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相沢 志保
美術室に来ると、ホッとする。
あちこち絵の具の飛び散った、木製の机と椅子。
ツン、と鼻をくすぐる、油絵のにおい。
無造作に置かれた筆やキャンバス、イーゼル。
その日の授業で生徒たちが描いた絵を乾かす、スチール製の棚。
まるで遠い世界から聞こえてくる声みたいに、窓の外から響く、運動部の掛け声。
ここが、ここだけが私の世界。
私が、安心して過ごせる場所。
そう、思っていたのに。
「でさー。マジ、着信とか超しつこくって。無視すると、“なんで出ないの?”“俺なんかした?”とか、連投してきて、通知がそいつだらけになって。こんだけシカトされてんだから、察しろや! ってかんじじゃない?」
「なにそれ、キモっ。でも、いるよねー。付き合ってもないのに、やたら彼氏面してくるヤツ。あたしもこの前さー……」
ぺちゃくちゃと騒がしい話し声が、私を含めて三人しか人のいない放課後の美術室に響いている。私はイライラしながら、手に持っていた筆の先を画用液につけ、青色の絵の具の色をうすめた。
妙に崩した、下品な言葉遣いって、聞いているとなんだかイライラしてくる。それに、そういう汚い言葉遣いをしている子たちが話す内容って、私からしたら心底くだらないって思っちゃうようなものばかりだし。
だれとだれが付き合ってるとか。だれだれがだれだれにフラれたらしいとか。そういうのばっかり。
教室にいる間、私は周りが話す、そういうくだらない会話を極力耳にいれないようにしながら、じっと黙って本を読んでやり過ごしている。
本当は、イヤフォンで耳をふさいで、お気に入りの音楽でも聴くことができたならいいのに、とは思うけど、残念ながら学校にスマホの持ち込みは禁止なので、自分の力でなんとかするしかない。
でも、美術室にいる間だけは違った。
キャンバスに向き合って、どういう絵を描こうか、どんな色を使おうか……と考えている時だけは、私は自由になれた。
だから私は、毎日のように放課後、美術室に入り浸った。美術部の活動は週に二回、月曜と木曜だけだけど、顧問の井上先生に声さえかければ、いつでも部室を使っていいことになっている。
私みたいに、熱心に絵を描く部員は、十六人しかいない美術部の中でもかなり珍しい。むしろ、私くらいしか本格的に取り組んでいる子はいないかもしれない。
みんなそれなりに絵を描くことが好きな子たちではあるんだけれど、コンクールとかに自主的に出展しようという心意気を持つまでではないようだ。
たいていの子たちは、ノートや画用紙に好きな漫画やアニメのキャラを描いて、同じ漫画が好きな子どうしでお喋りしたりして時間をつぶしている。部活で描いたイラストを、家に帰ってからSNSにあげたりもしているみたいだ。
そんな中、私は一人、もくもくと、油絵に時間を、体力を、精神を注ぎ込み続けた。
美術部の子たちのことは、嫌いじゃない。べつに好きとも思わないけど。でもみんな、誰かをばかにするようなことは言わないし、けっこう大人しいタイプの子が多いからか、喧嘩とか争いも起こらない。私が一人で絵を描いていたって、意地悪を言ってきたりする子はいない。教室で絵なんて描いていたらこうはいかないだろう。
学校の中で唯一、心を乱さずにいられる場所。
私にとって美術室は、最後の砦と言ってもいいくらいだったのだ。
……それなのに。
事件が起きたのは、今から一か月前。四月の頭のことだった。
「今日から美術部に入ることになりました、沢城亜子でーす」
「中西香奈実でーす」
黒船が来航した時の浦賀って、こんなかんじだったんじゃなかろうか。
自分たちとは本質的に違うであろう人たちが、土足で自分たちの世界に入り込んでくる。侵略といってもいいくらいだ。
でも、黒船来航と違って、私たちが彼女たちと和親条約を結ぶことは決してなかったし、この先もきっとないだろう。
私たちののどかな生活に、黒船に乗って突撃してきたのは、私と同じ二組の沢城さんと、五組の中西さんの二人組だった。
二人は元々、何の部にも所属していなかったが、三年生になって、受験を意識しだしたのだろう。なんでもいいからとりあえず部活に入って、“部活をやってた実績”がほしいみたいだった。そういうのが露骨にわかるくらい、二人は美術部に馴染もうという努力を全然しなかった。
まず、出さなければいけない提出物を出さない。
美術部は月に一度、部員全員がなんらかの作品を提出して、美術室前の廊下に飾ることになっている。たいていの人が画用紙に絵を描くが、写真や模型、もっといえば彫刻品とかでも構わない。私はテスト前とかで時間がない時以外は油絵を描いて提出するようにしているが、表現の仕方は人それぞれだ。
運動部みたいにわかりやすく大きな大会がない中、月に一度の作品提出は、私たちにとって活動の指標のようなものだった。提出日が近づけば、普段はおしゃべりしている子たちも、静かに作業に取り組むようになるし。
しかし、沢城さんと中西さんは、作品の提出を拒絶した。
「えー。うちも亜子も、絵とか描けないし」
「え、絵じゃなくてもいいんだよ。写真を撮って、現像するだけでもいいから……」
「それってえ、自撮り写真でもいいわけ? フォトショで加工した超盛れてるヤツ!」
「ウケる! てか、そんなん飾ってどーすんだよ」
