間宮 光

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間宮 光

(ひかる)、悪いけどおばあちゃん、入院することになったから。だから、あんたはもう自分の家に帰りなさい」  その時、僕は台所でお皿を洗っていた。  これが終わったら明日のために米を研いでセットしておいて……そうだ、卵がもうないから買っておかないと、なんて考えていたら、唐突にそんなことを言われて、水が出しっぱなしなのもいとわず凍り付いてしまったものだ。 「……は?」 「このところずっと体調悪くて、検査しに行ったら肺癌だった。やあねえ、ほんと。そういうわけで、三日後から入院することになったから。あんたはまだ子供だし、一人でここに住まわせるわけにはいかないし、自分の家に帰りなさい」 「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。……えっ? ば、ばあちゃん、病気なの?」 「だからそう言ってるでしょ」  ばあちゃんは涼しい顔してそう言った。  この人はいつもそうだ。とても七十二歳には思えないくらいちゃきちゃきしていて、そして人に対して弱みを見せない。癌なんて診断されたというのに、微塵も動揺していないように見える。 「え、入院って……え? どれくらいの期間?」 「最初は検査入院だから、一週間くらい。検査が終われば一時的には帰ってこられるけど、治療がはじまったらしばらくは戻れないって」 「……そっか」  冷水を、頭から思い切り被ったような気持になった。  ぼうっとして、頭が上手く働かない。病気って、どれくらい悪いの? とか、ちゃんと治るの? とか、そもそも、具合が悪いならどうして相談してくれなかったんだとか――ばあちゃんに言いたいことも、訊きたいこともたくさんあるはずなのに、びっくりするほど言葉が出てこない。  ただ、そうか、僕はもう、この家にはいられないのか、ということだけは、嫌ってくらいによくわかった。思わず、ぎゅっと拳を握りしめる。色んな感情が胸に渦巻いて、なんだか気持ち悪い。 「ごめんね、光」  ばあちゃんは言った。水道から水が流れる音だけが、室内に響いている。  ――ばあちゃんが謝らなくちゃいけないようなことは何一つないよ。僕のことは気にしないで、治療に専念してね。手伝えることがあったら、何でも言ってよ。  本当は、ばあちゃんに対してそういうことを言ってあげたかったし、言ってあげるべきだった。でも言えなかった。  これから自分に降りかかる憂鬱な未来を思い浮かべて、脇腹のあたりがチクチクと痛んだ。      部活ができるヤツっていうのは、恵まれていると僕は思う。  特に運動部。練習着やら靴やら遠征費やら、細かいことを言えば毎日飲むドリンク代やらで、かかる費用はばかにならないだろう。洗濯物だって毎日たくさんあって大変だろうし、怪我をすれば病院代もかかる。  だから僕は、運動部の連中が練習をしているのを見ると、「恵まれているんだなあ」としみじみ思う。家族がサポートしてくれる環境がないと、運動部になんて到底入れまい。  入学したての頃、クラス全員に「仮入部届」と「入部届」が配られた。  うちの学校は、よっぽどの理由がない限り、全員何かしらの部活に入るように言われている。どうしても入れない事情がある場合は、個別に担任に相談しなくてはいけない。 「祖母と一緒に暮らしていて、家事の手伝いをしているので、部活には入れません」  だから僕は、当時の担任の金森先生に、面と向かってそう言った。その言葉に、ウソ偽りは一つもなかった。  金森先生は若い女性の先生で、僕の言葉にちょっと眉を寄せた。怒っているんじゃなくて、心配そうな表情だった。 「そう……おばあさまのお家は、どこにあるの?」 「ここから、自転車で三十分くらいの場所です」 「少し遠いわねえ。……お父さんやお母さんのいる家では、暮らせないの? 確か、すぐそこのマンションよね?」  そう訊かれて、僕は「できません」と真っすぐ答えた。あんなところに戻って生活なんてしたくなかった。でも、そういうことを素直に言うと、教師という生き物はさらに首を突っ込んできて、下手をすれば家に電話をかけられたり、もっと下手をすれば家まで押しかけられたりするということを知っていた。 「大丈夫です。親と仲たがいをしているとか、そういうわけじゃなくて、ただ両親は仕事で家を空けることが多いので、祖母の家で預かってもらっているだけです」 「なんだ、そうだったの」  僕がそう言うと、金森先生はわかりやすくホッとしたような顔をした。  先生にしたって、余計な仕事は増えない方が良いだろう。自分のクラスに、訳アリっぽい生徒がいる、なんて、面倒なことこの上ないはずだし。 「事情はわかったわ。でも……運動部はほとんど毎日活動をしているから難しいかもしれないけど、週に一度や二度しか活動がないような部もあるのよ。例えば、ほら、美術部なんてどう? 週に二回しかないし、入りやすいんじゃないかしら」 「いえ、本当に僕、大丈夫ですので。祖母のことも心配ですし……」 「……そう? でも、せっかく一度しかない中学校生活なんだから、勉強だけじゃなくて、他のことにも熱心になってみてほしいっていうか……」 「大丈夫です」  何に対しての“大丈夫”なのか、自分自身でも中々意味不明だなと思いつつ、僕はにっこり笑ってそう答えた。有無を言わさない口調で。  金森先生は僕の頑なな態度に圧倒されたように一度押し黙り、少しするとやっぱり心配そうに眉根を寄せながらこう言った。 「……わかったわ。でも、もし気が変わったなら、いつでも言ってちょうだい。先生は、間宮くんの味方だからね」 「はい、ありがとうございます」  僕は、やっぱりにこにこ笑いながらそう答えるのだった。   「翔太! 練習行くぞ!」 「はいはい。てかお前、そんな毎日迎えにこなくたって、べつにサボんねーよ」 「藤本、また明日なー」 「おー。てか、天野、今日陸部休み?」 「そうそう。顧問が二人とも来れないから、練習しちゃいけないんだって」 「いーなー、まじかあ」 「志保―、この後マック寄ってかない?」 「吉野さんに提出が終わったらね。亜子、ちゃんと作品持ってきたの?」 「もちろん! 今回のは超自信作なんだから」  放課後の教室というのは、わいわいがやがやと騒がしい。  もう三年生だというのに――いや、三年生だからこそ、なのだろうか、僕にはよくわからないが、とにかく、部活をやってる連中はこのところみんな忙しそうだ。  