7人が本棚に入れています
本棚に追加
藤本 翔太
小学生の時、毎週火曜と金曜の夜に、姉ちゃんが通うピアノ教室へ、母と一緒にお迎えに行っていた。
レッスンは十七時から十八時までの一時間。俺は母親に頼んで、いつも少し早くピアノ教室へ到着するようにしていた。姉ちゃんがピアノを弾いている姿を見るのが好きだった。
「ぼくもピアノやりたい!」
「えー。翔太はバスケがあるでしょ?」
そう。俺は小学二年生の時から、近所のミニバスのクラブチームに入っていた。
毎週月曜、木曜、土曜、日曜の週四回。小学生のクラブチームにしては中々練習量の多いチームだったんじゃなかろうか。
「それに、男の子はスポーツで元気よく体を動かすくらいがちょうどいいのよ」
母は俺が、俺もピアノを習いたいと言い出すと、決まってそう言い、可笑しそうに笑った。
父も母も、俺にピアノを習わせる気はさらさらないようだった。そもそも、経済的に二人も通わせられるような余裕がうちにはなかったのだろう。姉のピアノ教室の月謝が八千円なのに対して、ミニバスは五百円だ。習い事としては破格である。
うちはそこまで裕福ではなかったので、家にグランドピアノ……までは流石になかったが、電子ピアノが置いてあった。姉が練習をはじめると、俺は家のどこにいても飛んできて、横でピアノの音を聞き入った。
「翔ちゃんはピアノが好きだねえ」
姉ちゃんは俺に優しかった。年が四個も離れているから、というのもあったかもしれない。これが一つや二つしか歳の違わない姉だったのなら、きっともっと違ったことだろう。
姉ちゃんは、俺の好きな曲をなんでも弾いてくれた。俺は特に、ベートーベンの「よろこびの歌」が好きだった。
「♪ 晴れたる青空 ただよう雲よ
小鳥は歌えり 林に森に
こころはほがらか よろこび満ちて
見かわす われらのあかるき笑顔」
どうして俺が、この曲が一番好きだったのかというと、理由は簡単、姉ちゃんのピアノに合わせて歌うことができるからだ。
俺はピアノは弾けないけど、なんだかまるで、歌を歌うことで、姉ちゃんの奏でる楽しい音の世界に、片足だけでも入り込めたかのような――そんな気がしたのだ。
姉ちゃんが弾いてくれれば、俺はいい。
小学生の俺はいつしか、そうやって自分の気持ちに蓋をして過ごすようになった。
「そんでさー。腕の振りをさ、こう……なんていうんだろう、横に振るかんじでさ。でも、大きく振りすぎちゃだめらしいの。体幹がブレて、走りの勢いを殺しちゃうんだって」
「ふーん」
「あいつ、すげーよなあ。俺、なーんも考えないで走ってた。でも、やっぱはえーヤツって色々考えながら走ってんだよなあ。スポーツって、案外頭使うんだなあ」
「あいつって、保科さん?」
「そうそう。めちゃくちゃ気ぃ強いしおっかないけどさ」
それでさー、と、同じクラスで、仲の良い友達である天野は続ける。
今は給食の時間。今日のメニューである、ごはん、鯖の味噌煮、けんちん汁などのメニューをすっかり食べ終えた俺は、最後に残った牛乳をストローで吸いながら、天野の話を聞いていた。
「天野、なんか三年になって変わった?」
「えっ、なんだよ」
「だって……前までお前、もっとめんどくさそうにしてたじゃん」
俺と天野は、二年の時から同じクラスで仲が良い。なにかと馬が合ったのだ。
お互い、部活動に対して滅茶苦茶力をいれているとか高い目標があるとかでなく、ただなんとなく、惰性で毎日部に顔を出しているようなところがよく似ていて、放課後になると二人して仕方なく腰を上げ、「そんじゃ、今日もお互いがんばろーなー」と気だるげに励まし合うのだった。
しかし、その天野の様子が、最近違う。
べつにものすごく燃えだしたとか、やる気満々で張り切ってるとかってわけでは決してないけど……でも、さっきみたいに、給食の時間に部活の話をするなんてことは、今までだったらまずなかった。
「あー……まあ、そうかも。なんか、冬季練終わってからタイムが伸びだして、ちょっと、よっしゃーって思ったっていうか……」
「へーっ。すごいじゃん。お前、あんだけハードル嫌がってたのに。長距離からハードルに移るときなんて、島流しだ! とか言って、保科さんにぶっ叩かれてなかったっけ」
「うわっ、あったなあ、そんなこと。てか、よく覚えてんな」
あはは、と天野は笑う。俺は、飲み終えた牛乳のパックを、指でぺこぺことへこましながら、ふうん、そうか、よっしゃー、かあ……と考えた。
中学に入学したばかりの頃、吹奏楽部に入部届を出そうか、迷った。すごく迷った。周りのやつらはみんな、俺が当然のようにバスケ部に入ると思っているみたいだったけど。
自慢じゃないが、俺はバスケがうまい。
まあ、小学二年生の時からやっているのだから、当然といえば当然だろう。
ミニバスでは、最終的に副キャプテンを務めた。キャプテンは、俺より一年後に入った、金子が務めることになった。俺はお世辞にもリーダーシップがあるヤツじゃないし、誰かのプレイに対して注意とか指導ができるわけでもない。