「ラインのID載せて、彼氏募集中でーすって書くの」
「やばっ、天才かよ!」
キャハハハ、と笑い声が響く。井上先生に任命を受けて、二人に対しておそるおそる声をかけた部長の吉野さんが、はは、と乾いた笑みを漏らした。
イライラする。私は、キャンバスに向き合いながら、耳障りな声を遮断しようと、深呼吸をした。
「てか、うちらのことは気にしなくていいから」
沢城さんがそう言って、「ねえ、香奈実?」と中西さんに同意を求める。沢城さんは、制服こそだらしなく着てはいるけれど、それ以外は特段規則を破ったりはしていない。黒髪ショートヘアの色白で、黙っていればお人形さんみたいにかわいらしい顔立ちをしている。ずっと黙ってればいいのにと思う。
「そうそう。うちら、べつに絵を描きたくてここにいるわけじゃないっていうか……うちはハヤセンに、亜子はカナセンに言われてえ、とりあえずどっか楽そうなところに入っとくか、ってなっただけだから」
続いて中西さんが口を開く。
中西さんは沢城さんとは逆のタイプで、見るからに不良、ってかんじの見た目をしている。黒髪だらけの中学生の中でひと際目立つ、金色の髪。マスカラを塗りすぎてバサバサのまつ毛と、頬には薄くチークが塗られている。髪染めも化粧も校則で禁止されているというのに、何度注意されても彼女は自分の身なりを正そうとはしない。
二人の声は、ひと際大きく、メガホンでも使っているんじゃないかってくらいの勢いで、美術室に響き渡る。そういうのに、私はイライラしてしまう。
二人が美術部に入った動機は、正直どーでもいい。でも、熱量は各々違えど、きちんと活動をしている人たちがいる前で、「とりあえず楽そうだから」なんて理由で入ったなんてことを言う必要、ある? みんなが嫌な気持ちになるって、わかんないのだろうか。
結局、部長の吉野さんはそれ以上強く言えるわけもなく、「じ、じゃあ、気が向いたらよろしくね」なんて逃げ越に言い残して、ピャッと効果音がつきそうなくらいの勢いで二人の元を離れた。
それ以来、美術部はどこかギクシャクとぎこちない空気を漂わすようになった。
今まで好きに漫画やアニメのお喋りをしていた子たちも、二人が入部してきてからというもの、やりづらそうにしている。
教室でそういう、いわゆる“オタクトーク”をすると、周りのオタクじゃない人たちに笑われたりばかにされたりするから、それと同じように二人に笑われたりするのが怖いのだろう。
今までは、月曜と木曜以外の日にも、そこそこ人が集まっていた美術室には、いつしか私と、沢城さんと中西さんくらいしか来なくなった。
二人はとにかくお喋りできる場所がほしいようで、人の来ない美術室はそれにうってつけなのだろう。
耳障りなお喋りを聞きながら、私は今日も一人、キャンバスに向き合う。
――この絵は。この絵だけは、なにがあっても完成させたい。
「うわっ、また着信だよ。亜子、悪いけどあたし、今日はもう帰るわ」
「は? ……この後パリコ行くんじゃなかったのかよ」
「ごめんって! 拗ねんなよー。じゃっ、またね」
「あっ、ちょっと!」
スマホの軽快な着信音が鳴り響いたかと思うと、そんなやり取りの末、中西さんはそそくさと美術室を出て行った。
持ち込み禁止のスマホをあんなに堂々と持ってきていて、しかも私がここにいるのに隠そうともしないなんて。私はなんだか、お前なんか眼中にない、とでも言われているような気持になって、イラッとした。
しかし、中西さんが帰ってくれたのは、好都合だ。
きっと、沢城さんの方もすぐに帰るだろう。そうしたらようやく、絵に集中できる。自分ひとりの世界で、好きなだけキャンバスに色を重ねて――
そんな風に思っていたのに、沢城さんは一向に帰ろうとしなかった。
美術室のいちばん後ろのスペースで、窓の方を向く形でキャンバスに向き合っていた私は、教室の前の方の窓際でぼうっと窓の外を見る沢城さんの姿をチラチラと盗み見た。
やっぱり、黙ってさえいれば可愛らしい。まさしく“絵になる”見た目をしている。
教室にいても、沢城さんは基本的に騒がしい。同じような、ギャルっぽい子たちといつも群れて、私にはとうてい理解できないような話を大きな声でしている。だから、こんなに静かな沢城さんの姿は、はじめて見た。
静かにさえしてくれるのなら、この際構わない。私は目の前の絵に集中しようと、よしっ、と気合をいれた。
その時だった。
「その絵、幽霊?」
ぽつん、と透き通るような声が聞こえてきた。びっくりして顔を上げると、さっきまで離れたところにいたはずの沢城さんが、真横で私のキャンバスを覗き込んでいた。
からかうような調子でもない。いつもの、あのおちゃらけたかんじでもない。ただ静かに投げかけられたその質問。私は驚きながらも「……う、うん」と短く返した。
「ふーん」
じっと、何かを見定めるような視線が、絵に注がれる。
しばらくして沢城さんは、近くに置いてあった椅子をガタガタと引きずりながら持ってきて座り、「見てていい?」と言ってきた。
私は内心かなり動揺していたが、そういうのを表に出さないように平然とした態度を装って、
「べつに……勝手にすれば」
と、返して、筆を持ち直した。
結局その日、沢城さんは日が暮れるまで私が描くのを見ていた。
最終下校時刻の十分前を告げるチャイムが鳴ったところで、「じゃ」とだけ言い、さっさと帰ってゆく。
……なんだったんだ、一体。