夏休みが開けて少し経つ、九月の半ば。運動部の中には、大きな大会を終えて、引退を迎えるような奴もちらほら出てくる頃だ。  部活をやっていない僕はいつも、誰に「じゃあね」を言うでもなく、一人でさっさと帰る。なんとなく、放課後の校舎って居心地が悪いのだ。みんながみんな、妙に活気づいてるっていうか……その空気を吸っていると、なんだか胸がモヤッとして、嫌な気持ちになる。  スタスタと、速足で階段を下る。以前だったら駐輪場へ直行し、自転車に乗って帰っていたけれど、今は違う。  僕が二年生になってすぐ、入院しはじめたばあちゃんは、中三のはじめに死んでしまった。  あんまりにあっという間だった。  おいおい、そりゃないよ、と思った。悲しいのに、不思議と涙は出なかった。  いつでもテキパキと動いて、自分のことはなんでも自分で片付けていたばあちゃんは、ひとたび入院をすると見る見るうちに弱っていった。まるで病院そのものに生気を吸われているみたいだった。  最初の頃は、僕がお見舞いに行くとからから笑って、やれ病院のご飯がおいしくないだの看護師さんの態度が悪いだの愚痴っていたばあちゃんだが、月日が経つにつれてどんどん口数が少なくなっていき、ベッドから起き上がることさえしなっていった。そしてその過程を、僕は横でずっと見ていた。  一人の人間が少しずつ死に向ってゆくのを、傍でただ見守るしかないのは、ものすごく辛いものだ。 「これ、効くのかねえ。効くなら欲しいねえ」  死ぬ一か月前。ばあちゃんは、病院のコンビニで買った雑誌の、いちばん後ろの方に載っていた通販ページを見ながらそう言った。そこには、有名なパワースポットか何かで、やはり有名な占い師かなにかがまじないを込めてお清めをしたというネックレスの写真が載っていた。 「どうだろう。効くのかな」 「注文するには、どうすればいいのかしら」 「え……」  以前だったら――ばあちゃんは、こんないかにも怪しそうな広告には、目もくれなかっただろう。  それが今、きっと藁にも縋る思いで、このネックレスを欲しがっている。そういうことが、僕はとてもショックだった。 「ごめん、トイレ」  たまらないような気持になって立ち上がり、大急ぎで病院のトイレに駆け込んだ。個室のドアをバタンと閉め、ずるずるとその場に蹲る。お腹の底から熱いものがこみあげてきて、自分が泣いているのだと、その時はじめて気が付いた。  ばあちゃん。  骨が痛いと言って、苦しそうに唸り声をあげることが増えたばあちゃん。薬の副作用で髪が抜け落ちて、それを気にしていつも帽子を被るようになったばあちゃん。前まではいつも柔軟剤の良い匂いがしていたのに、今ではほんのりと排泄物の匂いがするようになったばあちゃん。  可哀そうだと思った。可哀そうで可哀そうで仕方がなかった。代われるのなら、僕が代わりに病気になりたいと、本気でそう思った。  だけど、僕のそんな願いもむなしく、ばあちゃんはそれから間もなくして逝ってしまった。  生きるか死ぬかの瀬戸際にいる人間を、あまりにも傍で見守りすぎていたせいか、以来僕は生きるということの意味を、価値を、どう見出せばいいのか――どうして自分は生きているのか――なんて、そんなことを、そんなことばかりを考えてしまうようになった。  こういうの、人は中二病っていうのだろうか。  僕のこの、苦しくて悲しい気持ちは、そんな言葉で片付けられてしまうようなものなのだろうか。      放課後、僕はいつも、真っすぐ家には帰らず、学校から少し離れたところにある湯ノ森神社というところへ向かう。  そこは、住宅街から少し離れた人気の少ない場所にある神社で、長い階段を上った先に、この世の終着点のような佇まいで現れる。鬱蒼と茂る木々が神社の屋根を覆っていて、速い話が気味の悪い場所なので、あまり――というか全然人が寄り付かない。でも、僕にとってはその方が好都合だ。  僕はいつも、とにかく一人になりたくてここへ来る。  クラスの奴らにも、先生にも、親にも、誰にも見つからない、僕だけの場所。  ……そのはず、だったんだけど。 「お前、いーっつもこんなところに来て、つまんなくないわけ?」  びっくりした。  自分しかいないと思っていた空間で、突如他人の声が聞こえてきたのだから、当たり前だ。僕は思わずヒッと悲鳴を上げて立ち上がってしまった。  そこには、学ラン姿の男の子がいた。  社殿の前の階段に腰かけていた僕の、背後に、その男の子は立っていた。驚いた僕が階段下に飛びのいたことにより、自然とその子に見下ろされる形になる。 「な、なん……」 「その制服、若中だろ? なんでわざわざこんなとこ来てるわけ?」  目を丸める僕とは対照的に、男の子は淡々と僕にそう訊いた。 「べつに」 「べつにって」 「……邪魔なら、もう帰るよ」 「えっ? あ、おい!」  なんだか、ムカムカする。せっかく、ここでは一人きりでいられると、そう思っていたのに。  立ち上がって、さっさと去ろうとする僕を、男の子は慌てて引き留めた。 「邪魔なんて言ってないだろ。なんだよ、お前。気難しいヤツだな」 「はあ? ……ていうか、君、なんなの?」 「俺は七瀬。二中の生徒なんだ。三年生」 「二中……ああ、そう」  二中というのは、神社から歩いて五分くらいの場所にある中学校のことだ。確かにこの神社は、僕の通う若葉中よりも、二中の方が近い位置にある。 「で、お前は?」 「……間宮」 「下の名前だよ」 「君だって苗字しか名乗ってないじゃん」 「七瀬って、下の名前だよ。よく苗字に間違えられるけど。上は進藤っていうんだ」  あきらかに不機嫌オーラを全開にする僕に、しかし七瀬と名乗ったその男はまったくおかまいなしにグイグイ来た。僕は面倒になって、「光。僕も三年」と短く答えた。 「光? ふーん……」 「……なんだよ」 「いや、名前のわりに、暗いヤツだなって思って」 「はあ!? なんでお前にそんなこと……! ……もういい、帰る」 「あっ、おい!」  ずんずんと大股で歩き出した僕の背後で、七瀬が「明日も来るだろー!?」と叫んでいるのが聞こえたが、無視して歩き続けた。  初対面なのに、失礼な奴。僕はムカムカして歩みを速めたが、階段を下る前で一度立ち止まり、ちょっとだけ後ろを振り向いた。 「……は?」  そこには、さっきまでは確かにそこにいたはずの、学ラン姿の男の子の姿はなかった。        *      その夜。ベッドに入って、ぐるぐると考えた。  