聴覚過敏の話を通してるのに、内田さん以外、仕事内容を書いてくれる人がいません」  「そこは自己申告制にして欲しいんだ」  沙綾は完敗して職場に戻った。声の通るスタッフが言った。  「名取さん、今度は二階の仕事に回ってもらえますか?」  「ああ、わかりました」  「エプロンとそれから、雑巾、手袋はそっちです」  「はい!」  会話がここまで通じるのだからと、内田以外のメンバーは、仕事内容を沙綾のために書いてはくれなかった。  終業時間を迎える。  「これ、名取さんがやったんですか?」  内田が近づいて話しかけてきた。  「はい」  沙綾はビクビク答える事になる。  「凄い器用ですね! どこかでこういう仕事なさっていたんですか?」  「いいえ、全然」  「すっごい! 完璧ですよ! 私なんか、☓□○◎%∧∩で、地元の駅だと◎○●☓☓で、やっぱアニメと言ったら○●◎☒◆□」  内田はキャッキャと喋りつづける。90%聞こえないのだ。世間話を書いて伝えてくれとも言えず、あんたの話に興味ないとも言えず、沙綾は弱り果てていた。  そのうちに、仕事を理解しに行ってんだか、内田を理解しに行ってんだかわからなくなる。沙綾は生活保護受給者だ。生活課の担当職員、函館に相談した。  「パワハラ被害に遭っています」  「落ち着いて。お薬は飲みましたか?」  その後、医療従事者にも相談したが、やはり、薬を飲んだか確認されただけだった。  統合失調患者に人権はない。これは、DV被害者にも児童虐待被害者にも言えること。  社会の真実は『対処したくない』。統合失調患者が被害妄想するという、蜜のような事実があれば、すぐさま解決に利用するのである。  同じ年の夏、沙綾は内田のせいで、半分ノイローゼ状態になって、就労移行支援施設をやめた。大型精神科明星病院に付属する、デイケア通いに切り換える。
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