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保科 咲
オン、ユア、マークス、って掛け声に合わせて、会場がしんって静まりかえるときの、あの緊張感が好きだ。スターティングブロックにスパイクのピンを食い込ませて、セットの合図で腰を上げ、雷管の破裂音と共にトラックへ駆け出す。
たった一か月前まで、あたしは走るのが大好きだった。
好きで好きでたまらなかった。
中でもハードル走が一等好きだった。ハードルとハードルの間をリズムよく駆け抜け、次々と障害物を飛び越えて、気づいたらゴールラインを越えている。ハードル走は、とにかく勢いをキープするのが難しくて、下手な子だと後半失速して小刻みな走りになってしまうのだ。
あたしは違った。
あたしは、風のようにトラックを駆けることができた。
顧問の岡崎先生も、「保科の実力なら、全国も夢じゃないな」って言ってくれたし、実際二年の夏には関東大会に出場することができた。男女合わせて四十人も部員がいる中で、関東大会まで行けたのはあたしと、長距離走の宇佐美先輩のただ二人だけだった。
陸上部の、こと短距離種目に関しては、基本的に冬の間は大会は行われない。寒いと記録が出にくいからとか、そんな理由だったと思う。
なので、普段の練習も、春から秋にかけての、大会を意識した練習メニューとはガラリと変わってくる。走り込みがメインになって、とにかく体力的にキツいのだ。一年生の四分の一くらいは、この冬の練習に音を上げて退部届を提出してしまうくらい。
あたしも、例にたがわずキツい練習は嫌いだ。
それに、大会のない冬の練習って、自分の実力がどれくらい伸びているのかとかわかりづらいし、早い話がつまらない。
そう思ってた。
*
ハードルブロックにはあたしを含めて、六人しか人がいない。といっても、そのうち三人は三年生の先輩だったので、夏の大会を最後に引退をしてしまった。つまり今は、あたしと、同い年の天野くんという男子と、一年生の多田ちゃんという女の子の三人だけになってしまった。
天野くんは元々長距離の選手だったけど、ハードルに人が少ないのと、高い背丈が障害物を乗り越えるのに有利なんじゃないかという岡崎先生の一声により、二年の時に渋々ハードル選手になった。いつも、「はーあ。ハードルなんて、コケたら痛いし、てかそもそもムズいし、俺向いてねえよー」とかぶつくさ言いながら跳んでいる。
そして、多田ちゃん。
多田ちゃんは、背が低くて、大人しくて、おどおどしていて、運動なんて全然できなさそうな女の子だ。
あたしは正直、多田ちゃんのことが苦手だった。
いくら練習を積んだってタイムは全然早くなんないし、何度教えてもフォームはめちゃくちゃだし。あたしが懇切丁寧に教えてあげているのに、一向に良くならない多田ちゃんの走りには、正直、たまにうんざりさせられる。
「沙也ってさーあ、なんで陸上部に入ろうと思ったの?」
ある日、他の一年生の女の子が、にやにやしながら多田ちゃんにそう訊いていた。ちょっとお、やめなよー、かわいそうじゃん、と、やっぱりにやにやしながら他の子が制止する。
普通に訊いたらぜんぜん“かわいそう”な質問じゃないのに、そう感じているということは、相手をかわいそうな目にあわせている、という自覚があるってことだ。
くだんない。
あたしは、少し離れた所でストレッチをしながら彼女たちの話を聞いていた。たぶん、ちょうど柱の陰になるところにいたので、一年生たちはまさか近くにあたしがいるとは思わなかったのだろう。
多田ちゃんのことは確かに好きじゃないし、どうしようもないヤツって思ってるけど、あたしからしたらそんなの、他の奴らも同じだ。どんぐりの背比べってやつ?