そう不思議に思いながらも、まあただの気まぐれ、良くて暇つぶしだろう、と結論付けて、私は立ち上がり、片づけをはじめた。
*
しかし、それ以来沢城さんは、たびたび私が描く様子を見学するようになった。
中西さんは、“超しつこい”とうざがっていたはずの他校の男子と付き合いはじめたようで、放課後決まった時間になると「ごめーん、亜子」と言って帰ってゆく。残された沢城さんは、部の活動日の月曜と木曜は自分もそのまま帰るけど、それ以外の平日は、ただ黙って私の様子を眺めるようになった。
私は何も言わない。「どうしたの?」とか「絵に興味あるの?」とか「中西さんって騒がしいね」とか、彼女に対して何も語り掛けない。沢城さんも何も言わない。ただ二人で黙って過ごし、時間になったら解散して、各々帰ってゆく。
放課後の美術室での静かさがウソのように、教室での沢城さんは騒がしい。恋バナに花を咲かせたり、流行りの化粧品や服やドラマや映画の話をしたりと、よくしゃべる。思わず、二重人格なのか? と疑ってしまうくらい。
私がそんな疑念を抱きはじめた、五月終わりのある日。
沢城さんは珍しく口を開き、私に話しかけてきた。
「星の王子様みたい」
「……え」
「あんたの絵」
星の、王子様。
私は、頭の中で、金色の髪をなびかせて立つ、一人の少年の姿を思い浮かべた。
「……サンテグジュペリの?」
そう訊くと、沢城さんは一瞬目を丸めた後、なぜか嬉しそうにそっと微笑んで、「うん」と言った。
私はその時、はじめて沢城さんと言葉が通じた、と思った。
それまでは、同じ言語を話しているはずなのに、彼女のことをまるで遠い星に住む宇宙人のように思っていたのだ。失礼な話だが、私がそう思ってしまうのも仕方ないだろう。
沢城亜子という人間は、それくらい、私にとっては遠い人物だったのだ。
「あんたの絵、宇宙に幽霊が放り出されて、はしゃいでるみたいに見える」
「! うん。そういう絵が描きたかったんだ」
「やっぱり」
にやっ、と沢城さんが笑う。得意げに。私はハッとして、慌てて視線をキャンバスに戻した。自分が描こうとしていたものを、表現したかったものを、ズバリと言い当てられて、嬉しい半分ちょっと悔しかった。
私はちょっと迷ったが、自分の作品に対して誰かが感想を述べてくれる、なんていうのは、創作活動をする人なら誰だって嬉しい気持ちになるはずだ。……例え相手が沢城さんだとしても、私はやっぱり素直に嬉しくて、「でも、」と彼女に対してはじめて自分から口を開いた。
「……どうして星の王子様なの?」
「読んだことない?」
「あるけど、わりとあやふやだから」
「ふーん」
沢城さんは、窓の外の夕日に、眩しそうに目を細めてから、すうっ、と息を吸い込んだ。それから、ゆっくり、ゆっくりと、もったいぶるように口を開く。
「『――夜になったら、星を見て。僕の星は小さすぎて、どこにあるのかわからないだろうけど、その方がいいんだ。だから君はどの星を眺めることも好きになる。全部の星が君の友達になるんだ』」
それは、確か――王子様が消えてしまう時に、パイロットに対して言った言葉だ。おぼろげにだが、覚えている。
私は何も言わず、沢城さんのきれいな横顔をじっと見た。騒がしくて、読書なんて微塵も興味がなさそうな彼女が、星の王子様のセリフを覚えているなんて、心底意外だった。
「……人が死んだら星になるって、よく言うじゃん」
やがて沢城さんはそう口を開きだした。でも、私に対して言っているんじゃなくて、自分自身に語り掛けているような、そんな変な口調だった。
「あたし、あれ、ずっと納得いかなかったんだ。あの人は星になったんだ、星になって私たちを見守ってくれている、とか、フィクションの世界ではよく言うけどさ。残された人たちが自分たちを励ますために、どーにか綺麗な妄想を捻りだしてるってかんじがして、正直サムイと思ってた」
わあわあと、窓の外から運動部たちの掛け声が聞こえる。今日は水曜日だから、たぶんグラウンドはサッカー部が占拠しているだろう。
「でも、星の王子様を読んだ時に思ったんだ。死んだら星になるっていうのはさ、残された人たちの妄想じゃなくて、死んじゃった誰かの、精一杯の優しさだったんじゃないかなって。だって、そうでしょ? 夜空を見上げるたびに、どれがあの人の星だろう、って考えるようになるんだよ。それって、ちょっと寂しいけど……でも、王子様の言う通り、全部の星が友達になるみたいで、ちょっと素敵じゃん」
私は何も言わなかった。何を言っても白々しいかんじになってしまう、ということが、不思議なくらいによくわかった。それにきっと、沢城さんはべつに、私に対して何か言ってほしくて今の話をしたわけじゃないだろうなと思った。
「……ごめん。あたし、しゃべりすぎた。ウザいね」
「いや……べつに」
そこで、チャイムが鳴り響く。最終下校時刻まで、あと十分だ。
いつも通り、「じゃっ」と言って去ろうとする沢城さん。
私はなんだか胸がザワザワして、「ねえっ」と声をかけた。沢城さんは、ちょっとびっくりしたように目を丸めてから、「なに」と私に向き直る。
しかし、呼び止めた所で言いたいことなんてない。焦った私がひねり出したのは、
「……ぎ、銀河鉄道の夜、読んだことある?」
という、唐突にもほどがある質問だった。
しかし、沢城さんは、やっぱりにやっと笑って、
「――カムパネルラ、ぼくたちまた二人きりになってしまったね」
と。言うのだった。