あいつは、一体なんだったんだ? そういえば、僕に対して“いっつもこんなところに来て”と言っていた。  いっつも、なんて言うということは、あいつは僕が何日もあそこへ通っていたということを、知ってるってことだ。でも、あの神社に参拝客が来るところなんて見たことがないし……人の気配がしたんなら、すぐに気づきそうなものだけど。  もしかしてあいつ、幽霊かなにかなんじゃ……。  その時、ガチャンッ、と玄関が開く音がして、僕はハッとし、息をひそめた。  どす、どす、どす、と乱暴な足音が、リビングに向っていく。数分経つと、言い争いのようなものが聞こえてきたので、慌ててイヤフォンをたぐりよせ、耳をふさごうとするが、見当たらない。  しまった、リビングに忘れてきたみたいだ。  僕は絶望的な気持ちになりながら布団をかぶり、両手で必死に耳をふさいだ。  するとその時、 「う……うううっ、ひっ、うううっ」  と。二段ベッドの上の階から、すすり泣くような声が聞こえてきた。  うるさい、うるさいうるさいうるさい! ――気持ち悪い。  お願いだから、静かに眠らせてくれ。  しかし、僕の願いはむなしく、言い争いの声も、上からのすすり泣きも、一向に止むことはなかった。   「なーんだ。結局、今日も来たんじゃん。よかったー」  翌日、中学生の僕に行くアテなんてそうそうなく、結局いつも通り神社に向かうと、七瀬がへらへら笑いながら待ち受けていた。思わず、ずるりと肩の力が抜ける。 「昨日あんなに怒ってから、もう来ないかと思った」 「……お前、」 「光は部活とかやってないの?」  昨夜、こいつのことであれこれ頭を悩ませていた自分がばかみたいに思えてきた。  こんなにうるさい幽霊がいるわけない。  社殿前の階段に腰かけて、あぐらをかきながら、七瀬は僕を見ていた。 「やってない」 「マジ? 一緒じゃん」 「……お前も、やってないの?」 「うん。帰宅部って、放課後なんとなく肩身狭いよなー。そのまま家に帰るのも、なんかつまんないし。だから俺、たまにここへ来るんだ」 「……ちょっと、わかる、かも」  そう言うと、七瀬はニッと笑って「だよなー」と言った。昨日より警戒心の薄れた僕は、人が二人くらい座れるくらいのの距離を開けて七瀬の横に腰かけ、膝を抱え込むようにした。 「……二中は、帰宅部オッケーなのか?」 「え? なんで? そっちは駄目なの?」 「駄目っていうか、原則全員、何かしらの部には入らないといけない。でも、やむを得ない事情がある場合は、担任に相談してオッケーがもらえれば、許される」 「やむを得ない事情って?」 「……べつにいだろ、なんでも」  そう言うと、七瀬はびっくりしたように目を丸めさせた。 「お前ってホント難しいな!? 普通に話せたと思ったら急に心閉ざすし……俺今、訊いちゃいけないこと訊いたのか? だったら謝るよ、ごめん」 「え……あ、いや、」  からっとした態度で謝られて、思わず戸惑ってしまう。七瀬の態度は真剣――とまではいかないけれど、でも決して茶化している風でもなく、ただ真っすぐに僕を見ていた。ごめん、という言葉に偽りはないのだということが、ちゃんと伝わってくる。  僕はなんだか、つっけんどんな態度をとった自分が急に子供っぽいように思えてきて、「い、いや、僕の方こそ悪い」と謝った。  すると七瀬は、「なんで謝んの? お前悪いことしたの?」と訊いてきた。心底不思議そうな表情で。  なんなんだ、こいつ。  変な奴。  七瀬の、ころころ変わる表情とか、思ったことをすぐ口に出しちゃうような素直なところが可笑しくて、ちょっと珍しくて、僕は思わず少し笑ってしまった。笑うと七瀬は、やっぱり不思議そうな顔をした。 「そういう七瀬は、なんで帰宅部にしたんだよ」 「いや、俺、こー見えて体弱くて」 「え」 「心臓の手術をしたんだ。だから、体に負担かけちゃいけないわけ。本当は、学校終わったらすぐ帰れって言われてんだけど、でも、毎日家と学校の往復だけって、なんか嫌で」  ザァッ、と強い風が吹いて、神社の周りの木々が揺れる。土の匂い。なんとでもないような顔でそんなことを言ってのける七瀬に、僕は少なからずたじろいだ。 「そう……なんだ」 「部活やってる奴らってさー、同じ部活に入ってる奴どうしでつるむじゃん。そうじゃないにしても、運動部は運動部と仲良くなりがちだし、文化部は文化部と仲良くなりがちで。会話のほとんどは部活のことだったりするし。大会がどうとか練習がどうとか。そういうのについていけないとさ、なんか……たまに、自分は空っぽのヤツなんじゃないかって、そう思っちゃうっていうか」  七瀬の言葉に、僕はパッと顔を上げた。  わかる。七瀬の言っていることが、一言一句、本当によくわかる。  今日の練習なにやるんだろう、とか、大会まであと一週間かあ、とか、昨日の練習の時にさあ、とか。  そういう、いわゆる部活トークについていけない自分が、ものすごくみじめに思えることが、たまに……いや、僕の場合はしょっちゅうある。  だから、自分なんかと話してもつまんないだろうし……と、はじめから全部諦めて、学校では極力一人でいるようにしている。  ……それに、その方がきっと、自分自身も傷つかなくて済む。  どうしたってみんなの輪には入れないんだっていう現実から、目を反らすことができるのだから。 「……悪い。僕、お前のこと誤解してた」 「は? なんだよ、誤解って」 「なんか、失礼で変な奴って思ってた。でも……僕、わかるよ、お前の言ってることも、お前の気持ちも。全部が全部わかるってわけじゃないけど、だけど僕にとって、ちょっとだけでも誰かに共感できるって、今までなかったことなんだ。だから……うん、それってすごいことだよ」 「……なんだそれ!」  呆れたようにしながらも、七瀬は笑った。ちょっと嬉しそうな表情だった。 「なあ、お前が放課後いつもここに来るのも、やっぱり“やむを得ない事情”ってやつなの?」 「……そんなに気になるのかよ」 「うん。だって、よっぽど何かなきゃこんな薄気味悪いところに、男子中学生が毎日通ったりしないだろ」  それはお前も同じだろ、とは思ったが、もう僕はムッとしたりはしなかった。  なんだか、自分のことを包み隠さず明け透けに話す七瀬に対して、変に何かをごまかしたり隠したりする方がばからしく思えたのだ。 「僕、ばあちゃんの家で暮らしてたんだ。それで、家事とかいろいろ、手伝わなくちゃいけなくて」 「へー……親は? いないの?」 「いるけど……その親と、あと兄貴と一緒に暮らすのが、嫌で。