それなのに、あの一年生たちは「自分たちはこの子よりは優れている」って優越感に浸っているのだ。自分より劣っているから、この子のことはばかにしてもいい、下に見てもいいって、妙に間延びした声が確かにそう言っている。
あたしなら、そんなことしている暇があるなら、もっと前へ行きたい。
グングン、グングン、前へ。
誰よりも速く。
「私、保科先輩に憧れてこの部に入ったの」
なんて考えていると、ちょっと恥ずかしそうな声の後に、へへ、と照れ笑いが聞こえきた。これにはさすがのあたしもハッとして顔を上げた。
「ほ、ほんとは、吹奏楽部に入ろうと思ってたの。フルート吹けるし。でも、部活動紹介の映像を見て、保科先輩が鳥みたいにハードルを飛び越えてる姿見たら……なんか感動しちゃって。私も、ああなりたいって思ったの」
カッ、と頬に熱が集まる。そんなこと、はじめて聞いた。微塵も気が付かなかった。だって、多田ちゃんはあたしといる時、いつもおどおどしているし……むしろ怖がられているんだと思っていた。
「へー、そうなんだ。ふーん……」
くすくすと、嫌な笑いがその場に響く。「へ、変かな?」と不安そうにする多田ちゃんに対して、「変っていうか、ねえ」「うん、なんていうかさあ」と、一年女子たちは嫌な笑いを絶やさず、そんなふわっとしたやり取りをする。
あたしは無性にイライラして、一言言ってやろうと口を開きかけた。でも、ちょうどその時、岡崎先生が「一年、悪いんだけど倉庫からライン引きとってきてくれるか」と声をかけたので、彼女たちは「はあーい」と返事をしてぞろぞろとその場からいなくなった。もちろん、多田ちゃんも慌ててその後をついていった。
……あたしみたいになりたい、か。
他の子たちより遅れてライン引きを取りに行ったせいで、結局やることがなくなってしまい、一人でとぼとぼ戻ってくる多田ちゃんの姿を見ながらあたしは、フーン、と鼻の穴を膨らませた。
それからしばらくして、冬季練習がはじまってだいぶ経った、二月のある日。
あたしはスパイクをきちんと履き、いつものズボンじゃなく、大会で履くようなスパッツを履いて、気合十分でグラウンドに立っていた。
各個人の専門種目の練習時間は、その名の通り“種目練習”と言って、冬の間は大体毎日三十分くらい与えられる。自分たちで自由に練習メニューを決めて、好きに走ったり跳んだりしていいのだ。
「多田ちゃん、あたしちょっとストップウォッチと記録ノート持ってくるから、悪いけど整備しといてもらえる?」
「はいっ」
前日に雨が降って、更に今朝、テニス部が練習をしていたせいか、グラウンドは凸凹だらけだった。普通に走るだけならまだしも、あたしたちが今からやろうとしているのはハードル走だ。このまま走ったら危ないなんていうのは、目に見えてる。
「ありがと。じゃ、行ってくるね」
あたしはあの一件……つまり、一年生たちの話を聞いてしまって以来、多田ちゃんに対してちょっと優しくなった……と、思う。誰だって、あんなふうに言われたら悪い気はしないだろう。それに、あたしが多田ちゃんに優しくすると、他の一年生たちが面白くなさそうにするのが、ちょっと可笑しいのだ。
「おー、保科。計測するのか?」
「はい。昨日の疲れが残ってるので、タイムはあんまり期待できないですけど……」
「うん、そうだな。最近は走り込みと筋力作りばっかりで、足に疲労もたまってるだろうし、無理はするなよ。記録が出ないのは当たり前なんだから、フォームや走りのリズムを意識した練習をしなさい」
「わかりました」
「最後の年こそ行こうな、全国!」
岡崎先生はそう言って、ニッと歯を見せて笑った。あたしはそれに、「もちろんです」と胸を張って答えた。
自信はある。この冬のキツい練習さえ乗り越えれば、あたしはきっと、もっともっと速く走れるようになる。誰よりも。
岡崎先生はあたしの返答に満足そうにうなずくと、きょろきょろとあたりを見回し、誰もあたしたちの方を見ていないことを確認してから「それからな、保科」と、真剣な顔で言った。
「もう勘づいてると思うけど……次のキャプテンなんだが、」
ドキン、と心臓が高鳴る。
「男子は石渡に、女子はお前に任そうと思っているんだ。どうだ? お前なら、実力的にも申し分ないし、リーダーシップもある」
「は、はい。あたしでよければ」
「そうか! いやあ、はは、よかった」
先生は、心底ホッとしたように胸を撫で下ろした。
あたしは、にやけそうになるのをなんとか堪えながら、「精一杯頑張ります」と言った。そんなあたしに先生は、「まだ内密にな。石渡にも話して、来週くらいに全体に発表しようと思ってるから」と言った。
キャプテン。いい響きだ。
陸上部のキャプテンは毎年決まって、春の大会シーズンがはじまる少し前に決定される。三年生が引退してからの二年生の振る舞いを先生が見て、それから決めるのだ。
正直、今の二年女子の中でキャプテンを任されるなら、あたしか、短距離ブロックの夏帆のどちらかだろうと思っていた。