きっと今の私たちの会話は、他の人たちからしたら意味不明と思われるだろう。
それでもその時、私たちは、まるで“共通言語”を得たっていう気持ちになったのだった。
私はなんだかドキドキして、筆を握る自分の手が震えていることに気が付いた。
――誰かと、言葉を、いや、心を通わせたのは、もうずいぶん久しぶりなような気がした。
*
小さな頃から絵を描くのが好きだった。得意だった。
幼稚園でも、小学校でも、私が描く絵は他のどの子よりも上手だったし、コンクールで賞をとったことだってある。描いても描いても描き足りなかった。両親はそんな私を優しく見守ってくれたし、「志保の将来は画家かなー」「いやいや、漫画家もあり得るぞ」なんて楽しみにしてくれていた。
他の子たちが休み時間にドッチボールをしていても。ドロケイをしていても。何人もで集まって恋バナに花を咲かせていても。私の興味は傾かない。時間があれば絵を描いていたかった。
低学年の時までは、まわりの子たちは私をちやほやしてくれた。みんな、「すげー」「ねえ、お姫様の絵描いてー」とか言って、私の机の周りはいつも人で溢れていたものだ。私は誰かに絵を描いてと言われるのが嬉しくて、得意になってなんだって描いた。私が描いてあげた絵を、「みてみて、志保ちゃんに描いてもらったー」と誇らしげに自慢する子もいて、そういうのを見ると気分がよかった。
それなのに。
高学年になると、私に対する周囲の目は、ぐるりと百八十度変わってしまった。
もくもくと一人で絵を描き続ける私に対し、周りの子たちは「あいつ、暗くない?」とか「てか、自分は特別だと思ってるよな」とか「ぶっちゃけそこまで上手くねーし」とか言うようになったのだ。
私はそれに、素直に傷ついた。
どうして好きなことをしているだけなのに、周りにとやかく言われなくちゃいけないのか、本当にわからなかった。今でもよくわからない。わかる人がいるのならぜひ教えてほしい。
悔しかったし、悲しかった。
絵を描くのをやめようかとも思った。スケッチノートを捨てて、へらへら笑いながら、「なんか、飽きた! 私もいれてー」って、“みんな”の輪に飛び込もうかと、何度も何度も考えて、頭の中で予行練習までした。
でも、できなかった。
絵を描くことを心底好きだからとか、そんな綺麗な理由じゃない。
勇気がなかったのだ。
仲間にいれてって言って、拒絶されたら?
ばかにされて、くすくす笑われたらどうしよう。
――そんなみじめな思いをするくらいなら、ずっとこのまま、一人でいた方がいい。
いつしか私は、絵を描くという行為そのものに、しがみつくようになっていたと思う。
楽しいからとか、描きたいからとかじゃなくて、絵を描いていないと自分には存在価値なんてないような気がした。そうやって、追い詰められて描いた作品は、どれもこれも納得のいく仕上がりにはならなかった。描いても描いても気に入らない。
気分が落ち込むと、全体的に暗い色ばかりを使った作品ばかり仕上げるようになった。まるで自分の心がそのままキャンバスに反映されているみたいだった。
……そんな時だった。
今描いている作品を描き始めよう、と思いついたのは。
「亜子、美術部に入ったって、あれマジなの?」
ざわざわと騒がしい教室で、からかうような口調の声が聞こえてきて、私はハッとした。
私の席は、廊下側の、後ろから二番目の位置にある。対してその声は、私の左斜め前の方から聞こえてきた。
沢城さんと仲の良い、須藤さんという、やっぱりちょっと派手な女の子が、にやにやと嫌な笑みを張り付けながら、沢城さんに話しかけている。須藤さんはサッカー部に入っていて、発言力が高く、クラスの中心的な人物だ。でも、文化部の子たちに対する態度がどこか偉そうで、私は正直苦手だ。
運動部の子たちの中には、文化部のことをばかにしたような態度をとってくる子が一定数いる――ように思う。べつに口に出して何かを言われたわけではないけど……でも、運動部と文化部の間には、目に見えない、ものすごく深い溝があるように思う。私が勝手にそう感じているだけだろうか?
そして、須藤さんからはとりわけそういう嫌なかんじが強く感じられるのだ。
「うん。マジマジ。言ってなかったっけ?」
「聞いてねーっ。なんでまた美術部?」
「楽そうだったから。あたし、運動できねーし」
昨日、あの夕暮れの美術室で、すらすらと星の王子様のセリフを引用したのと同じ人物にはまったく思えないような、乱暴な言葉遣いで、沢城さんは須藤さんにそう話す。
ほんの少しでもわかりあえたような気になれたのに、あれは気のせいだったのだろうか。……きっとそうだ。私はなんだか裏切られたような気持になって、ぎゅっと拳を握りしめた。
「美術部ってなにすんの? 亜子、絵ぇ描くわけ?」
「いや、描くわけねーじゃん」
「おいっ、じゃあなんのために入ったんだよ!」
キャハハハ、と笑い声。うるさい。むかむかするし、イライラする。どうしてああいう子たちって、無駄に大きな声で喋るんだろう? 存在を主張するみたいに。
「てかぶっちゃけ、陰キャの集まりでしょ」
続けて聞こえてきた須藤さんの言葉に、私はぐっと下唇を噛みしめた。
陰キャ。陰キャラ。性格が暗い人たちのことをばかにする言葉だ。
……はいはい、そうかもね。あんたたちからしたら、陰キャの集まりに見えるかもしれないね。でも、だからなに? そう思ったところで、わざわざそれを口に出す必要、ある?