対して金子は、熱血で、器が大きくて、そしてバスケのことを愛していた。だから、キャプテンに金子が任命されたときは、正直ものすごくホッとしたものだ。金子は俺に、ちょっと申し訳なさそうな顔をしていたけど、とんでもない。
俺は、中学生になったらバスケをやめる。
そして、今度こそ音楽の道に進むんだ。
そう――思って、いたんだが。
「翔太! 男バスの仮入部、行くだろ!?」
中学校に入学して、二日目の放課後。誰もかれもが“仮入部”という言葉に胸をときめかせている中、俺の振り分けられたクラスである一年一組の扉が元気よく開かれ、名指しでそんなことを言われてしまった。
教室中に響き渡るような勢いで、俺にそう持ち掛けてきたのは、言うまでもない、金子だった。真新しいジャージ姿で、バッシュの入った袋と入部届を手に持ちながら、きらきらした目で俺を見ている。
「い、いや、どうしよっかな……」
しかし、煮え切らない態度の俺を見て、金子はさっきまで輝かせていた瞳に不安の色をにじませ、「え……」と言った。
「なに、他に入りたい部活あんの?」
「いや……そういうわけじゃ、ないけど……でも、バスケは散々やったし、他のこともやってみたいなー、とか……」
「他のことって?」
不思議そうな目がこちらを向く。それに対して俺は、うっ……と言葉を詰まらせてしまった。
言え……言わないと……! 吹奏楽部に入りたいんだって!
しかし、ついさっき金子が派手に登場してきたせいで、俺たちのやり取りをクラスの奴らが興味深そうに見ている。追い打ちをかけるように、小学校が同じだった男子二人組が、えっ、藤本、バスケ部入んないの? なんて言っている。
「す……」
俺は、今にも消え入りそうなくらい小さな声で、おそるおそる口を開いた。
「吹奏楽部に、入り、たくて……」
しん、とその場に静寂がおとずれる。
言った、言ってやったぞ! そう思いながら、俯いて金子の反応を待っていると――ややあって、プッ、と噴き出して笑う声が聞こえてきた。えっ、と目を日開く俺に対して、笑い声は次第に大きくなっていく。やがて、さっき横やりをいれてきた二人を含めて、三人分の「あはははは!」という笑い声が俺を包んだ。
「吹奏楽部って! マジで言ってんの?」
「な、なんだよ、悪いのかよ、」
「あんなの、女子が入る部活じゃん。なあ?」
「ああ。男子って三人くらいしかいないんじゃなかったっけ? てか藤本、なんか楽器できんの?」
「で、できないけど……」
「じゃあ。モテたいとか? 確かに、女子ばっかだからハーレムになるもんなあ」
「なっ……そ、そんなんじゃねえよ!」
「どーだかなー」
あははは、と相変わらず三人は笑う。
俺は、自分の顔が耳まで真っ赤に染まっていくのがわかった。モテたいとか、ハーレムがどうとか言われて、ものすごく恥ずかしかったのだ。
そんなんじゃない。
そんなんじゃないのに!
その時、くすくす、とクラスの奴らの笑い声がした。今思えば、たぶん俺たちの会話に聞き耳をたてて笑っていたんじゃないとは思うけど、あの時の俺はとにかく恥ずかしくて、まさしく“売り言葉に買い言葉”ってかんじの勢いで――
「わかったよ。バスケ部の仮入部に行く。それでいいだろ」
と、言ってしまったのだった。
「翔ちゃん、吹奏楽部に行かなかったの?」
仮入部一日目を終えた日の夜。自分の部屋で、のろのろと明日の準備をする俺に対して、姉ちゃんがそう声をかけてきた。
一日目は、バスケ部を見に行くつもりなんて全然なかったので、バッシュも体操着も持たずに、制服姿のまま見学をしに行った。
端の方でなるべく目だないようにしている俺を、しかし顧問の林先生がキラキラした目で捕まえて、「待ってたよ! バスケ経験者大歓迎! なんだ、体操着を忘れたのか? 明日は持ってきなさい」と、もう入部することを決めつけたような口調で言ってきた。
後で聞いた話だが、林先生はミニバスを習ってたヤツ――特にキャプテンやら副キャプテンやらを務めていた生徒の名前は入学前にチェックしておいて、万が一仮入部に来なかったら教室までスカウトに行くくらいの熱心な顧問らしい。いい迷惑だ。
「……たぶん、バスケ部に入ると思う」
「ふーん……音楽やりたいんじゃなかったの?」
「……いいんだ。ほんとは俺、姉ちゃんみたいにピアノがやりたかっただけだから。吹奏楽部じゃ、ピアノは弾けないし。それに俺、そもそも楽譜読めるかもあやしいし。あと、バスケが嫌いなわけじゃないし。顧問の先生にも超期待されてるし……」
だめだ。何を言っても言い訳みたいになってしまう。
ぐだぐだとのたまう俺に、姉ちゃんは「なあんだ、そっかあ」と、拍子抜け、というような顔をした。
「じゃあ、この家で音楽をやる人は、もういなくなるってわけね」
「えっ」
びっくりして、勢いよく振り向く。姉ちゃんは俺の学習机によりかかりながら、くるくると指先で地球儀を回していた。
「なんで? 姉ちゃんがいるじゃん」
「私、もうやめるよ」
「は!?」
やめる? 誰が? なにを?