夏帆は百メートルで県大会出場を果たしているし、ちょっと騒がしいけど、でもしっかり者で、後輩たちからの人気はあたしより高い。あたしはむしろ、後輩には恐れられているタイプだ。
でも、岡崎先生は夏帆よりあたしを選んだ。
選ばれるというのは、単純に気分が良い。
それに、部活動でキャプテンを務めたなんて実績、きっと受験にも有利だ。あたしが行きたい水濱高校は偏差値が高くて、ちょっと難しいかなと思っていたが、陸上部キャプテン、なんて肩書が手に入るのなら、合格にだって手が届くかもしれない。
夢が、膨らむ。
鼻歌でも歌いたいくらい上機嫌でグラウンドに戻ると、多田ちゃんがぎこちない手つきでスターティングブロックをスタート地点にセットしていた。
「お待たせ」
「あ、せ、先輩、あの、」
「準備してくれて、ありがと。早速測りたいから、計測お願いしていい? はいこれ、ストップウォッチ」
「あ……」
「保科―っ! 先生がカメラでフォーム記録してくれるってよ!」
「マジ!? わかったー! ……ちょっと、早くしてよ」
いつまでたってもその場を動こうとしない多田ちゃんに、ちょっとイラッとしてそう声をかけると、多田ちゃんは「は、はい、すみませんっ」と謝って、あわあわと動き出した。
ゴール付近に、多田ちゃんが立つ。ハードルの並ぶレーンの横では、岡崎先生があたしの走りを見るために立っている。
「オン、ユア、マークス……」
天野くんの声が響く。あたしはスタブロに足をかける。かしゃん、と音がして、同時にスタブロが少し揺れた気がした。気のせい? ……気になるけど、先生が見てるし、今更やり直すのもな。まあ、大丈夫だろう。
「セット」
腰を上げて、走り出す直前の体制をとる。次の瞬間、パァン! と練習用の雷管が破裂する音がして、あたしは最初の一歩を踏み出した。
案の定、スタブロはしっかり固定されていなかったようで、あたしは一歩目からちょっとよろめいた。
そこで走るのをやめればよかった。
でも、先生が見ているし……先生だけじゃない。雷管の音にハッとして、グラウンド中の誰しもが、あたしの走りに目を向けている。
一歩目こそぐらついたけれど、続く二、三歩目であたしはなんとか体制を立て直した。そして、ついに一台目のハードルを飛び越えようとした時――事件は起きた。
踏み切り足に力を込めて、空中に体を浮かそうとすると、カクン、と。膝の力が、ほんの少しだけ抜けたのだ。
でも、一度勢いをつけた体はとまらない。そのままハードルを飛び越え、なんとか着地しようとすると、今度は地面がなくなったんじゃないかって思うような、そんな不思議な感覚に襲われた。
あたしは、右足首を思い切り九十度に曲げて、そのまま、勢いよく地面に叩きつけられた。
驚いた。
足が。あたしの足が、あらぬ方向に曲がっている。
痛い。
痛い痛い痛い痛い。
キャーッ、っていう誰かの悲鳴が聞こえてきた後、「大丈夫か!?」って焦った様子の岡崎先生が駆け寄ってくる。大丈夫なはずない。痛すぎて、立ち上がれない。声も出ない。湿ったグラウンドの上に、情けなく蹲って「ううううっ」とうなるしかない。
「保科、ほらっ、先生に捕まりなさい!」
岡崎先生が、あたしの体を強引に抱きかかえる。ざわざわと、グラウンドが騒がしくなる。こんなところを、大勢に見られるなんて! あたしは恥ずかしくて、悔しくて、痛みとはまた別に涙が出そうだった。
そこから先は、あっという間だった。
大急ぎで保健室に運ばれて、氷嚢で足を冷やした。保健の先生が難しい顔で「これは、ちゃんと病院に行った方がよさそうね……」と言うので、あたしは先生に親を呼んでもらい、そのまま近所の大きな病院へ行くことになった。
足首が、じんじんと熱を持って腫れていく。人の足って、こんなに腫れあがれるんだ、ってくらい真っ赤に。自分の体なのに、自分のものじゃないみたいになっていくその様子が怖くて、直視できなかった。
……大丈夫。ただの捻挫だ、そうに決まってる……。
そう、祈るようにしながら検査を終え、診察室へ入ると、しかし病院の先生はどこか申し訳なさそうな顔でこう言った。
「あー……剥離骨折していますね」
はくり、こっせつ。骨折? 骨が折れてるってこと?
ぽかん、と口を開けるあたしに対して、お母さんは「それって、具体的にどこがどうなっているんですか? 治すのにどれくらいかかりますか?」と質問し、次いで、
「この子は、ちゃんと歩けるようになるんでしょうか?」
と、言った。
ついさっきまで、グラウンドを走り回っていたあたしが今、ちゃんと歩けるようになるかを心配されている。なに、この状況。あたしはドキドキして、息を呑んで先生の言葉を待った。
「大丈夫ですよ、治ります。ただ、時間がかかるのと……場合によっては後遺症が残るかもしれません」
時間ってどれくらい? 後遺症って? 練習はどうしたらいいの? 春の大会には出られる?