自分の家にいると、毎日誰かが怒鳴ったり泣いたり叫んでたりしてて、怖かったんだ。今も怖い。だから、ばあちゃんの家に避難してた」  自分の話を、誰かにするのははじめてだ。  ばあちゃんが死んでから、二回くらい担任に呼ばれて面談をしたりはしたけど、その時だって僕は自分の家の話なんてしなかった。 「……親、仲悪いの?」 「うん。僕、結構歳の離れた、七つ上の兄貴がいるんだけど……なんか、いわゆる引きこもりってやつで。それ自体が悪いことだとは言えないけど、でも親はそのせいでよくケンカしてる。兄貴と僕は同じ部屋なんだけど、いつもすすり泣いたり、急に叫び声をあげて暴れだしたりしてさ。兄貴は僕よりずっと背が高いし、外に出ないせいでかなり太ってるから、止めたくても止められないし、止めようとすると、こう……」 「手が出るのか」 「……うん」  ぎゅっ、と膝を抱え込む。    父さんと母さんは、兄貴のことでよく言いあいになる。父さんは「お前の育て方が悪い」と母さんに言うし、母さんは「あなたがちゃんと向き合ってくれないから」と涙を流す。病院に連れて行くべきだとか、学校に行かないのならせめてアルバイトをさせろとか、話し合いはいつも平行線を辿っている。  兄貴は、中学生の時までは普通に学校へ行っていた。でも、一度クラスの目立つグループの奴らにからかわれたのをきっかけに、段々と外へ出ることを嫌がるようになった。  それでもなんとか定時制の高校に進学し、大学受験までしたが、第一志望の大学には落ちてしまった。  結局、第三志望の大学へ通うことになったのだが、そこでも段々と授業をサボるようになり、単位が足りず留年する羽目になってしまった。そしてそこで完全に、何かの糸が切れてしまったとでもいうように、外へ出ることを完全に拒絶するようになった。  以来、兄貴はもう丸三年、外へ出ていない。  僕と同じ部屋の、二段ベッドの上の階で、いつも布団を被って眠っているか、動画を見たりゲームをしてりして過ごしている。  小学六年生の時。  僕は一度だけ、兄貴に対して文句を言ったことがある。  大学を辞めたばかりで、いちばん荒れていた時期の兄貴。涙ながらに「お願いだから外へ出て」と訴えかけてくる母に対して、兄貴は「お前に俺の何がわかる!」と言って、いつも大きな声で騒いだ。僕にはそれが、ものすごく耳障りだった。  僕も母さんも、兄貴より小さい。  体も細いし、力じゃ到底かなわないだろう。  そういうことを兄貴はよく理解していて、僕ら二人にはいつも強気だった。父さんに対しては決して声を荒げたりはしないのに。僕は兄貴の、そういうところがものすごく嫌だった。みっともない、と、小学生ながらにそう思った。  だから。  それまでは、どんなに家族が荒れていようと、静かに傍観していたのに、つい口をはさんでしまったのだ。 「うるさいな、静かにしろよ」  そう言ったときの、兄貴の顔。  今思い出しても、嫌な汗が背中を伝う。 「お前今なんて言った?」  人間じゃないみたいだった。  理性をなくした、動物。  僕は小学生ながらに、やばい、逃げなきゃ、と思った。のしのし、と巨体を引きずって、兄貴が近づいてくる。  助けてほしくて、咄嗟に母さんの方を見たが、母さんは僕から顔を背けた。  えっ、と思った。  そっか、お母さんって、僕のこと助けてくれないんだ。  そうなんだ。  そう、現実を理解した時、僕の中でなにかが壊れた。音もなく、静かに。それがなんだったのか、今でもよくわからない。ただ、ものすごく悲しくて、辛かった。 「ガキのくせに馬鹿にしやがってよーっ! いつも、俺のことを冷めた目でみやがって、ああ!? おいっ、お前っ、聞いてんのかよーっ!」  胸倉をつかまれて、そのまま壁に頭をガンガンと頭を打ち付けられる。痛い。痛い痛い痛  い。衝撃で口の中を切ってしまって、血がタラリと流れた。鉄の味が広がる。 「ご、ごめんなさっ……」 「ブッ殺されてえのか!? ああ!?」  本当に殺される、と思った。怖くて、膝がガクガク震えた。  するとその時、ピンポーン、と間の抜けた音が響いた。ハッとして顔を上げる。兄貴は、さっきまでの強気な態度が一転して、一気に怯えたような表情になった。  いつもそうだ。兄貴は、内弁慶という言葉を体現したかのように、外部の人間を怖がる。  僕はその隙に、逃げるように玄関へ駆けた。震える手で扉を開く。  するとそこには、片手にビニール袋を持ったばあちゃんが立っていた。 「お隣さんに、八朔をたくさんもらったから、持ってきたんだけど……」  僕はばあちゃんの目をじっと見た。ばあちゃんも僕を見ていた。じっと、ただ黙って、何かを示し合うように。 「光。ばあちゃんの家へ行こう」  しわだらけの細い手が、僕の頭をそっと撫でる。  僕は、涙が出そうになるのをグッとこらえながら、うん、と頷くのだった。   「じゃあ今も、ばあちゃんの家で暮らしてんの?」 「ううん。ばあちゃん、半年前に死んじゃったんだ。だから今は、自分の家に戻ってる」 「……そっか」 「……悪い、暗い話しちゃって」 「謝るなよ。それに、お前は悪いことなんて一つもしてないよ」  そっか、そっかあ……と、七瀬はうんうん頷いて、はーあ! と言い、社殿にごろんと寝転がった。僕は、自分の心臓が速く鳴っていることに気がついて、そんな自分に驚いた。  誰かに、自分の話をするのって、こんなに緊張するものなのか。  でも――話しができて、なんだかちょっと、すっきりした。 「兄貴と同じ部屋で生活すんの、辛くないか?」 「黙っていれば、手は出してこないから大丈夫」 「いや、黙っていればって、自分の家なのに……めちゃくちゃしんどいだろ、それ」 「もう慣れた。それに僕、高校生になったらこの町を出るんだ」 「え?」 「母さんのお兄さん……つまり伯父さんだな。その人の家に住まわせてもらうことにした。伯父さんの家はちょっと遠くにあるから、県外の学校を受けることになるけど。でも、こんな生活も、あと半年で終わりにできる」 「……伯父さんは、いい人なのか?」 「えっ? あ、うん。親身になって相談に乗ってくれるし、いい人だよ」 「そっか。ならよかった!」  七瀬はそう言って笑った。なんだか可笑しくて、僕までちょっと笑えた。  昨日会ったばかりなのに、七瀬といると僕は、学校や家で感じていた息苦しさのようなものを感じずに済んだ。不思議だ。 「なあ、明日も来るだろ?」  すっかり日も暮れた別れ際。七瀬は僕に言った。昨日と違って、僕は素直に「うん」と頷いた。どうせ他に行くところもないのだ。  