混乱する俺に対して姉ちゃんは、いとも簡単に、「だから、ピアノ」と言った。
「本当は中学を卒業した時点でやめようと思ってたの。でも、コンクールの結果がわりと良かったから、先生がもう少し続けてみないかって誘ってくれて、それでここまで続けてたんだ。でも……そろそろ大学受験も視野にいれなきゃいけないし、潮時かなって」
「な、だ、だって……ピアニストになるんじゃ、なかったの?」
「そりゃ、昔はなりたかったけど……」
姉ちゃんは言った。
「高校生にもなれば、嫌でも将来のことを考えなきゃいけなくなるもんなんだよ、翔ちゃん。そして私は、他になりたいものができたの」
「な……なりたいもの?」
「うん。学芸員」
くらくらした。
学芸員……学芸員。確か、美術館とか博物館にいる人のことだ。え? 姉ちゃんが? でも確かに、姉ちゃんは昔からそういうのが好きだった。いや、でも、俺は姉ちゃんは将来、ピアニストになるもんだと思っていたのに……。
「じゃあ、もう弾かないの? ピアノ」
がっくりとうなだれながらそう訊くと、姉ちゃんは俺をなだめるようにそっと笑った。
「翔ちゃんのためなら、いつでも弾いてあげるよ」
違う、俺は――俺は何も、俺のために弾いてほしいんじゃない。
ただ、姉ちゃんが奏でるピアノで、誰かが元気になるような未来が訪れたらって。俺にはできないけど、姉ちゃんなら。
プロになって、素晴らしい音の世界に飛び立つことができるんじゃないかって、自分のことみたいに楽しみにしていたのに――
その時、俺の頭の中で、音楽が流れた。
♪ こころはほがらか よろこび満ちて
見かわす われらの明るき笑顔――
……今の俺には、よろこびの歌、なんてちっとも似つかわしくない。
*
それから時間が過ぎて、俺は三年生になった。
バスケ部では、背番号六番――つまり、四番がキャプテン、五番が副キャプテンという定石のある中で、まあ単純に三番目に良い番号を任されている。
キャプテンナンバーの四番は金子が務め、五番は清水という奴が務めている。清水は中学からバスケをはじめたのに、メキメキ実力を伸ばしたすごいヤツで、今じゃ俺よりうまいかもしれない。
金子は、俺が五番じゃないことに対して、林先生に抗議してくれた。
「そりゃ清水は上手いけど、でも、翔太だって技術面じゃ負けてません! それに、こいつは小二からバスケをやってて、俺たちの中じゃ一番歴が長いんです! こいつほどバスケを愛しているやつはいません!」
林先生にそう猛抗議をする金子を、俺は「いやいや、そんな、」とか「俺はマジでいいから、」とか言いながら、ちょっと逃げ越気味にたしなめた。しかし、熱い男金子の勢いは止まらなかった。
わあわあ騒ぐ金子と、困り顔で金子の腕を引く俺。林先生はそんな俺たちの顔を交互に見て、それから「うーん」と首をひねった。
「バスケに対する知識とか、技術面の繊細さとかは、確かに清水より藤本の方が優れていると、俺も思うよ」
「じゃあ!」
「でも……藤本、お前、本当にやりたくてバスケやってるのか?」
ドキン、と胸が鳴った。痛いところを突かれた、と思ったのだ。
黙り込む俺。金子が「は? なに言ってんですか、先生」と、ちょっと怒ったように言った。やりたくてやってるに決まっているじゃないか、という顔だった。
「お……俺、は、」
声が、震える。
俺は――本当はピアノが習いたかったんだ。姉ちゃんの長い指が、鍵盤の上を自由自在に動き回って、音が、音楽が生まれる。ひとたび音が鳴りだせば、まるで、世界がまったく違う色に変わったように、明るく輝いて見えて――
「……俺は、べつに、なんでもよかったんです」
「……は?」
金子の、怖い顔がこちらを向く。やばい、と思った。これ以上言ったら、いけないって。でも、一度開いた口は、決壊したダムから水が噴き出すみたいに、どんどんどんどん言葉を溢れさせて止まらない。
「俺はべつに、金子ほどバスケに情熱があるわけじゃない。ただ親が、女の子には音楽を、男の子にはスポーツをやらせたいって言いだして、ミニバスか少年野球か、どっちかを選べって言うから。野球って、ルールがややこしくて難しそうだし、バスケならゴールにボールをいれればいいだけで簡単だなって思って、だからバスケにしたんです。他に特別得意なこともなかったから、ずるずるここまで続けてるだけで……」