訊きたいことは山ほどあるのに、言葉が口から出てこない。喉がギュッとしまって、言葉を発すると涙が出てしまいそうだった。
「かなり思い切り捻ってしまったようなので、靭帯に引っ張られて骨が剥がれてしまっています。この部分ですね。これを剥離骨折と言いまして……」
お医者さんの話は、聞きなれない単語がたくさん登場して難しかった。
要するにあたしは、足首の骨が剥がれちゃったのと、靭帯を損傷しちゃったのとで、治療には時間がかかるようだ。
「あ、あの、」
ずうっと黙りこんでいたあたしが、ようやく口を開くと、先生はレントゲンに向けていた顔をパッとこちらに向け、「うん。なにかな?」と訊いた。
「あたし……あたし、陸上部で、四月には大会がはじまるんです。来月くらいにはエントリーしなくちゃいけないし……あと、あたし、キャプテンを任されることになってて、」
お母さんの目が、びっくりしたようにこっちを向く。お母さんはずっと、「三年生になったらキャプテンになって、全国にも行けたらいいねえ」とあたしに期待してくれていた。本当だったら今日、家に帰って、「岡崎先生に、キャプテンをやらないかって言われたよ」って報告できるはずだったのに――
あたしの、夢が。
未来が。
絶望に打ちひしがれるあたしに、さらに追い打ちをかけるように、先生はこう言った。
「うーん……全治二か月……いや、三か月くらい見た方がいいでしょう。しばらくは松葉杖で生活してもらって、よくなってきたらリハビリを始めましょう。足首の怪我は、治りかけの時に負荷をかけるのが一番やってはいけないことだから、完全に治るまでは絶対に走らないように」
その時、あたしの頭の中で、雷管の破裂する、パァンッ、って音が響いた。
*
クッションのついた脇あての部分を挟み込み、指の形にくぼんだグリップをぎゅっと握る。杖先を前に出し、そこに体重を乗せるように、おそるおそる前へ一歩出る。
「本当に一人で大丈夫? 教室まで送っていこうか?」
「……いい」
車のドアを閉めたいのに、松葉杖が邪魔で上手くいかない。二本の杖を片手で抱え込もうとしていると、気づいたお母さんがサッと降りてきて、ドアを閉めてくれた。たったそれだけのことなのに、あたしはものすごく悲しい気持ちになって、「気を付けてね!」というお母さんの声を無視して、さっさと歩き始めた。
じろじろと、物珍しそうな視線がこちらを向く。
うざい。うざい。こっち見んなよ。
あんたたちみたいな無神経な奴ら、あたし大っ嫌い。
胸の中ではそう精一杯悪態をついているのに、あたしは自分の顔が真っ赤になっているのを感じた。みんなが見てる。あたしを見てる。覚束ない足取りで、ノロノロ無様に歩くあたしを。
「保科せんぱーいっ」
その時、前方から明るい声が聞こえてきてハッとした。
見ると、うちの部の、一年の女子三人組が、下駄箱のところでこちらを見ていた。前に、多田ちゃんに意地悪を言っていた子たちだ。
三人組は、あたしの名前を呼んだくせに、こちらへ駆け寄ってこようとはしない。もう上履きに履き替えているから、わざわざ靴を履き替えるのが面倒なのだろう。
呼ばれたあたしは、早く行かなきゃ、早く、と焦る気持ちでグリップを握って、ひょこひょこと歩き出した。自分が歩いている姿を、一年たちがじっと見ていると思うと、嫌な汗をかいた。
昇降口の手前にはちょっとした段差があって、それを上るのにあたしはかなり苦労した。やっとの思いで下駄箱のところにたどり着くと、三人組は「すごい辛そう~」「大丈夫ですか?」「折れちゃったんですか?」と訊いてきた。心配で訊いているんじゃなくて、好奇心で訊いているんだということが嫌ってほどわかる口調と表情だった。
「う、うん。そう。なんか、骨が剥がれちゃったみたいで」
「えーっ。痛そうー!」
「それって、しばらく部活来れないってことですか?」
「いや……走れないけど、他にやれることはあるし。筋トレとか……」
ごにょごにょと、自分の言葉が言い訳みたいになっていく。痛そう、辛そう、大変そう、という三人の言葉が、ナイフみたいにグサグサとあたしの胸を突き刺す。
痛いし、辛いし、大変に決まってるでしょ。そんなこと、見ればわかるだろーがよ。
でも、言えない。昨日までのあたしだったら、言えていたと思う。あんたたちには関係ないって。それなのに、なんだか今は、そういう気力が湧いてこない。
あたしは悔しくて、グリップの部分をぎゅっと強く握りしめた。すると、ちょうどその時、背後から「せ、先輩、」と震えた声が聞こえてきた。
「あ、あの、足……大丈夫ですか?」
あたしは振り向かない。後ろにいるのが多田ちゃんだって、わかってるから。
そして、多田ちゃんの声を聞くと、昨日からずっと、お腹の奥底の方でマグマみたいにぐつぐつ煮えていた感情が、爆発するみたいに溢れてきた。
「……あんたのせいじゃん」
「え……」
「あんたがちゃんと整備しないからじゃん!」
しん、とあたりが静まり返る。
朝のホームルームまであと十分の、いちばん人がいる時間。たくさんの視線がこちらを向いている。ひそひそと、こちらに向かって何か話すような声も聞こえてくる。
あたしはそこで、ようやくくるんと後ろを振り向いて、怯えた顔をする多田ちゃんに言葉を浴びせさせた。
「あたし言ったよね!? ちゃんと整備しとけって! 雨が降って地面がデコボコしてるんだから、ハードル跳んだら危ないって、普通わかるでしょ!?」
「あ……私、整備したんです。ほ、本当です! ただ、足りなかったのかもしれなくて、」