僕が頷くと、七瀬はやっぱり嬉しそうに笑うのだった。        *   「なんか間宮くん、最近柔らかくなったよね」 「……え」  時は流れて、十二月。  席替えをして、僕は廊下側の一番後ろの席になった。ちょうど、教室の出入り口にいちばん近い席。つまり、他のクラスの人たちによく話しかけられる席である。  誰々呼んでくんない? とか、このクラス次授業なにー? とか。騒がしくて面倒だなとは、まあ正直思うが、だからといって無下にしたりするでもなく、普通に対応していたら、前の席の沢城さんという女子がくるんと振り向いて、僕にそう言ってきた。 「なにそれ」 「前はすっごい近寄りがたかったけど、今はなんか……優しい? っていうか」 「はあ?」 「彼女でもできたの?」  効果音をつけるなら、わくわく、きらきら、っていう表情で、沢城さんは僕を見ている。対して僕は、次の英語の授業の教科書を取り出しながら、はぁとため息をついた。 「できないよ。受験生なんだから、そんな暇あるわけないだろ」 「えー、そうなんだあ。ふーん」 「そういう沢城さんこそ、雰囲気変わったよね」 「えっ、そう?」 「うん。前はなんか……」  いつも騒がしくて、口を開けば誰かの悪口ばかり言っていた……ように思う。サッカー部の須藤さんたちとつるんで、教室の真ん中にいつも陣取って。それが、最近じゃとんと大人しくなった。あれだけ仲良さそうにしていた須藤さんたちとも、そういえば最近あまり絡んでいないんじゃないだろうか。  まあ、女子には女子の世界があるのだろう。 「前はなんか、なに?」 「いや……なんでもない」 「おいっ。そういうのが一番カンジ悪いぞ!」  あはは、と沢城さんは笑う。  実は僕は一年生の頃から、彼女に対して密かに親近感を覚えていた。彼女も帰宅部だったのだ。  入学してすぐ、お母さんが亡くなられて、仮入部の季節にはとてもじゃないが部活なんて考えられる状況じゃなかったらしく、以来そのまま、ずるずるとどこにも属さずにいたようだ。噂好きなクラスメートたちが、大きな声でそう話しているのを偶然聞いてしまった。  派手なタイプの人ばかりと絡む、騒がしい彼女を、僕は正直ずっと苦手に思っていたが、一度放課後の図書館で、ぼうっとした目で書棚を眺める姿を見かけてからは、もしかして彼女も、僕と同じなんじゃないだろうか、と思っていたのだ。  家にいるのが、辛くてたまらない人。  家に、帰りたくない人。 「あ……ねえ、そういえばさ、沢城さん」 「ん?」 「二中の生徒に、友達とかいない?」  そう言うと、沢城さんは大きな目をぱちぱちと瞬かせた。 「いるけど、なんで?」 「やっぱりいるんだ……陽キャってすごいな」 「間宮くんの口から、陽キャ、なんて言葉が出るなんて……ってそれより、二中がどうかしたの?」 「いや……」 「あっ、わかった!」  教室に響き渡るような大きな声で、沢城さんは言った。僕はそのあまりの勢いの良さに驚いてしまって、彼女を制することができなかった。 「間宮くんの彼女、二中にいるんでしょっ!?」 「なっ、だから違っ……!」 「えーっ、間宮、彼女いんのお!?」 「いない!」 「誰? 二中って、どうやって出会ったの!? なーなー」 「違うって言ってるだろ!」  わあわあと、僕の周りに人が集まってくる。みんな、興味津々って目で僕を見ている。  こんなに注目を浴びることなんてはじめてだったので、僕は恥ずかしくて、自分の顔が真っ赤になるのがよくわかった。 「なんか間宮、最近変わったよなあ」  にこにこと、人好きする笑みを浮かべて僕にそう言うのは、バスケ部の藤本くんだった。それに対して他の奴らも、うん、たしかにー、と同意する。沢城さんと、まったく同じことを言われて、僕は少なからず動揺した。  そこで休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴ったので、集まってきた奴らは「今いいとこだったのに!」とか文句を言いながら、ぞろぞろと自分の席に戻っていった。 「ごめんごめん。なんか、大事にしちゃって……」 「……ほんとだよ」 「代わりに、なんかお願いごと聞いたげるよ」 「え」 「二中の生徒のことで、知りたいことがあるんでしょ?」  こそこそと、先生にバレないように、静かな声で沢城さんは僕に言う。僕はちょっと迷ったが、でも、結局彼女にこう言った。 「……三年に、進藤七瀬って名前の奴がいるんだけど、そいつのことが知りたいんだ」      *      秋に七瀬に出会ってからは、僕らは平日の放課後、ほとんどの時間を共に過ごすようになった。  お互い受験生なので、何度か一緒に勉強をしようと誘ったが、七瀬はいつも「えー」とか「めんどくせー」とか言うばかりで、教科書を開こうとはしなかった。というか、鞄から出そうとすらしなかった。  黙々と問題集を解く僕の横で、七瀬が一方的にぺらぺらと喋って、それに対して僕が相槌を打ったり、打たなかったりする。  僕らはいつも、そんな風な時間を過ごしていた。  部活動に打ち込んでいる奴らが見たら、鼻で笑われてもおかしくないような、拍子抜けするくらいぼんやりとした時間。 「お前、どこの高校受けるつもりなの?」  一度だけ、僕は七瀬にそう問いかけたことがある。受験生なんだから、こういう話が出てくるのは当たり前だ。  しかし、訊かれた七瀬は、「そんなこと訊かれると思ってなかった」とでもいうような、驚いた顔で僕を見返してきた。 「え……なんだよ、その顔。まさか決まってないの?」 「あー……まあ、そう、かな」 「マジ? そろそろ決めた方がいいと思うけど」 「うん、そうだな」  妙に煮え切らない態度。  他にも、七瀬には不自然な点がいくつもあった。学校の話を全然しないし。訊いてもはぐらかすようなことばかり言うし。それに、いつも必ず、僕より後に帰るのだ。 「俺はほら、ここからすぐのところに住んでるから」  そう言って、七瀬はいつも、必ず僕のことを見送るのだ。  神社の賽銭箱の前に立って、にこにこ笑いながら、「また明日」って手を振って。  僕はいつも、一人で神社の階段を下りながら、密かに不安に思うのだ。  七瀬が――ほんとうは、この世に存在していなかったらどうしよう?   「間宮くん、ちょっといい?」  教室での一件から二日経ったある日、沢城さんは帰ろうとする僕を引き留め、きょろきょろとあたりを見回した。 「場所、変えよっか」 「え? あ、うん」  言われるがまま、彼女についていく。  