「お前……それ、冗談だろ?」
「冗談じゃない。本気だよ。俺はお前ほど、バスケに情熱はない。中学を卒業したら、たぶんやめるし。部活なんて、なんでもよかったんだ。受験に響くから、副キャプテンになれなかったのはまあ、ちょっと残念だけど」
「ふ……ふざけんなよ!」
シャツの首元を掴まれて、ぐえっ、と情けない声が出た。金子の目は動揺して揺れていた。無理もない。こいつは、小学生の時からずっと、俺のことを相棒みたいに扱ってきていたのだ。
なんでも話せて、息がピッタリ合って、お互いがお互いにとって唯一無二の、相棒。
その俺に、さっきみたいなことを言われたら――裏切られた、と思ってもおかしくないだろう。
殴られる、と思って体を硬くし、身構えていたが、金子は俺を殴らなかった。ただへなへなと、まるで全身から力が抜けてどうしようもないというように、俺から手を放し、「じゃあ、」と口を開く。
「伊藤も、中村も、笹山も、河合も……お前みたいなのにスタメン争いで負けてるってわけ? お前は、やる気なんて全然ないくせに試合に出て、あいつらの努力を踏みにじってたって、そういうことだろ?」
「……べつに、そこまで、」
「もういい」
金子はそう言って、俯いていた顔を上げ、俺の目を真っすぐに見ると、
「お前、サイテーだよ」
と。
吐き捨てるように言い残して、スタスタとその場を去っていった。
「あ、あー……藤本。ちゃんと、金子に謝っておくんだぞ。それに、さっき言ってたことだって、なにも全部が全部、本気で思ってるってわけじゃないだろ? 勢いで言っちゃったんだよな?」
「……俺、今日は帰ります。すいませんでした」
「あっ、おい!」
明日はちゃんと来いよー! という、林先生の声を背中に受けながら、俺は夕暮れに染まる校舎を大股で歩いた。
その一件以来、金子とはまともに話せていない。
金子の性格上、あの一件を他の奴らに告げ口するようなことはしないだろうと踏んではいたが、その予想は的中したようだった。
金子以外の部員は、相変わらず俺に対して普通に話しかけてきた。
伊藤も、中村も、笹山も、河合も。
もしあの時の俺の発言を彼らが耳でもしたものなら……きっと、もっと恨めしく思われていたことだろう。
「なあ、お前ら、喧嘩でもしたの?」
以前だったら、俺がシュートを決めたら「さっすが翔太!」と肩を叩いたりしてきていた金子が、今は義務付けられたような「ナイッシュー」しか言わない。練習をする上で、よっぽど必要に駆られた時は会話をするけど、それ以外は一切話しかけてこない。
そんな俺たちに疑問を抱いた、同じ三年の奴らが、心配そうに事情を尋ねてきたりするたび、俺は「まあ、ちょっとなあ……」とか「大したことじゃないよ」とかはぐらかして過ごすのだった。
俺は昔からそうだ。
はぐらかすのだけは上手なのだ。
「だーかーらー。何回言ったらわかんの!? 腕の振りが治ったら今度はインターバルのフォームがぐちゃぐちゃになって、それが治ったらまた腕の振りがめちゃくちゃになって……!」
「うっせーな! 俺だってちゃんと考えてやってるよ! もっと優しく教えろ!」
「これ以上ないくらい優しいでしょうが! ねっ、多田ちゃん!」
「ひ、ひえっ、は、はいっ」
「ほら見ろ、怯えてんじゃねーか! 多田、無理しなくていいぞ。鬼ババには正直に鬼ババって言ってやれ」
「お、鬼……ふふっ」
「ちょっと、多田ちゃんに余計なこと言わないでよ! 大体あんたね……」
進路面談があったせいで、遅れて部活に行こうと放課後の廊下を歩いていると、グラウンドの方からそんなやかましい言い争いが聞こえてきた。
窓を開けて、声のする方に目をやると、そこには天野と、隣のクラスの保科さんと、見慣れない女の子の姿があった。一人だけ敬語を使っているあたり、たぶん、後輩なのだろう。
「見とけよお前、次は超絶上手く跳んでやるからな、腰ぬかすなよ」
天野はムキになったようにそう言って、スタブロに足をかける。
多田ちゃん、というらしい後輩の女の子のスタート合図により、天野はグラウンドへ駆け出す。
……速い。それに、跳んでる姿もめちゃくちゃきれいだ。
あいつ、あんなにうまかったっけ?
