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僕は次の峠を越えるまでに、
バットは一と箱で足りると思つた。
/中原中也『七銭でバットを買つて』より
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ふと、別れた男のことを思い出す。
彼とは学生の頃に文芸サークルで知り合い、それから約二十年にわたって共に暮らしてきた。籍こそ入れてはいなかったものの、事実上、夫婦関係にあったと言える。ところが三年前、わたしたちは唐突に別れることとなった。
「……芥川も太宰も、そして中也も、三十代で死んだんだ。俺たちはね、長く生きすぎたんだよ」
日頃からそんな言葉を口にする男だった。決して心中を示唆していたわけではなく、気取ったことを言いたかっただけだろう。事実、わたしが首を縦に振ろうと横に振ろうと、彼はいつだって興味なさげに紫煙をくゆらせていた。
「……彼らに憧れて、彼らが愛飲していた煙草、ゴールデンバットをね、バットを咥えてみたけれど、両切りの煙草は俺には強すぎて、むせ返るばかりだった。つまりね、俺は文学者に向いていないんだ」
趣味で文芸を嗜んでいただけのわたしは大学卒業と同時に筆を置いた。対して彼は、いつまでも小説家になろうとしていた。定職に就かず、気紛れに日雇いの仕事をすることはあっても、大抵は自宅でパソコンの白い画面を睨んでいた。そんな彼の生活を支えていたのはわたしだ。噛み砕いて言うと、違う、噛み砕かずとも、彼は明らかに、いわゆるヒモだった。
とはいえわたしは微塵も不満など抱いていなかった。二人で過ごす時間と空間は心地よく、とても肌に馴染んだ。共依存などという欺瞞に満ちた関係ではなかったと今でも思っている。もちろんそれは主観であり、傍から見れば歪に映っていたかもしれない。それでも。それでも断言しよう。
わたしは、間違いなく、彼のことを愛していた。
「……両切りの煙草にはフィルターが付いていなくて、咥える度に口に葉が入るんだ。それが不快でバットを吸っては唾を吐いた。唾と共に吐き出された煙草葉は覚悟あるいは未来で、吐き出すごとに俺は削れていく。吐き出されたものはどこへ行ったんだろうな」
意味が分からない。彼の紡ぐ言葉はいつもそうだった。
描かれる物語にしても、山椒魚を救う話や、枯れない椿の話や、シャケシャケと笑う蟹の話など、やはり意味が分からなかった。けれども彼に言わせれば、それはメタファーであり、アイロニーであり、文学なのだそうだ。
理解できないながらも彼の話を聞くのは好きだった。端々から記号を拾っては寄せ木を組むように、彼の望みを推察するのが愉しかったからだ。
そして三年前、わたしは、一つの答えを組み上げた。
──彼はゴールデンバットを吸いたいに違いない。
ちょうどその頃ゴールデンバットは両切りの煙草からフィルター付きの煙草にリニューアルされた。これならば彼も難なく吸えるだろうと考え、わたしは蝙蝠の印刷されたパッケージの煙草、ゴールデンバットを、彼に贈った。
いつものように白い画面を見つめていた彼はさっそく一本に火を点けた。それから輪を描く紫煙を見上げると、おもむろに呟いたのだった。
「これは吸いやすいね。今後はこれを吸おうかな……結局のところ、扱い辛いものは淘汰され、受け入れられやすい形に変化していくんだろうな。いいや、変わらなければならないんだ」
わたしは喜んでもらえたものと思い、微笑みを向けて相槌を打った。
すると彼は溜め息をつくように煙を吐き出し、「お前は分かっちゃいない。なんにも分かっちゃいないよ」と囁いて、突然、泣きながらわたしに別れを告げた。
彼の言う通り、わたしは何も分からなかった。
今日、ニュースを見た。
ゴールデンバットは間もなく販売が終了するらしい。
彼は今でも煙草を吸っているのだろうか。吸っているとしたらどんな煙草を吸っているのだろうか。それは知る由もない。知る必要もない。
(了)
※ゴールデンバット:1906年より販売されていた煙草。通称バット。芥川龍之介、太宰治、中原中也など愛飲していた作家が多い。長年両切り煙草として売られていたが、2016年にフィルター付きにリニューアルされた。2019年7月24日、10月をもって販売終了、という発表がなされた。
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