わあわあと、放課後の校内は騒がしい。といっても、僕たち三年生は既に、大半の奴が部活を引退しているので、騒がしくしているのは主に一・二年生だ。これから部活へ行くのであろう、ジャージ姿の人の波を、僕らは縫うように歩いた。  やがて沢城さんは、僕を美術準備室まで連れて行った。美術室なら入ったことがあるけれど、準備室に入ったのははじめてだ。すん、と鼻を鳴らすと、油絵の独特の匂いが鼻孔を満たした。 「あれ? 亜子。どうしたの?」 「志保。悪いけど、ちょっと席外してくれる?」 「え? ……うん、わかった」  キャンバスに向って筆を執っていたのは、同じクラスの相沢さんだった。沢城さんの言葉に快く頷き、筆を濡らすための水が入ったバケツを持って、「水換えてくる。ごゆっくり」と言って去ってゆく。 「わ……すごい」  キャンバスに描かれていたのは、美しい海の絵だった。海面から救いの手のように光が差し込み、小さな魚たちが群れを成して泳いでいる。 「すごいでしょ、あの子の絵」 「うん、すごい。すごく綺麗だ」 「……あたし、あの子とずっと友達になりたかったんだよね」 「え」 「だから、はじめて声かけた時、すごく緊張したんだ。……あのね、間宮くん。なんでこんな話をするかっていうと、二中の、進藤くんっていう男の子のことなんだけど、」  ごくり、と思わず唾を飲み込む。沢城さんは、ブレザーのポケットに両手をつっこみながら、ゆっくり口を開いた。 「二中の子に聞いたけど、三年に、進藤七瀬なんて子、いないって」 「……は? い、いないって、」 「そのまんまの意味」  心臓が、バクバクと速く鳴っている。  いない。存在しない。  嫌な予感は的中したのだ。七瀬はやっぱり、この世には存在していない、幽霊みたいな存在で――  そう、一人で目を回しながらぐるぐるとあれこれ考え込む僕に反して、沢城さんは冷静な声色で「でもね」と話を続ける。 「二年生にならいるって」  は? 「二年生!?」  思わず、大きな声を出してしまった。 「い、いやでも……な、何かの勘違いじゃないの? そ、それか、同じ名前の子が二年にもいるとか……」  沢城さんは、ふるふると首を横に振る。僕は益々混乱して、彼女の顔をじっと見た。  七瀬が、二年生?  でも、それが本当なら、どうして同じ三年生だなんて嘘をついたのだろう? 「進藤くん、その……虚言癖があるんだって」  目を白黒させる僕に対して、沢城さんは追い打ちをかけるようにそんなことを言い出した。  頭の中は真っ白だ。  きょげん、へき。  虚言。  それじゃあ七瀬は、僕に対してずっと嘘をついていたってことなのか?  でも、一体どこからどこまで―― 「色々、事実じゃないことを周りに喋って、それで学校では孤立しちゃってるみたい。自分の家は江戸時代から続く道場なんだとか、中学生だけど、プログラマーとしてお兄さんの仕事を手伝ってるんだとか……あと、えーと、心臓の病気を患ってるんだとか」  ドキンとした。  最後の一言には、聞き覚えがあったから。  僕は、握りしめた自分の拳が震えていることに気が付いた。怒っているんじゃなくて、ウソをつかれたことがただ悲しかった。ものすごく、悲しかった。 「今言ったことってさ、」  僕は言った。 「全部、七瀬のウソってこと、だよね」 「……うん。そうらしいよ。お家は普通の四人家族で、道場なんかじゃなくて、お兄さんじゃなくてお姉さんがいて、心臓の病気っていうのもウソで、一回、学校の先生にものすごく怒られたんだって。本当に病気で苦しんでいる人に失礼だと思わないのかっ、って」 「……そう」 「あのね、私が君に、この話を包み隠さずしようって思った理由は、二つあるの」  妙に真っすぐな声で、表情で、沢城さんは言った。  いつの日か、放課後の図書館で一人、迷子の子供みたいな顔で本を眺めていた彼女とは大違いだった。 「一つは……もし、進藤くんが危ない子だったなら、忠告したことで、間宮くんを守れるかもって思ったの。だって、そうでしょ? ウソばかりつく得体のしれない子と、友達が仲良くしてるなんて、あたし、ちょっと……ていうかかなり心配だもの」  友達、というのは僕のことか。僕はちょっと驚いたが、そんな僕に構わず、沢城さんは「二つ目!」と手でピースの形を作る。 「進藤くんが、ウソをついてまで間宮くんに近づきたかったのには、何か理由があったんじゃないかなって」 「……理由?」 「うん。例えば……間宮くんと仲良くなりたかった、とか」  僕と、仲良く。  そんなこと、あるもんかと僕は思った。  沢城さんみたいに美人で、コミュ力が高いわけでも、相沢さんみたく素晴らしい絵の才能があるわけでもない。部活を頑張ってきた奴らみたいに、特段何かにのめりこんできたような経験もないし、家族と仲は悪いし、僕には何も、何もない―― 「あたし、放課後って大嫌いだったの」  沢城さんの言葉に、僕はハッとして顔を上げた。 「みんながみんな、さあ好きなことをするぞっ、って顔しててさ。あたしにはなんにもないし、帰りたいと思うような家もないし。でも……志保と仲良くなってからは、早く放課後になんないかなあって思うようになったの。べつに、部活にのめりこんでなくたっていい。やりたいことがあるわけでも、これだって胸を張って言えるような才能がなくたっていい。友達って、そういうもんでしょ? ただ、傍にいるだけでおっかしくて、楽しいの」 「……うん」 「間宮くんは、進藤くんと居て、どうだった? 楽しかった?」  僕。  僕は、七瀬といて――楽しかった。すごく。七瀬は聞き上手で、僕が何を話してもうんうん頷いて聞いてくれて、大した話もしていないのにゲラゲラ笑ってくれた。僕は七瀬といるのが好きだった。それはべつに、七瀬に特別な才能があるわけじゃなくて、ただ―― 「……ありがと、沢城さん」  僕は、ちょっと不安そうな顔の沢城さんに向ってそう言った。七瀬の話を聞いたのが、沢城さんじゃなくてもっと他の人からだったら、こんな気持ちではいられなかったかもしれない。 「僕、七瀬と話してみるよ。それから……廊下に飾ってある写真、素敵だね」  美術部は月に一度、廊下に自分たちの作品を張り出して、全校生徒が見られるようにしている。ほとんどの生徒が絵を描くようだが、沢城さんだけは違った。  “友達”  そんな、簡潔なタイトルのその写真の中では、ブランコに乗った相沢さんの背中が映っていた。 「あ……ありがとう」  沢城さんはそう言うと、ちょっと照れたようにはにかんだ。      