去年の夏、一度だけ陸部の大会を応援に行った。バスケ部の男子の彼女が陸部にいたので(結局、すぐに別れたけど)、その付き合いで一緒に見に行ったのだった。
当時の天野の走りは、失礼だけど、特段上手いとも、速いとも思わなかった。長い手足がハードルを飛び越えると、空中でバラバラに動いているように見えたし、十台あるハードルのうち、七台目を超えるくらいからは失速して、小刻みな走りになってしまっていたし。
それが、今は違う。見違えるようだ。
レーンの横に立って天野の走りをじっと見つめる保科さんは、うん、うん、と何回か頷いた後、ノートに何か書き込みはじめた。それから、後輩の女の子をちょいちょいと呼んで、何か言っている。
……そういえば、保科さんって、二か月前くらいに大けがをして、松葉杖をついてなかったっけ。今はもう、杖もギプスもせずに、普通にしているけれど。でも、半そで短パン姿の天野たちに対して、きっちりと長袖のジャージを着こんでいるあたり、まだ療養中なのかもしれない。
「おいっ、どうだったよ、俺の走りは!」
走り終わった天野が、大きな声でそう訊きながら、保科さんに駆け寄る。保科さんは「まあ、よくなったんじゃない」とそっけなく言って、「じゃ、次多田ちゃんね」とさっさと天野から顔を背けた。天野は、「それだけかよ」と言いつつ、褒められて嬉しそうにしている。
……ああ、天野が遠い世界へ行ってしまった。
今までずっと、無気力仲間だと思っていたのに……。
みんな、自分の道を進んでゆく。やりたいことを見つけて、それまで抱えていたものをさっさと手放して――あるいは、他に何か、抱えたいものを見つけて。
俺だけずっと、同じところにいる。
何も持たずに、ただぼうっと突っ立って。
*
結局その日、俺は練習には顔を出さず、家に帰った。
なんだかもう、なにもかもが面倒くさい。人間関係も、バスケも、学校も、受験も、将来のことを考えるのも――。
何かをしていないと嫌な気持ちが溢れてどうにもならなくなってしまいそうだったので、ゲーム機に手を伸ばして無心でプレイした。
そうだ、そういえば俺はゲームが好きだったじゃないか。部活のせいで全然時間がとれなくて、今までは好きな作品が発売されてもまともにプレイできなかったけど、部活さえ辞めれば放課後好きに過ごせるし、ゲームだってやりたい放題だ。
カチャカチャと手元を動かす。しかし、画面の中の敵を順調になぎ倒していっても。レアなアイテムを手に入れても。主人公のレベルが上がっても――どこか満たされない。
はぁ、と重たいため息をついていると、ガチャッ、と玄関の扉が開いて、次いで「ただいまー」と声が響いてきた。
「あれっ。めずらしー、翔ちゃん、もう帰ってたんだ」
「……おかえり」
「部活は?」
一番訊かれたくないことをいきなり訊かれて、俺は思わず黙り込んだ。
べつに、ものすごい大罪を犯しているというわけじゃない。授業をサボッたのならまだしも、部活の練習を、それもたった一日サボッただけだ。こんなに後ろめたい気持ちになる必要はないじゃないか。
「ははーん。サボりかあ」
姉ちゃんは楽しそうにそう言うと、ソファに鞄を置いてスタスタとキッチンへ歩いて行き、冷蔵庫から野菜ジュースのパックを取り出した。ストローに口をつけて、ごくごくと飲みながら、「なんかあったの?」と訊いてくる。
「べつに……」
「うわっ、反抗期?」
あはは、という笑い声。俺はなんだかむかむかして、自分の部屋に引っ込もうと思い、ゲーム機を置いて立ち上がった。すると姉ちゃんは、俺が置いたゲーム機の画面をのぞき込んで「うわー」とちょっと興奮したような声を出した。
「懐かしい。このゲーム、昔はよく一緒にやったねえ」
「……そうだっけ」
「うん。私も翔ちゃんも、あんまりうまくなくてさ。結局いつも、腹立てて途中でやめちゃうの。あはは。でも、流石に中学生にもなれば、そんな簡単に躓いたりはしないか」
……そんなことない。俺は今、もう中学三年生にもなったのに、こうして躓いている。
まあ、ゲームじゃなくて、現実の話ではあるけれど。
「……ねえ、あのさ」
「うん。なに?」
「ピアノ、もう弾かないの?」
ちらっ、と。視界の隅で、埃をかぶった電子ピアノに目をやる。今年から大学生になった姉ちゃん。ピアノ教室を辞めて、もう二年が経つ。教室を辞めてからというもの、すっかり鍵盤に向き合うことはなくなった。
「うん。弾かない」
「……なんで?」
「弾きたいと思わないから。でも、もし翔ちゃんが弾いてほしいっていうんなら、弾くよ」