「ウソつき! あんな穴ぼこだらけのグラウンドであたしを走らせて、怪我までさせて、あんたどう責任とんの!? それに、スタブロだってちゃんと固定されてなくてグラグラだったし、何回教えればいいわけ!? 今年こそ全国に行けると思ってたのに!」
多田ちゃんはそこで、とうとう泣き出してしまった。泣きたいのはあたしの方だ。はぁはぁと呼吸が乱れて、顔が熱くて、どうしようもない。松葉杖で地面をガンッと叩きつけると、その音の大きさに多田ちゃんはびくっと身構えた。
「あんたみたいなのろまと違って、あたしは本当に、人生がかかってたんだから! あんたが怪我したって誰も困らないでしょうけど、あたしは違う! リレーだって、あたしがいなきゃロクなタイムも出ないってわかってる!?」
「おいおい、どうしたんだよ。落ち着きなさい」
そこで、騒ぎを聞きつけた岡崎先生がやってきて、あたしの姿を見ると哀れむような眼を向けてきた。
言いたいことはもっとあるのに。この杖で、目の前でめそめそ泣く多田ちゃんを殴りつけてやりたいと思うのに。できない。周りの目が、わあわあ喚くあたしと、泣く多田ちゃんを見て、あきらかに多田ちゃんに同情しているのがわかる。
「保科。お母さんから聞いたよ。……大丈夫か?」
「あたし……あたし、具合が悪いので、保健室へ行きます」
「えっ、おい!」
よたよたと松葉杖をつきながら、歩き出す。上履きに履き替えるのも一苦労だった。立てかけた杖が傾いて地面に落ちて、カシャン! と音が鳴る。慌ててそれを拾い上げて、やっぱりよたよたとその場を立ち去る。
その間、あたしに声をかけてくる人は誰もいなかった。それどころか、「あそこまで言うことないじゃんね」「てか何様?」「自業自得なんじゃない?」という声まで聞こえてくる。
うるさい、うるさい。
あんたたちに、あたしの何がわかるっていうの?
*
それからあたしは、まるで腫れ物を扱うかのように接されるようになった。
部活に顔を出しても、みんな気まずそうにあたしを見てくる。一年女子たちはあの下駄箱での一件以来、“かわいそうな多田ちゃんを意地悪な先輩から守る会”でも結成したのか、あたしが多田ちゃんに何か言おうとするとすかさず間に入って「それ、私がやっときます!」とか言ってくる。お互い目配せしながら、まるで大切なミッションをみんなで遂行しているみたいに。
人間っていうのは、同じ敵を持つとより結束力を高めるらしい。
今まで多田ちゃんをターゲットにしてみんなで意地悪していた子たちは、あたしっていう“敵”の登場により、たぶんものすごく気持ちよく、いいことしてるって気分で、より結束を高めているのだろう。
走れないあたしは、ミーティングの後にみんなが外周に行っても、ポツンと一人取り残されてストレッチをしたり、筋トレをしたりして過ごした。たまにタイムを計測する係とか、スターターとかをやらされて、それがものすごく屈辱的だった。
でもそんなのは、まだ平気だった。まだ我慢できる。じっと黙って、時間が過ぎ去るのを待てばいいだけだから。
松葉杖で生活するようになって、10日経ったある日。岡崎先生は一人でストレッチをするあたしの元によってきて、「調子はどうだ?」と声をかけた。
「まあまあです」
「そうか。杖は、いつとれそうなんだ?」
「……予定では、一か月くらい。そこからまた一か月くらいリハビリをして、様子を見ながらギプスを外していくって、お医者さんは言ってました」
「そうか……うん、そうか」
煮え切らない様子の岡崎先生。あたしはなんだかその様子に、胸がざわざわした。
「あのな、前に話した、キャプテンのことなんだが」
申し訳なさそうな先生の顔。あたしは、ぎゅっと拳を握りしめながら、「はい」と返事をした。
「もうすぐ大会シーズンがはじまる。キャプテンはそんなときに、チームメイトを鼓舞していかないといけない。……今の保科には、それが重荷になるんじゃないかと、先生は思うんだ。だからな、石渡と、それから、深澤と話して、次の女子のキャプテンは、今回は深澤に任せようかって話になったんだ。今日のミーティングで、他の奴らにも正式に発表しようと思う」
そうなるんじゃないかってことくらい、わかってた。あたしだって馬鹿じゃない。
こんな怪我して、挙句後輩に怒鳴り散らしているところを見られたんだから――当然だろう。
でも、先生があたしに話すより先に、夏帆にその相談を持ち掛けたってところが、あたしは嫌だった。なんだかまるで、望んでもないのに精一杯気遣われたってかんじがして、脇腹のあたりがむかむかした。
「……わかりました」
「四月から記録会とかは増えてくるけど、地区予選がはじまるのは五月だし、キャプテンは深澤に任せて、保科は自分のことだけを考えればいいから。ゆっくり治していこう」
「はい。……先生、あの、」
「ん?」
「あたし、当然、リレーのメンバーからも外されましたよね?」
女子の中で、学年をいとわずとりわけ足の速い四人だけが選ばれる、リレーのメンバー。
今はまだ二月で、大会が本格的にはじまる四月までは時間があるけれど、個人種目と違ってリレーは四人で息を合わせなきゃいけないので、そろそろ本格的な練習がはじまる。バトンの受け渡しの練習はもちろん、前の走者がどれくらいの位置まで来たら次の人が走りだすかとか、そういう細かいことも決めなければいけない。
先生は、やっぱり「ああ」と重々しく口を開いた。
「お前の代わりに、遠山をいれることになった。……でも、何度も言うけど、まだ時間はある! 完治してからだって、保科なら絶対にみんなに追いつけるさ」
嘘つき。嘘つき! そんなわけない。
三か月もの間走らなければ、当然筋力は落ちるし、体力だってなくなる。走りのフォームだって、前と同じに戻すのにどれだけ時間がかかるだろう?