人生は、物語みたいに上手くいくことばかりとは限らない。  喧嘩した相手とはそのまま仲たがいし続けてしまうかもしれないし。  やりたいことをやれるだけの環境もそろわず夢を諦めてしまうかもしれないし。  憧れの誰かに対して声をかけるだけの勇気が出ずに、友達になれないままタイムリミットがきてしまうかもしれない。 「なあ。七瀬って、ほんとは二年生で、心臓の病気ってのもウソなの?」  いつも通り、神社で集合した七瀬に対して、僕はただ真っすぐにそう問いかけた。どう話を切り出そうか散々迷ったが、僕は気の遣えるタイプではないので、素直に訊くのがいちばんだと思ったのだ。  七瀬はわかりやすく狼狽した。おろおろと、いっそ泣き出しそうな顔で僕を見ている。 「な、なに言ってんだよ、そんなわけあるはずないだろ」 「クラスの子に、二中に友達がいる子がいて、その子に聞いたんだ。なあ……それって本当なの?」  七瀬は何も言わない。黙り込んで、俯いてしまう。 「僕、怒ってないよ。ただ、お前の口からききたいんだ」 「……よ」 「……は?」 「だったら、なんなんだよっ」  予想外の反応だった。  七瀬は、親の仇でも見るような目で僕をにらんでいた。  びっくりした。今までで、一度も見たことがないような表情だったから。  固まる僕に対して七瀬は「そんな、他の奴にわざわざ聞いてまで俺のこと調べて……俺のこと、お前も笑ってたんだろっ」と怒鳴った。どうして怒鳴られているのか、僕はわからなかった。ただ、会話がしたかっただけなのに。 「ち、違うよ、七瀬。僕はただ、本当のことが……」 「本当のことなんて……俺なんかのつまんない話聞いたって、面白くないだろっ。なんの面白味もない、才能も、のめりこんでるものもない、家族だって普通だし、普通、なのに……恵まれているのに、それなのに落ちぶれてる俺なんかの話聞いたって、」  七瀬はそこで、僕の胸倉を思い切り引っ張ってきた。反射的に、体がビクッと固まる。  怖い。  兄貴にされたことがフラッシュバックして、ひゅっ、と喉が鳴る。七瀬はハッとした顔になり、すぐに僕を開放して「……ごめん」と謝り、逃げるようにその場から去っていった。 「あ……ま、待てよ!」  明日も来るよな!? と、僕は叫んだ。七瀬は何も言わない。ただ、神社の真横の茂みの中へ消えてゆく。びっくりして後を追いかけると、そこには下へとつながる獣道があった。  七瀬はいつも、この道を使って行き来していたのか……。  忽然と姿を消したり、いつも一緒に帰ろうとしない理由がその時はじめてわかって、僕は思わずちょっとホッとした。そして、そんな自分に驚いた。  そうか。僕は自分が思う以上に、あいつに救われていたんだ。  だからホッとしたんだ。  ……七瀬が、幽霊じゃなかった、ってことに。  なんてそんな、間の抜けたことを考えている自分がばかみたいで、思わずドッと肩の力が抜けた。          *      年が明ければ、公立高校の受験まで、もう秒読みになってくる。  七瀬はそれから、あの神社へ訪れることはなくなった。それでも僕は、放課後毎日あの場所へ通い続けた。  正直、野ざらしでめちゃくちゃ寒いし、冬は日が暮れるのが早くて不気味だしで良いことはなかったが、それでもあそこで七瀬を待っていたかった。  社殿の階段に腰かけながら、一人で教科書や参考書と睨めっこをする。  春になれば僕は、この町からいなくなる。  少し前までだったら、そのことに対して、未練なんて何一つなかった。むしろせいせいすると、そう思っていた。  でも――七瀬と知り合って――あいつだけじゃない、中学の奴らもそうだ。最近じゃ、クラスメートとよく会話をするようになった。沢城さんや相沢さんにはじまり、席の近い藤本くん、藤本くんと仲の良い天野くん……。  どうしてこう卒業間際に、みんなのことを好きになってしまうのだろう?  とにかく僕は、この町を離れることに対して、ちょっと寂しいな、なんて思うようになってしまったのだ。    しかし、寂しさとは裏腹に、時は流れる。  あっという間に。矢のごとく。 「悪かったな」  ある日、兄貴は僕にそんなことを言った。訊き間違いだったかもしれない。でも、確かにそう言ったように、僕には思えた。  僕は無事、伯父さんの家の近くの公立高校に合格した。母さんはなんとも言えない、申し訳なさそうな顔をして、父さんは「しっかりやれよ」と僕の肩を叩いた。お前だけはあんな風になるなよ、とでも言いたげな顔と声色だった。  ともかく、春までに荷造りしないとなあとか、捨てられるものは捨てておかなきゃとかあれこれ考えている僕に対して、二段ベッドの上に寝転んだまま、兄貴はポツンとそう言ったのだ。分厚い毛布を頭まで被って、震える声で。  僕はなんだか、切なくてたまらないような気持になってしまった。  絶対に許したくなかった。今まで、どんなに苦しい思いをしてきたか。どんなに悲しかったか。大声で喚き散らしてやりたかった。  僕が小説やドラマに出てくる主人公だったのなら、きっと兄貴のことを許してやれただろう。「いいんだよ、僕ら家族だろ」って、もしかしたら、そんなかっこいいことすら言えたかもしれない。 「……べつに」  でも僕には、震える声でそう一言言うのがせいいっぱいだった。  僕も頑張るから、お前もせいぜい、頑張れ。  そう、胸の中で呟いて、いつも閉めっぱなしだった部屋の窓を、久々に開けた。      卒業式の日は、幸運にも快晴だった。  花粉症の僕は、鼻をずるずると啜りながら式に挑んで、そのせいで沢城さんに「間宮くんが泣いてる!」と騒がれ、正直ちょっと鬱陶しかったが、そう騒ぐ沢城さんの方が目を真っ赤にして泣いていたので、ツッコミをいれるのはよしてやった。 「せ、せんぱいいいっ。ごっ、ご卒業、おめでとうございま……ううううっ」 「ちょ、ちょっと、そんな泣かないでよ……ほら、ティッシュ」 「あ、ありがとうございます……」  どうやら、まだ二年生らしい女の子が、隣のクラスの保科さんの前で号泣している。保科さんはおろおろと困った顔で後輩の女の子を見ている。 「うわーんっ、志保お! お別れ嫌だよおっ」 「……どーせ高校でも一緒じゃん」 「あっ、そうだった」  深澤さんと保科さんが、そんなやり取りをして笑っている。陸上部は今年度大活躍で、何度も全校集会で表彰されている姿を見た。二人とも、陸上の名門である水濱高校へ行くようだ。天野くんが以前「あいつらほんと陸上馬鹿だよなー」と笑っていたのが、記憶に新しい。