だから、そうじゃないのに。
俺はなんだかもどかしくて、自分の気持ちをわかってもらえないのが嫌で、でもそういう気持ちを上手に言葉にするだけの力を持ち合わせてなくて――結果として黙り込んでしまった。そんな俺に、姉ちゃんは「翔ちゃんはさ」と口を開く。
「ピアノをやりたかったんだよね、ずっと」
「……うん」
「でも私は、実はピアノってそんな好きじゃなかったんだ」
「えっ?」
がしがしと、ストローの先端を甘噛みしながら、姉ちゃんは言った。俺はあまりにいきなりのその発言にびっくりしてしまって、言葉を失ってしまった。
だって――だって姉ちゃんはいつも楽しそうで、きらきらしていて――姉ちゃんの奏でる音はきれいで――そうだ、ピアニストになりたいとも言っていたし――
「音楽教室の上池先生のことが大好きでさ、先生と話したくて通っていたようなものなの。高校生の時に上池先生が、自分はそろそろ引退して、若い人に教室を託そうと思ってるって聞いた時、なら私も辞めようって思ったんだ。私にとってはピアノっていう存在は、それくらいのものだったの。翔ちゃんには……ていうか、お父さんやお母さんにも、大学受験があるからー、なんてもっともらしい理由を話してたけどね」
「そ……そう、だったんだ」
「うん。……ねえ、翔ちゃん。自分でやってみせようともせず、他人に自分の夢を託したり、まして他人の人生に自分を投影したりするのって、ものすごくむなしいことだと思うな、私」
姉ちゃんは言った。じっと、俺の目を真っすぐに見ながら。大学入学を前に染めた栗色の髪は、頭のてっぺんの方だけ既に地毛に戻ってきてしまっている。
「私、翔ちゃんが私のピアノを好きでいてくれるの、嬉しかったよ。よく一緒に歌ったよね、よろこびの歌。でも……いつしか翔ちゃんが私に向ける憧れを、ちょっとしんどく思うようになったんだ」
ショックすぎて、なにも言えない。
姉ちゃんの横でピアノの音色を聞いている時間が、なにより好きだった。自分はなれないけれど、姉ちゃんがピアニストになってくれたら――なんて、そんなことを考えていた。
でも、俺のその夢は、憧れは、独りよがりのものだったのだ。
「ピアノをやりたいなら、やればいい。今からでも遅くないよ。まだ中学生なんだから。お父さんやお母さんに、真剣に話せば、絶対にわかってもらえる」
「でも……」
「なんだかんだ理由をつけて、やりたいことをやらないってのは、傍から見るとけっこーイタイもんだよ」
「う……っ」
その言葉に、思わず顔をしかめる。
わかってる。俺は今まで言い訳ばかりしてきた。
父さんや母さんが真剣に取り合ってくれないから。バスケをやってて時間がないから。吹奏楽部に入ろうとしたときだってそうだ。本当にやりたかったのなら、笑われたってなにしたって、胸を張って自分が行きたい方へ行けばよかったんだ。それなのに――
「……って、今言った言葉はぜーんぶ、実は自分に対する戒めでもあるんだけどね!」
ぐるぐると考え込んでいると、予想もしていなかった言葉が飛んできて、俺は目を見開いた。
姉ちゃんは、はーあ、と大きなため息をついて、それからまた俺を見た。うっしっし、なんて笑いながら。
「ねえ、面白いこと教えたげる。私ね……実はずっと、バスケがやってみたかったの」
「え!?」
「ミニバスに、茜ちゃんっていうかっこいい女の子がいてさ。あんたが入ったばっかの時、女子のキャプテンだったと思うんだけど……覚えてないかな?」
「……え、あ、あー……覚えてるような、いないような……」
「私、茜ちゃんに憧れていたの。サバサバしていて明るくて、運動神経抜群で。運動会でも、毎年リレーの選手に選ばれててさあ。小学生の頃ってさ、頭がいい子より、性格がいい子より、運動ができる子がいちばん素敵に思えなかった?」
「さあ……どうだっかな」
「まあ、翔ちゃんはずっと、運動できる側の子だったからね。小学生の時も、バレンタインにクラスの女の子から何個もチョコレートもらってたでしょ」
「……そうだったっけ」
「そうだよ! ……何が言いたいかっていうと、結局、人ってないものねだりなんだよね」
ないものねだり。
確かに、そうかもしれない。自分が持っていないものを持つ姉ちゃんが、俺は羨ましかった。楽しそうだと思った。
でも、ピアノに――音楽に憧れを抱いたのだって、ウソ偽りのない、事実だ。