「言えてる」
沢城さんはそう言って、キャハハ、と笑った。
私は俯き、机の中からカバーつきの文庫本をそっと取り出し、しわがつきそうなくらい強くその表紙を握りしめた。
昨日の夜、本棚から引っ張り出した、『星の王子様』。
お話の中で、砂漠にただ一人放り出されたパイロットと違って、私の元には誰もやってこない。
この先も、きっとずっと。
放課後になると、雨が降り出した。そろそろ梅雨の季節がやってくる。
私は雨がわりと好きだ。傘をさして歩いていると、なんとなく守られてるって気持ちになってくるし、濡れたアスファルトの匂いを嗅いでいるとほっとする。
今日は木曜日。本来なら、部活の日だ。
でも、なんだか憂鬱で、行きたくない。沢城さんの顔を見るのが怖い。意味もなく、一人で傷ついちゃいそうで。
毎日真面目に活動をしているのだから、一日くらいサボッたところで、きっと何も言われないだろう。そもそも、運動部と違って、サボったところで誰かに迷惑をかけるとかもないし、私一人がいなくたって、みんなそんなに気にしない。
なんだか油絵を描く気になれなかったので、スケッチでもしようかと思い、スケッチノートを探して鞄に手を突っ込んだが、見当たらない。昨日、慌てて帰ったから、美術準備室に置いてきてしまったのだろう。
間が悪い。私はため息をついて立ち上がり、美術準備室に向って歩き出した。
しとしとと、雨が降っている。行き場をなくした運動部たちが、廊下や階段を使って練習をしていて、汗のにおいが充満している。
騒がしい人の波の中を潜り抜けて、やっとたどり着いた美術準備室。
すぐ隣の美術室とは、内扉で繋がってはいるけれど、基本的には行き来できないよう施錠されている。まあ、美術準備室に用事があるような人なんて、井上先生か、美術部くらいだけれど。
扉に手をかけようとすると、中から話し声が聞こえてきた。
「――ちょっと、流石にやばいって、」
「だって、しょーがなくないっ!?」
「あーあ、知んないよ、もう」
ドクン、ドクン、と、心臓が嫌に高鳴る。
声は、全部で二人分しか聞こえてこなかった。最初は焦ったように、しかし徐々に、「布で覆っとく?」「端に寄せときゃいいっしょ」「てか、こんなところに置いてる方が悪いんじゃんね」と、苛立っているかのような声色になってゆく。
私は、震える指先で扉に手をかけ、ゆっくり、ゆっくりと横に引いた。
「――あ」
やべっ、という、対して悪びれていなさそうな声。
そこに広がっていた光景に、私は自分の目を疑った。
私の、油絵のキャンバスが、無造作に机の上に置かれている。
昨日はきちんと、イーゼルに立てかけて帰ったはずなのに。
震える足で一歩一歩近づき、間近で見ると、淡い青色の絵の具で描いた絵の真ん中に、真っ赤な絵の具で一本線が描かれている。言うまでもなく、私が描いたものじゃない。
静かで、落ち着いたトーンに仕上げるはずだったこの絵に、こんなひねりのない、べたっとした派手な赤色、私が使うわけがない。
「あ……え、なに、これ」
「あー、これ、相沢さんの?」
私にそう問いかけてきたのは、中西さんだった。一緒にいるのは、ちょっと気まずそうな顔の須藤さんだ。
「いや、マジ、ごめんっ。うちら、美術の課題まだ提出できてなくて。ほら、あったじゃん、身近にある好きな風景を描けってやつ。それでさ、放課後残って描こうぜって、泉とここにきてさ、美術室は美術部が使ってるし、じゃあ準備室でやるかーってなって。そんで、ちょっとふざけてたら、あんたのその……あー、空の絵に、筆がかすっちゃって。でも、邪魔なとこにあったし、」
ロクに水で薄めたりせずに、乾いた筆に絵の具をべったりつけましたってかんじの、主張の激しい赤色。慌てて消そうとしたのか、ティッシュかなにかで拭おうとした跡があって、それで余計に色がにじんでしまっている。
そういうものをじっと見ながら私は、自分の呼吸が浅く、速くなってゆくかんじがした。胸が痛い。苦しい。こんなことははじめてだった。
「相沢さん、ねえ、怒んないでよ。ごめんって言ってんじゃん」
「……もしかしてうちら、マジギレされてる?」
中西さんの問いかけに反応を示さない私に対して、須藤さんがどこか可笑しそうにそう言った。須藤さんの口からは、まだ一度も、ごめんの三文字を聞いていない。きっと、本当に悪いとは思っていないのだろう。
私の絵が。
私の――世界が。
ガラガラと、足元から音をたてて崩れてゆく。
どうしてあんたたちは、私からいつも何かを奪おうとするの? あんたたちはいいじゃん。友達がいて、好きな人がいて、恋しちゃってて、興味のあるテレビ番組や俳優や芸人がいるんだから。
私には、絵しかないのに。
絵を描いている間しか、安らげないのに。自分のことを好きでいられないのに。
涙が出そうになるのを、俯いてじっと耐えていると、背後から足音が聞こえてきた。
「あっ、亜子!」
「ちょっとお、遅いよ。今、超修羅場なんだから……」
「えっ、なに?」
沈黙に耐えかねたのか、中西さんと須藤さんは、これ幸いとばかりに新しい登場人物――沢城さんの元へ駆け寄ってゆく。
卑怯者。ちゃんと謝ってよ。そう言いたいのに、声がでない。ちょっとでも言葉を発したら涙が出てきてしまいそうだったので、私は俯き、じっと耐えた。
「なんか、相沢さんの絵がさ、変なところに置いてあって、そんで、うちらが課題やろうとしてたら、たまたま絵の具がついちゃって……」
須藤さんの言葉はずるい。まるで、私が悪いって言っているみたいだ。いや……みたい、じゃなくて、実際そう思っているのだろう。こんなところにこんなものを置いているお前が悪いって、遠回しにそう言っている。