そんな天野くんは、後輩の女の子をなだめる保科さんの姿を、目を細めて見守っている。 「翔太―っ、写真撮ろうぜー」 「おー。バスケ部集めるか」 「亜子。この後美術部の打ち上げだって」 「えー。二人でスイパラ行こうよ」 「駄目。吉野さんたちにもお世話になったんだから、最後くらいみんなで思い出作ろ?」 「……はあい。志保の口からそんなセリフが出るようになるなんて」 「いいでしょべつに! それに……スイパラは、春休みになったら行けばいいじゃない」 「! うん。そうだね。たまにはいいこと言うじゃん」 「たまにはって何!」  あははは、と笑い声がそこら中で溢れている。みんながみんな、思い思いに別れを惜しんでいる。  みんな、この三年間、部活や、人間関係を頑張ってきたのだ。  だから別れが惜しいのだ。  そして僕もやっぱり、みんなとの別れが、ほんの少し惜しい。 「なー、間宮。この後クラスの男子で打ち上げしよーってなってるんだけど、お前も来るだろ?」  そう誘ってくれたのは、藤本くんだった。バスケ部の子たちからもらったのであろう、たくさんの手紙や花を抱えて僕を見ている。僕はゆっくり首を振って、「ううん」と言った。 「ごめん、誘ってくれて嬉しいけど、僕、行きたいところがあるんだ」 「え……それって、」  きょろきょろと、あたりを見渡して、僕らに注目している人がいないことを確認しだす藤本くん。不思議に思いながら、彼の整った顔立ちをじっと見ていると、 「……二中にいるっていう、彼女?」  と。興味津々って顔で、そう訊いてきた。  僕は可笑しくて、ブッと噴き出して笑ってしまった。そうだ、確か、前にバスケ部の金子くんが彼に対して言っていた。 「君って、ほんと、脱力系だね」 「えっ!? ま、間宮にまでそれ言われるなんて……」 「あはは!」  僕と彼がこうして笑いあって話をするようなことは、もしかしたら二度とないのかもしれない。卒業って、つまりそういうことなのだ。この先、もう一生会わないような人だって、たくさんいるだろう。  さようなら、僕の中学生活。  一生懸命グラウンドで汗を流したわけでも、誰かと本音をぶつけ合って、熱い友情を育んだわけでも、放課後の教室にいつまでも残って、何か素晴らしい作品を作り上げたわけでもないけれど。  それでも僕は、確かにここで、みんなと同じ中学生だった。      長い石段を抜けて、いつもの場所へたどり着く。  どしんと構える社殿の周りには、鬱蒼とした木々が茂っている。やっぱり、いない。七瀬はきていない。まあそうだろうなとは思ったが、でも、ほんの少し期待していたのだ。僕はため息をついて、いつも通り階段に腰かけた。  明日になれば、僕はこの町を出ていく。  高校の入学式までは時間があるけれど、僕を心配した伯父さんが早めに呼んでくれたのだ。  学校の奴らと同じように、七瀬とも、もう会うことはなくなるのだろうか?  その時、ザァッ、とひと際大きな風が吹いて、土埃が舞った。思わず目を瞑ってそれに耐えていると、風の鳴る音に交じって、 「ごめん」  と。  短くて、か細い声が、どこからか聞こえてきた。僕はびっくりして慌てて立ち上がり、きょろきょろとあたりを見回した。しかし、誰の姿も見当たらない。 「七瀬?」  ハッとして、いつか見つけた、林の中の獣道へ駆け出す。するとそこには、懐かしい後ろ姿が見えた。どんどん走って、逃げて行ってしまう。  何か言わなきゃ。何か。焦っても、上手な言葉は出てこない。だけど――そうだ、たった一つだけ、これだけは言える。 「七瀬! 僕、お前が誰でもいいよ!」  僕は言った。こんなに大きな声を出したのは、生まれてはじめてだった。  心臓が、バクバクと早く鳴っている。七瀬は僕の言葉にピタリと動きを止めて、それからゆっくりと振り向いた。 「……ごめん、光」  七瀬は、もうほとんど泣き出しそうな顔をしながら、僕にもう一度そう謝った。 「うん」 「俺……友達が欲しかったんだ」 「うん」 「学校じゃ、誰も相手にしてくれないから、だからどうにかして外で友達を作ろうって、そう思ったんだ。そうしたら、たまたま立ち寄ったこの神社でお前のこと見つけて、三年生の教科書読んでたから、ああ三年生なんだなって思って、それで、」 「うん」 「……俺、なんにもないんだよ、光。でも、お前と仲良くなるための口実がほしかった。病気だって言えば同情してもらえるかなって思ったんだ。でも、そんなのサイテーなウソだって、ほんとはわかってた。本当に病気で苦しんでる人に対して、ものすごく失礼なことを俺は言ってたんだ」 「ばかだなあ、お前」  僕はなんだか胸が痛くてたまらなくなって、気づくと頬が濡れていた。 「ごめん。お前が、家族のことで悩んでるのに、俺には悩みなんて全然なくて、それがほんの少し後ろめたかったんだ。本当にごめん。ほんとは俺も、みんなみたいに何かに熱中したり、悩んだりしたかったよ。でも俺、ほんとに、空っぽなんだ」 「僕、それでも嬉しかったよ、七瀬」  僕は言った。 「お前が、僕のこと心配してくれてるっていうの、わかったから。お前、なんにもないなんて、そんなことないよ。そんなこと絶対にないよ。お前はめちゃくちゃいい奴だよ。だって僕、お前に会って変わったんだ。クラスの奴にも、優しくなったとか柔らかくなったとか言われてさ、」 「……うそだあ」 「僕は嘘なんてつかないよ。バカ七瀬と違って」  そう言うと、七瀬は一瞬目を丸めて、それからへたくそな笑みを浮かべ、 「そっかあ、そうだな」  と、言った。  僕らはそれから、神社に戻って二人、何を話すでもなく横に腰かけた。  静かな境内。さわさわと、木々が揺れる心地よい音が響いている。新緑のツンとした青臭い匂いが鼻を刺すようだった。  明日からは、全然違う日々が待っている。 「卒業おめでとう」  別れ際、七瀬は僕にそう言った。僕は、うん、ありがとう、とほほ笑んだ。先輩と後輩みたいな会話だなと一瞬思ったが、考えてみれば確かに、僕らは先輩と後輩だった。 「じゃあ、また」  七瀬がそう言い、獣道を下ってゆく。心なしか、いつもよりゆっくりと。まるで何かを惜しむみたいに。 「また会えるよな?」  思わず、去り行く背中にそう声をかけた。  また明日、を言えないもどかしさを、寂しさを、他の言葉で埋め合わせたかった。  すると七瀬はくるんと振り向き、ニッと歯を見せて笑って、こう言った。 「もう会えないよ!」
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