あたしがこうして、呑気に先生と喋っている間にも、他の子たちは走ってる。練習してる。速くなって、上手くなってる。
あたしだけ、同じ場所に取り残されていく。
「とにかく、気を落とさずにな。自分の種目に集中できる、いいチャンスだと思うんだよ。わかったな?」
「……はい」
「うん。……よし、そろそろ他の奴らが戻ってくるな。悪いけど、ミーティングの準備手伝ってもらえるか?」
「はい」
先生の言葉の通り、少しするとぞろぞろと部員たちが戻ってきた。今日のメニューは各自種目練習の後、学校の周りで走り込みだ。かなりきつかったようで、みんなもうへとへとって顔をしている。
「外周ってほんと疲れるよね」
「ほんとほんと! てか、うちの校舎のまわり、坂道キツすぎ!」
あはは、と笑い声が上がる。あたしも外周は好きじゃなかった。でも、今となっては元気に走れる他の子たちが羨ましい。羨ましくて仕方ない。
ストレッチの時間の後に、岡崎先生が「集合!」と声をかけると、部員たちは一目散に先生の周りに集まった。あたしは、いちばん後ろでみんなの様子を眺めた。
全員が整列したのを確認したところで、今日の号令係の天野くんが声を張り上げる。
「気を付け、礼! よろしくお願いしまーすっ」
軍隊みたいな野太い「よろしくお願いします」が、グラウンドの片隅に響く。あたしは何も言わなかった。前だったら、周りに負けじと声をあげていたけれど、今はそんな気分じゃない。
「はい。今日もお疲れさまでした。冬季練習の初めの方に比べれば、みんなだいぶ体力もついてきたんじゃないかと思います。で、えー、今後の予定としては、来週あたりから、大会に向けた練習内容に変更していこうかなと考えてます」
先生のその言葉に、わっと控えめに歓声が起こった。
長い冬が終わって、春が来る。ただひたすらに辛いだけのメニューが続く日々が、もうすぐ終わろうとしているのだ。嬉しいに決まっている。
「えー、それに伴って、正式に新しいキャプテンを決めたいと思います。号令係とかも、今までは二年生で回してやってたけど、今後はキャプテンにやってもらうことになります。じゃあ、名前を呼ばれたら、前に出てください」
ごくり、とその場にいる全員が息を呑む。特に、女子の方から緊張が伝わってくる。
男子のキャプテンが石渡くんになるというのは、もうみんな、大方予想がついているだろう。実力もあるし、リーダーシップも、人望もある。
でも、女子の方はまた別だ。みんな、あたしと夏帆のどっちがキャプテンになるのか、じっと息を殺して発表を待っている。
「男子キャプテン、石渡裕次郎! 女子キャプテン――深澤夏帆!」
やった! と女子の方から声があがって、すぐにそれを「こらっ」と誰かがたしなめた。思わず声をあげてしまった子も、流石にやばいと思ったのか、すぐに黙り込む。
わかってる。みんな、あたしじゃなくて、夏帆の方がキャプテンにふさわしいと思ってるなんてこと。
あたしはじっと黙ってミーティングを見続けた。照れくさそうな顔で前に出る石渡くん。ちょっと申し訳なさそうな、でも嬉しそうな顔の夏帆。
「二人にはこれから、何かと苦労をかけるかもしれないが、この部を良い方へ導いてやってほしい。みんな、二人に対してよろしくお願いしますを言おう。気を付け、礼!」
岡崎先生のその号令に合わせて、部員たちはさっきと同じように「よろしくお願いしまーすっ」と野太い声をあげた。二人はぎこちなく頭を下げて笑っている。
ミーティングが終わって、さっさと帰ろうと支度していると、女子の群れの方から話し声が聞こえてきた。聞きたくないのに、妙に大きくて高い声で話すから、耳に入ってきてしまう。
「夏帆先輩、キャプテン就任、おめでとうございまーすっ」
「ありがとう。頼りないかもしれないけど、みんな、これからよろしくね」
「頼りないなんて、とんでもない!」
「そうそう。夏帆先輩がキャプテンになって、うちらすっごい嬉しいです!」
「夏帆―、よかったじゃん。ずっとやりたいって言ってたもんね、キャプテン」
「う、うん」
わあわあきゃあきゃあと、楽しそうな声。夏帆があたしの方をちらちら見ながら、申し訳なさそうな顔をしているのがよくわかる。あたしは女子の群れを視界に入れないようにしながらリュックを背負った。
「リレーのメンバーもさ、よかったよね、正直」
その時、誰かがそんなことを言い出した。最初はおそるおそる。でも、また違う誰かが「確かに」「前はなんか、ギスギスしてたっていうか」「ねえー」と同意しはじめたら、もう止まらない。あたしは、自分の顔がまたしても真っ赤になるのを感じた。
逃げたい。この場所から、一目散に。