彼女の世界では、自分はきっと今、『真面目に課題をやろうとしたのに、変なところに絵が置いてあったせいで気まずい思いをさせられた被害者』になっているのだ。
俯いて何も言えない私に対して、須藤さんは沢城さんの登場により、水を得た魚のように話し出す。
「ねえ、亜子。なんか相沢さん超キレてて、無視されててさ……」
「……れや」
「……は?」
一瞬の沈黙。
沢城さんが、何を言ったのかわからず、思わず私まで顔を上げ、彼女の方を見ると、
「謝れや!」
と。
びっくりするほど、大きな声と、かわいらしい顔を思い切りゆがめた怖い顔で――彼女は須藤さんと、中西さんを怒鳴りつけた。
驚いた。
何が起きたのかわからなかった。私だけじゃなく、須藤さんたちも同じように困惑している。
「は? ちょっ、ちょっと、亜子、」
「相沢さんがこの絵のために、何日も何日も放課後残って、時間と労力を費やしてたの、お前らわかってる!? お前らが――お前らやあたしが、くだらない話しして、くだらない時間を過ごしている間も、この子は一人でこの絵に向き合ってたの! この絵はこの子の世界なの! それなのに、お前らがこんな、きったない線引いて台無しにして――!」
沢城さんの勢いは止まらない。今にも殴りかかりそうな権幕で、二人に詰め寄る。須藤さんは、一瞬ポカンとおどろいたように固まっていたが、すぐにハッとして反論しだした。
「な……っ、なに、急に? 超サムいんだけど。てか、何様?」
「謝って! ちゃんと、相沢さんに、誠心誠意!」
「意味わかんない! 香奈実、いこっ」
「あ、う、うん……」
「待て、謝れ!」
「さ、沢城さん! いいよ、もういいから」
「よくない!」
思わず掴んでしまった沢城さんの腕は、しかし沢城さん本人によってすぐに振り払われてしまった。同時に、怖い顔がこちらを向く。
沢城さんは本当に怒っていた。顔を真っ赤にして。自分のことじゃないのに、まるで自分のことみたいに―――いや、ひょっとしてそれ以上に怒っているみたいだった。私は唖然としてしまった。当然だろう。だって、教室では、あんなふうに美術部のことをばかにして笑ったりしていたのに。どうして――
「ど、どうしたの? 騒がしいけど……」
隣の部屋で言い争いの声が聞こえてきたのだから、なんだなんだと美術部の子たちが集まってきてしまった。部長の吉野さんが、私たち二人を見て「何かあった?」と不安そうに訊いてくる。
「い、いや、あー……あの、吉野さん。私と沢城さん、今日休むね」
「え……」
「じゃ、そういうことだから。ほらっ、いこっ」
私は、さっき振り払われたばかりの沢城さんの腕をつかんで、無理やり美術準備室から連れ出した。
騒がしい校舎。窓の外は雨。運動部たちの野太い掛け声が、室内にこだましている。若中―っ、ファイ、オーッ、ファイ、オーッ……。そういう、やかましい声を聞きながら、私は沢城さんを、人気の少ない校舎端の、階段の踊り場までつれてきた。
「……ごめん」
ハァハァと乱れる息を整えていると、沢城さんはやがて、ぽつん、とそんなことを言い出した。泣き出しそうにも見えた。
私はびっくりして目を丸め、「なんで沢城さんが謝るの?」と訊いた。
「だって……あいつら、一応、あたしのツレだし」
「うん」
「それに……それにあたし、教室で、失礼なこととか、超言ったし」
「うん」
「……あたし、たまに、こんな自分がすごい嫌になる。大っ嫌いって、そう思う」
そう言って、膝を抱えて、顔を隠しながら、階段に腰かける沢城さん。私はどうすべきかしばらく迷って、同じように彼女の横に腰かけた。
「あたし、あんたが羨ましい」
「……え?」
「ちゃんと自分の世界を持っていて、他人に流されなくて。あたしね、教室の中で、みんながどーでもいいことでわあわあ騒いでて、それがすごく耳障りでどうしようもなくイラついたとき、あんたのちゃんと伸びた背筋とか、涼しい顔で本読んでる姿とか見ると、なんか……ホッとしたんだ」
びっくりした。そんなことを思ってくれていたなんて、全然気が付かなかったから。
こういう時、何て言えばいいのか、わからない。言葉にする力を私は持っていない。
黙り込む私に沢城さんは、「そのまま、聞いてて」と、囁くように言った。
「あたしね、家族と死ぬほど仲悪いの。ママが二年前に病気で死んで、二個上の兄貴は荒れちゃって、悪いことばっかして、パパはあたしと兄貴の面倒を見るのにもううんざりってかんじでさ。ちょっとのことですぐ怒るの。家にいると、すごい息苦しいんだ。誰かがリビングにいると、あとの誰かは絶対に寄りつかないってかんじで、同じ部屋にいるってこと自体が無理なの。
だから、放課後時間を潰せる場所が欲しかったの。あたし、あんたにかなり興味があって、どうにかしてお近づきになりたくて、カナセンに言われたのもあったし……とにかくそういう経緯で、美術部に入ろっかなって決めたんだ。そしたら、面白がった香奈実までついてきちゃって……ごめんね。あたしみたいなロクでもないのが、あんたみたいな、才能のある子の気を煩わせちゃいけないって、わかっちゃいたんだけど」
沢城さんの声は震えていた。ずず、と鼻をすする音も聞こえてくる。
「香奈実や泉が言うこと、たまに、すごい嫌だなって思うの。でも、あたしいつも、やめなよって言えないの。それどころか、だよねーって、みんなに合わせて相槌うったり、笑ったりしちゃうの。
