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ざあっと夏風が頬をきり、いつの間にか足元に落ちていた煙草の灰は、跡形もなく消え去っていた。私は、扉の向こうから聞こえた言葉に、思わず目を見張った。自分の番だと言わんばかりに続く、聡明とも思えるような、しかし青年である無邪気さも感じさせる豊かな言葉が、私の世界をぐるりと廻し始める。
「好きじゃなくなるとか、他の人を好きになったとか、遠く離れてしまうとか、もしかしたら、死んでしまうことが終わりかもしれない。だけど、終わるまでそれは誰にも分かりません。だからそれまでに、後悔しないよう、沢山笑えるよう、好きだと伝え続けます。大人であることや、先生であることが全てですか? 今の貴方は何を想い、何を感じていますか? 自分の気持ちに正直であることに、自由も不自由もないです。いつか終わってしまうことを待っているだけなら、それこそ心ごと風化して、寂しさも何も残らないと思います」
月も星もない真っ暗な闇に、柔らかな朝陽が一筋差し込んできて、色や温度を取り戻していくような、私は今、初めて目を開いたような眩しさを感じた。そうして目を細めてよく見てみると、深い溝だと思っていたあの一線の底には、きらきらと空色を反射する水面が、気持ち良さそうに揺れ動いているのが見えた。現実は波を立て、たまに白い飛沫になるが、それもまた綺麗だ。
私の気持ちに、正直に。希望や理想に、忠実に。私にとって生きると同じくらいに難しいそれを、いとも簡単にやって見せられた。自分は一体何に、あんなに落ち込み悩んで、自ら闇の中に引き籠もろうとしていたのか。もう訳が分からなくなるほど呆気にとられ、終いには、ふっと、眉がハの字になり、気の抜けた笑いがこぼれていた。
終わるから、諦めなくていい、のか。
終わるから、伝えたいと思うのか。
いつかは必ず、全て終わっていくから。
「もう一度言います。自分は、貴方の事が好きです」
お互いに終わりを理由にしても、私たちは、まるで違う世界の住人だ。この、少し錆びついた無機質な扉で隔てているのが、丁度良いと思えるほどに。
しかし、世界を反転させていく二度目の告白は、太ももの横から何もない空へと、私の手を徐々にドアノブへ引き寄せる。私にまとわりついていた無駄に重い黒は削ぎ落とされていき、そこから見えてきた自分の本音は、恥ずかしいほどに単純で、何ともありきたりなものだ。
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