腰を上げて松葉杖を握りしめると、手が震えていたせいでよろめいて、しりもちをついてしまった。背後から、プッと誰かが噴き出して笑う声が聞こえる。
「リレーは団体競技だから、協調性がある人じゃないとねー」
「そうそう。いくら足が速くたってね」
くすくすと、笑い声があがる。みんな、あたしが「リレーだって、あたしがいないとロクな記録も出ない」って言ったのを知っているのだ。
あたしだってあれは、正直言いすぎたと思ってる。カンジの悪いことを言ったって、自覚してる。
でも、あんな状況になって、とにかく悔しくて腹が立って、つい言ってしまったのだ。訂正したいって思うのに、今更何か言ったところで、どうせ誰もまともに取り合ってくれないだろうし、それがきっかけでまた何か言われるんじゃないかと思うと怖くて、何も言えなかった。
「……咲、あのさ、」
俯くあたしに、おそるおそる声がかかる。夏帆の声だ。
嫌だ、そんな、いかにも同情してますって声であたしに呼びかけないでよ。あたしはサッと立ち上がり、「帰る」と短く言って、カツンカツンと松葉杖を鳴らしながらその場を立ち去った。
「おっそ」
背後から、そんな声が聞こえてきて、あたしはそのたった一言に心臓を一突きされて、自分は今、死んだんじゃないかという気持ちにすらなった。
*
それからあたしは、学校を休むようになった。
二年の今に至るまで、皆勤だったのに。
これでまた一歩、あこがれの水濱高校への道が遠のいた。
「咲。先生が、そろそろリハビリをはじめようって。……咲?」
「……うん」
「……お母さん、咲が部活を辞めたって、全然構わないって思うよ。もう走らなくたっていい。ただ、元気でいてほしいの」
「うん」
お母さんの優しい声に、枕に瞼を押し付けながら、あたしは涙をこぼしてしまった。わかってる。部活云々以前に、リハビリはきちんと受けなくちゃいけない。でも、外に出たら学校の人たちに出くわしちゃいそうで、それが怖い。
「気持ちが落ち着いたら、病院へ行こう。とりあえず、今日はキャンセルしておくね。でも……骨の状態を確認するために、今週中には一度行かなくちゃ。どうかな、咲。行けそう?」
「うん」
「……わかった。ゆっくり休んでね」
お母さんは、学校で何かあったのかとか、そういうことを一切訊いてこない。たぶん、岡崎先生からある程度話は聞いているのだろう。何度か学校から電話がかかってきて、気まずそうに受話器の子機を持って廊下に出る姿を目にした。
あと少ししたら、松葉杖はお役御免になる。
ギプスも、もう少し大げさじゃないものになって、そうやって、時間をかければ確実に、あたしの足は治っていく。
でも。
あれだけ早く治ってほしかったのに、どうすれば早く復帰できるかばかり考えていたのに、あたしは今、まったく別の心配をしている。
足が治ったら――あたし、どうしたらいいんだろう?
学校を休みはじめて一週間が経った。もうすぐ春休みがはじまる。あたしはようやく松葉杖生活から解放されることになった。病院の先生は笑って、「若い子は治りが早いなあ」と言ったが、あたしの気分はちっとも晴れない。
「どうかな。大会、間に合いそう?」
「……さあ。どーでもいいです」
「え」
「終わりですか? もう帰っていいですか?」
そう言って、さっさと立ち去ろうとすると、付き添いで来ていたお母さんは慌てて「こらっ、咲! すみません、先生」と言った。
診察室を出て、治療費を支払い、病院の外へ出る。さっさと歩き出そうとするあたしの腕を引いて、お母さんはまっすぐにこっちを見てきた。
「どうしてあんなことを言うの? 先生、びっくりしていたじゃない」
「……だって、」
ポロポロと、思わず涙がこぼれた。
だって、だって。
だって、大会に間に合いそうかどうかなんて訊くから。今のあたしには、大会どころか、部活に――いや、学校に戻れるのかさえ危ういのに。
「あれ、保科?」
最悪のタイミングで、名前を呼ばれた。ハッとして顔を上げると、呑気そうな顔をした天野くんがこちらを見ていた。あたしが泣いてるんだってことに気づくと、ぎょっとしたように目を丸めた。
「え、えと、どうしたんだよ」
天野くんはあたしにそう言った後、そこでようやく、横にお母さんがいることに気づいて、今度は慌てて挨拶しだした。
「あっ、こ、こんにちは。俺、同じ陸部で、二年の、天野っていいます」
「あ、ああ。こんにちは。ごめんなさいね、この子、ちょっと、えーと……リハビリが痛かったみたいで」
「……保科、リハビリ、痛かったの? それで泣いてんの?」
そんなわけないじゃん。そりゃ確かに、痛かったけど。でも、あたしが、その程度のことで泣くと思う?