あたしたまに、本当に家に帰りたくない時、あの子たちの家に泊めてもらうんだ。お泊り会しよーとかなんとか、上手いこと言って。それに、あの子たちといると、モテるし。車が運転できるような、年上の男の子に好きになってもらえれば、遠出ができるでしょ? そうしたら、時間を潰せるの。家にいる時間を少なくできるの。でも――ひとりぼっちだと、本を読んだりするくらいしかできない。本って、最後の一ページをめくったら、物語の世界の人たちに置いてかれるってかんじがして、あたし実は、苦手なんだ。あたし――一人になりたくない」
「……沢城さん、」
大粒の雨が、踊り場の窓にぶつかっては消えてゆく。
私たちはそれから、しばらく無言でいた。私も沢城さんも、何も言わない。ただ静かな時間が過ぎてゆく。
「……ごめん。こんなこと言われても、困るよね」
やがて、沢城さんはそんな風に口を開き、顔を上げて、ごしごしと目元をぬぐった。
「絵のこと、本当にごめん。……修復、できない、かな」
「たぶん、むり。……かなりべっとりやられちゃってたから」
「……そっか」
「……私、沢城さんには悩みなんてないんじゃないかって思ってた」
私は言った。相変わらず、胸がドキドキいっている。誰かに対して、こんなに素直に気持ちを話そうという気持ちになるは、ずいぶん久しぶり――いや、もしかしたら、生まれてはじめてかもしれない。指先が、かすかにふるえる。
沢城さんは何も言わない。だから私は、さっきの彼女の真似をするように、「そのまま聞いてて」と、俯く彼女にそう囁いた。
「沢城さんは私に、自分の世界を持っていて、他人に流されないって、まるでそれをものすごく良いことみたいに言ってくれたけど……でも、本当は全然、そんなことないの。私ね、昔、“みんな”の世界に入りそびれちゃって、勇気が出なくて、それで……だからずっと、自分の世界に閉じこもるしかなかったの。教室にいる時だって、みんなが楽しそうにしているとイライラしたし、輪に入っていけない自分がみじめで、悲しかった。だから、いつも友達どうしで楽しそうにしている沢城さんや須藤さんたちのことを、悩みがなさそうでいいなあ、って思っていたの」
「……うん」
「でも、そんなことなかったんだね」
あの騒がしい、三年二組の教室を思い浮かべながら、私は言った。
「ありがとう。須藤さんと、中西さんに怒ってくれて。私、すごく嬉しかった。はじめて誰かに、あんな風に言ってもらえて。あの絵ね……幽霊は幽霊だけど、犬の幽霊の絵なの」
「……犬?」
「うん」
沢城さんの赤い目がこちらを向く。びっくりしているみたいだ。
私はなんだか、他でもない彼女に、自分の話を聞いてもらいたくなって、気づけばすらすらと話し出していた。
「ねえ。スプートニク二号っていう宇宙船で、宇宙に飛び立った犬のこと、知ってる?」
「……ううん」
「ライカっていう名前なの、その子」
ライカ。
はじめてその犬の存在を知った時、胸がギュッと苦しくなって、でも同時に――不思議な親近感を覚えたのだった。
「ライカはね、最初はただの野良犬だったの。でも、どこかの国の宇宙基地が、宇宙船を作るのに、実験体が必要で、そのためにってライカを捕まえたの。わけもわからず、たった一匹で宇宙に放り出されて――それで、死んじゃったんだ」
私は言った。
「私だけじゃない。色んな人がライカのことを思って曲を作ったり、詩や絵を描いたりして追悼した。でも、そんなのライカからしたら余計なお世話だし、きっとめちゃくちゃムカつくよね。それでも私、どうしてもライカの絵を描きたかったの。
私ね、自分がものすごくくだらなくて、とるにたらない存在に思えて、消えてしまいたくなる時、思い浮かべるの。宇宙にたった一匹で浮かぶ孤独な犬のこと。……それで、どんなに心細かったろうって、切なくなる。でも、そうしているとなんだか、ほんの少しだけ気持ちが落ち着くの。だからライカの絵を描きたかったんだ。絵の中ではせめて、狭い宇宙船から解き放たれて、自由に過ごしてほしかった。そして……そしていつか、私も、つまんない世界から解き放たれて、自由になれたら、って。……ごめん、引くよね、こんな話」
「ううん」
沢城さんは、まっすぐに私を見ている。目は相変わらず赤いけど、でも、もう涙は出ていない。
「引かないよ」
沢城さんは言った。真剣な目だった。そこにウソ偽りなんて何一つないんだろうなってことが、よくわかるくらいの。
「でも、それならなおさら、そんなに思い入れのある、大切な絵を、」
「いいの。きっとライカが、『私のことを勝手に絵にしないでっ』って怒ってるんだと思う。だから、もういい。次はもう少し、明るい絵を描くよ」
「……そっか」
沈黙。
私はいっそ焦るような気持で、何か言わなくちゃ、何か、と考えた。沢城さんに対して、とにかく何か言いたかった。でも、上手に言葉が出てこなくて、もどかしい。
「……また、見に行ってもいい?」
少しして、先に口を開いたのは、開いてくれたのは、沢城さんの方だった。不安そうな目がこちらを向く。
胸がザワザワして、くすぐったい。
ずっと、“みんな”の輪に入れなかった。入ろうと努力もしなかった。自分の世界に閉じこもって、絵を描いて、描いて、描き続けて――
その時、私の頭の中で、ある言葉が思い浮かんだ。
黒船、来航。
「……うん、もちろん。鎖国するの、もうやめる」
「え……さ、鎖国? なに?」
本当に、わけがわからない、というような顔をする沢城さん。私はなんだか可笑しくて、あははと声をたてて笑った。
窓の外では、あれだけ振っていた雨がいつの間にか雨がやんで、噓みたいな快晴になっていた。