「私、茜ちゃんや翔ちゃんみたいになりたかった。運動ができる子とできない子って、見えてる世界が絶対に違うと思ってたの。運動ができる子にしか見えない世界って、絶対にある。いいなあ、私もそのキラキラした世界が見たい。……そう思ってた。でも、」
姉ちゃんは言った。
「そこにあるのは、運動ができるとかできないとかじゃない、ただの、“その人の世界”なんだよね。羨ましがってたってしょうがない! だって、その人の世界は、その人にしか見えないんだもん」
「……うん」
「翔ちゃんの世界には、今、何があるのかな。何が見えているのかな」
諭すような、優しい声。
俺の、世界。
姉ちゃんでもない、金子でも、清水でも、天野でもない、俺の世界――。
考え込む俺に、姉ちゃんはそっと笑って、「まあまあ、たくさん悩みなさいよ、まだ若いんだから!」なんて言い、ぽんっ、と肩を叩いてきた。
その時。まるで俺たちの話に区切りがついたのを見計らったように、ピンポーン、とチャイムが鳴った。はあい、と返事をしながら、モニターを覗き込む姉ちゃん。数秒して、「あらら」と楽しそうな声が聞こえてきたと思うと、
「翔ちゃん、お客さんみたいだよ」
「え」
言われて覗き込んだモニターには、むすっとした顔の金子が映っていた。
*
玄関を開けた先に立っていた金子は俺に、ちょっと歩こうぜ、と提案してきた。
ちょっと歩く? は? どこまで? なにしに? 混乱していると、姉ちゃんが「いいじゃん。ついでにコンビニで抹茶のアイス買ってきて」なんて言うので、とりあえず家から歩いて五分のコンビニへ向かうことにした。
歩き始めてしばらく、金子は無言だった。そういえば、まだ練習の時間なんじゃないだろうか。もしかして、サボりの俺を怒りにきたのだろうか? ……いや、それにしては、妙な空気だ。
「お前、バスケ好きじゃねーの?」
ややあって、金子はポツンとそう訊いてきた。しょぼくれた顔をしている。試合で負けたときだって、金子はこんな顔をしない。
「……わかんない」
俺は言った。本当にわからなかったのだ。好きか嫌いか、なんて。
金子は俺の返答に不満そうな顔をしたが、文句は言ってこなかった。ただ黙って歩き続ける。
「俺は好きだよ。お前と一緒にするバスケは、特に」
「……うん」
「……俺、小三の時に転校してきたじゃん?」
金子は言った。もうすぐ日が暮れる。沈みかけの夕日に照らされて、色素の薄い薄茶色の髪が透けて見えた。
「前の学校で、いじめられてたんだ」
「え……」
「笑えるだろ。だせーだろ。それでこの町に逃げてきたんだ」
思わず歩みを止める。金子も合わせて立ち止まる。
いつも明るくて、騒がしくて、リーダーシップがあって、とにかく熱くて、みんなに慕われている金子。
それが、いじめられていた、なんて、想像もつかない。
「すげーくだらないきっかけだったと思う。ドッチボールで、外野にパス回さないでずっと内野でボールキープし続けてて、それがむかついたからとか、なんかそんなんだったと思う。でも、小学生なんてそんなもんだよな。翌日学校に行ったら、みんな俺のことなんて見えてないようにふるまいだしたんだ。チラチラこっち見て、にやにや笑ってる奴もいるし。すぐに状況を理解して……俺、びっくりしたし、悲しかったよ」
「……うん」
「でも、俺に対するいじめ自体はすぐに収まったんだ。俺の反応が薄かったからかなんなのか、とにかくみんな飽きて……今度は、ターゲットを変えだした。クラスの、もっと気の弱い男子にさ。俺ももちろん加担しろって言われたよ。また自分がターゲットになるのが怖くて、俺、必死でみんなのノリについていこうとしたんだ。そしたら……なんか、すげーしんどくて。自分がいじめられている時よりしんどかったかもしれない。いじめは段々エスカレートしていって、ある日、耐え切れなくなって親に相談したら、学校を変えようかって提案してくれて、それでここへ来たんだ」
もう長いこと一緒にいるのに、全然知らなかった。俺は、頭の中でさっき姉ちゃんに言われたばかりの言葉を思い浮かべた。
――みんなそれぞれ、自分の世界を持っている。
「そうしたら、同じクラスにお前がいてさ。お前ってなんか……ぼーっとしてるっていうか、脱力系っていうの?」
「は、はあ?」
「俺、すごいいいなって思ったんだ。……なんか、他人に流されないかんじとかさ」
そんなことない。そんなことは全然ない。
俺は黙って、少し前を立つ金子の横顔を見た。冗談ではなく、本気で言っているのだということがよくわかる、ちょっと寂しそうな表情をしていた。
「でも、蓋を開けたらどうだよ。……お前は、バスケなんかべつに本気でやってない、みたいなこと言うし。はあ!? ってかんじだったよ」