*
「す、すげーっ。マジですげーっ。相沢さん、絵、超うまい。ピカソじゃん!」
「あ、ありがとう」
「しおり、うちのクラスがダントツ豪華になったなあ。他のクラスはみーんな、おえかきやさん……あ、フリーイラストサイトね。知ってる?」
「うん、知ってる。先生たちもよく使ってるやつでしょ」
「そうそう。それ使っててさ。なんか似たり寄ったりなんだよな。うちは相沢さんがいてよかったなあ」
本当に、心の底からそう思ってくれているのだ、ということがよく伝わるような、そんな熱のこもった言葉を、同じクラスで同じ修学旅行委員の藤本くんは言ってくれた。私は照れくさくて、思わずふいっと顔を反らしてしまった。
「すごいよなあ、絵が描けるって」
「……藤本くんだって、運動できるじゃん」
「いや、それとこれとは別だよ。……ここだけの話、俺、実は最近ピアノの練習しててさ」
「え?」
「まあ、絵を描くのとはまた全然違うだろうけど……椅子に座って、じっと何かに集中するって、めちゃくちゃ疲れるんだなあ。俺、散々やってみたかったくせに、いきなり挫折しちゃっててさ。だから、相沢さんは本当にすごいよ。才能だよ。大事にしてね」
私はびっくりして、目の前の藤本くんをまじまじと見た。
バスケ部で、友達がたくさんいて、顔もけっこうカッコいいから女の子にも密かにモテていて――私から見たら、藤本くんの方がぜんぜん“すごい”のに。
「こんなに上手いんなら、なんでもっと早く言わなかったの? 去年も同じクラスだったけどさ、相沢さん、合唱コンとか体育祭とかの時、しおりに使う絵描いてくれる人ーって言われても、手ぇ挙げてなかったでしょ」
「うん。……去年までは、ちょっと、」
「ちょっと?」
鎖国していたから――という言葉を飲み込んで、私は「ちょっとね」と言い、ふふふと明るく笑って見せた。
「まあいいや。なんにせよ、やりたい時にやりたいことをやるのが一番だよね」
藤本くんは、私の曖昧な態度に気を悪くした風でもなく、そう言ってへへへと穏やかに笑った。少し前だったら、コンプレックスとか、周りへの劣等感とかで、彼とこんな風に和やかに話なんてできなかっただろう。
「俺、高校行ったら、今度はバンドとかやってみたいんだよなー。なんか、ピアノに手ぇ出しはじめたら、色々やれる気がしてきちゃっていうか」
「あはは! すごい、いいなあ。藤本くんのその考え、すごく素敵」
「マジ? まあ……バスケ部の奴らには、バスケに集中しろ! って小突かれてるけど」
その時、ガラリと教室の扉が開いて、「翔太!」と騒がしい声が聞こえてきた。……噂をすれば、ってやつだ。
「委員会の仕事終わったか? 部活行くぞ!」
「はいはい。じゃあ、相沢さん、また明日ね」
「うん。練習、頑張ってね」
隣のクラスの金子くんに引きずられるようにしながら、藤本くんは教室を去ってゆく。
私は彼を見送ってから自分も立ち上がり、鞄を持って、いつもの場所へ向かう。
段々蒸し暑くなってきた、六月の上旬。
関東地方は先日、本格的に梅雨入りしたからか、近頃雨ばかりだ。
パラパラと、雨粒が窓にぶつかる音を聞きながら、校舎を進む。途中、リレーのバトン練習をしながらジョギングをする、陸上部の集団とすれ違った。――「夏帆、もっと腕高くあげて!」「えーっ。てか、咲の力強くて肩もげそうっ」「もげるわけないでしょ!」「ちょっとそこ、二人でイチャつかないでくださーい」――あははは、という笑い声。夏が近づくにつれて、どの部も、大きな大会に向けて本格的に練習に力を入れだす頃だろう。
前だったらイラついてしょうがなかった、周囲の音も、声も。
今はそんなに、悪くないと、そう思えるようになった。
美術室の扉をガラリと開くと、机にかじりつくようにして何かを描く、細い背中が目に入った。
「亜子」
名前を呼ぶと、彼女は――沢城亜子は、ハッとしたように振り向いた。
「遅い!」
「ごめんごめん。委員会の仕事しててさ。……なにこれ、怪獣?」
「は? カピバラだし」
「かぴ……そっか」
「おい、なんだその顔」
むすっとした顔で、亜子は手に持っていた色鉛筆を机に置く。
「やっぱ駄目だ。あたしには、絵の才能はないよ、うん」
「じゃあ、写真は? あと、彫刻とか、ジオラマとか……」
「うーん。写真、写真かあ……それなら、まあ」
私たちは現在、月一提出の美術部の課題に向って、目下作品制作中だ。まあ、私は三日前に水彩画を仕上げて、あとは提出の日を待つだけなのだが。
「じゃあ、さっそく撮りにいこうかな」
「え……今から?」
「当たり前でしょ! なに撮ろっかなー。これは忙しくなってきた」
「……まあ、ほどほどにね。頑張って」
「は!? 志保も行くんだよ」
「え!?」
「さっ、そうと決まれば、ほら早く!」
「あ、ちょっ、ちょっと! 鞄、返してよ!」
バタバタと、私たちは世話しなく廊下に飛び出し、なんだなんだと不思議そうな顔をする人たちの間を通り抜ける。こらっ、廊下は走るな! っていう、体育の岡崎先生の怒った声が飛んできたが、私たちは振り向かない。
小雨が降っているのに傘もささないで外に出て、そこでようやく亜子を捕まえた。あははは、と、亜子が笑うので、さっきまで鞄を取り返すことに必死だったはずなのに、私もつられて思わず笑った。
雨上がりの空に虹が出るような――そんな、物語のように素敵なことは起こらなかったけれど、私の世界には亜子がいた。
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