「う……」
「じゃあ俺は、ずっと、本気じゃない、空っぽのヤツに認められたくて頑張ってたのかって、そう思うとすげーむかついた」
金子は言った。
「なあ。お前、本当はどう思ってんの? 俺、はっきりさせたいんだ。だって、お前って全然自分の意見とか言わないじゃん。やっと口を開いたかと思えば、この間みたいなこと言うし……言わなきゃ変わんないことって、あるんじゃないの?」
言わなきゃ、変わんないこと。
胸がドキドキいっている。金子の言っていることは正しい。口に出さなきゃ伝わらないことが、世の中にはきっとたくさんある。拗ねて、自分の中にだけ気持ちをとどめておくなんて、そんなの勿体ないのかもしれない。
「俺……本当は、ミニバスじゃなくてピアノ教室に通いたかったんだ」
俺は言った。自分の声がちょっと震えていることに気が付いて、それがなんだか可笑しくて、笑いだしたいような気持になった。
「でも、たぶん、バスケも好きだったんだと思う。好きじゃなきゃ、あんなにしんどい練習やってけないよ。うん、きっと、絶対にそうだ。……でも、中学に入ったら、本当は吹奏楽部に入ってみたかった。音楽に触れたかったんだ。自分に、音楽の才能があるかないかなんてわからない。これっぽっちもないのかもしれない。でも、それでもいいからやってみたかった。才能がないならないで、音楽に触れて、失敗した! って大笑いしたかった」
そう言い切ると、少しの沈黙の、やがて金子は、
「な……」
な、な、な――と。唇を震えさせ、
「なんだよーっ!」
と、叫んだ。
「じ、じゃあ、お前、本気だったんだな。一年の時、俺が男バスの仮入部に誘ったら、吹奏楽部に入りたい、とか言ってたの。あれ――冗談じゃなくて、本当の本気だったんだな!?」
「うん」
「……ごめんっ」
勢いよく、金子は頭を下げた。ごめん、悪かった、本当にすまない、と謝罪の言葉を口にしながら。俺はびっくりして、目を丸めながら慌てて「い、いや、金子が謝る必要はないだろ!」と言った。
「いいや。俺がお前の二年間を奪ったと言っても過言じゃない。……でも……それにしても、お前、」
「え」
「ちゃんと言えよ、そういう大事なことは! 友達だろ!?」
大きな声で、聞きようによってはこっぱずかしいことを叫びながら、金子はそう言った。じろじろと、道行く人たちが俺たちを見てくる。若いねえ、青春だねえ、とでも言いたげな目で。俺は恥ずかしくなって、「お、落ち着けよ」と金子をいなした。
「俺はばかだから、言ってくれなきゃわかんないよ。世の中にはきっと、俺みたいなばかがたくさんいるよ。なあ、お前、そんなんじゃこれから先、どうすんだよ」
「……はは」
「はは、じゃねーだろ!」
頭を抱えて蹲る金子。その様子がおかしくて、俺はまたくすくす笑った。
ザァッ、と春の生ぬるい風が吹く。芽吹いたばかりの草花の、青臭い匂いがツンと鼻をくすぐった。
「なあ、じゃあ、バスケ部辞めろよ、お前。それがいいよ。今からでも吹奏楽部に入ってさ……」
「……そんな泣きながら言われても」
「泣いてねえ! なめんな!」
そう言いつつ、金子はごしごしと右腕で目元をこすった。
ぽろん、ぽろん、と美しい音を奏でる、姉ちゃんの指先。俺は確かに、あの光景に憧れていた。そしてきっと、今でも憧れている。
……でも。
なんだか今は、妙に満たされた、良い気分だ。上手くいえないけれど、目が覚めたような――
「なあ、じゃあ、一緒に練習してくんない?」
「……は?」
「俺、弾けるようになりたい曲があるんだ。それに……わがままに思われるかもしれないけど、でも、俺、やっぱりバスケ部も辞めたくない。バスケ自体も、やっぱり好きだし……なにより、俺たぶん、バスケ部のみんなのことが好きなんだ。うん、そうなんだ、俺」
なんだ。こうして言葉に出してみてわかった。何も持っていないと思っていたのに、俺は案外色々持っていた。
きっとみんな、そうなんだ。
抱えきれないたくさんのものを両手に持っていて、そのせいで視界が覆われて真っ暗に思えてしまう時があるだけで、ちゃんと目をこらしてみれば、そこにはきっと、何かがある。大切にしたい何かが、きっと。
「……お前って、ほんと、」
金子は言った。
へなへなと、肩の力を抜きながら。
「脱力系!」
「あはは。そうかも」
ぽろん、ぽろん、と音がする。頭の中で、いつだって。
いつか、俺の指先が、その音を奏でるだろう。
最初のコメントを投稿しよう!