あたしは、真っ赤な目で思い切り天野くんをにらみつけた。天野くんは「ひっ」と短い悲鳴を上げたのち、「なんで怒ってんの?」と言った。あたしは彼の、こういうところが嫌いだ。能天気で、練習に対する姿勢も、いつもてきとーだ。
「お前、学校来れないくらい重症なの? いつ戻れそうなの? あっ、でも、松葉杖はなくなったんだな」
「……い」
「え?」
「うるさい!」
無神経にズカズカ訊いてくる天野くんに、あたしはイライラして、思わずそう怒鳴ってしまった。それから、くるんと踵を返して、車が止めてある駐車場へ歩き出す。お母さんがまたしても、「ごめんなさいね」と謝る声が聞こえてくる。病院の先生にしていたのと同じように。
「おい、待てよ!」
しかし、天野くんは先生と違って、あたしのことを追いかけてきた。これにはあたしもびっくりした。
下駄箱のところで多田ちゃんを怒鳴りつけて、その結果まわりにヒソヒソ言われた時も。
新しい部長が発表されて、その流れで陰口を言われた時も。
あたしのことを追いかけようとする人なんて、だれ一人いなかった。
「お前が来なくなって、多田、めちゃくちゃ凹んでるぜ。後輩だろ? なんとかしてやれよ。それに、俺も多田もハードルのことなんて全然わかっちゃいないのに、お前がいなくなってどーすんだよ。次の一年入ってきたら、ハードルブロックはおしまいだぜ」
「し、知らないよ、そんなこと」
「知らないじゃねーよ。俺達には、お前が必要なんだよ」
ハッとした。
ゆっくりと振り向く。天野くんは、怒った顔であたしを見ている。べつに、優しさとか、慰めで言っているんじゃない。本当に、心の底から天野くんは、あたしが部活を休んでいることに怒っているのだ。
「……あんたって、」
「なんだよ」
「……ばかみたい」
「はあ!?」
相変わらず怒り顔の天野くんに、あたしは「二人でなんとかしなよ。じゃあね」とだけ言って、右足を引きずりながら歩きだした。
涙はすっかり引っ込んだし――それに、さっきまで胸にもやもや渦巻いていた、気持ち悪い感情が、ほんのちょっとだけ軽くなったような気がした。
*
翌日は土曜日だったので、学校はお休みだ。いつもだったら朝から部活があるけど、あたしはもちろん家にこもっていた。
家にいても、今頃ウォーミングアップの時間かなとか、種目練習に入ったかなとか、そういうことをぐるぐると考えてしまって、リラックスなんてできやしない。大会用のスパイクを意味もなく袋から取り出して、はーあ、とため息をつきながら眺めていると、机の上に置いてあったスマホがブブブと振動しだした。
画面に映し出された文字に、あたしは思わず、目を丸めてしまった。
深澤夏帆。
そう。――着信の相手は、夏帆だった。
あたしはちょっと躊躇って、無視することに決めた。どうせ、“キャプテンとして”あたしの様子を訊いてくるだけだ。そんなのもううんざりだ。それに、通話のモードをスピーカーとかにして、みんなにあたしの声を聞かせて笑いものにしたりするかもしれない。
そういう嫌な想像をしている間も、電話は鳴り続ける。何度も何度も。諦めることなく。
……もしかしてなにか、緊急の用事なのだろうか? 心当たりはまったくないけど、でも、もしそうだったら、流石にバツが悪い。
あたしは五回目の着信でようやく根負けし、「……はい、もしもし」と不機嫌オーラを全開に出して通話に出た。
『あっ、咲!? よかったーっ、私、着拒にされてんのかと思った!』
「……何? なんか用?」
『うん。あのさ、今日の三時くらいに、学校来れないかな……?』
「は?」
チラッ、と時計に目をやる。時刻は午後の十三時半。ちょうど、今日の練習が終わって、みんな家に帰りだした頃だろう。
『大丈夫。他の子はいないから。ね、お願い。私、咲とちゃんと話したいんだ』
「……それって、夏帆がキャプテンだから?」
よせばいいのに、あたしはあまのじゃくだから、すぐにそういうことを訊いてしまう。電話の向こうの夏帆は、『えっ?』と一瞬驚いたような声を出した。でも、すぐに『うーん、そうだなあ』と声色をもとに戻す。
『それもあるかも。半分、キャプテンだから。半分、友達として咲のことが気になるから。それじゃダメ?』
「……べつに。わかった、十五時ね」
『よかった! ありがとう。グラウンドにいるからね。無理せず、ゆっくり来てね』
あたしの足を気遣って、そんな一言を添える夏帆。後輩たちから慕われているのにも頷ける。ズキンと胸が痛んで、嫌な気持ちがムクムクと芽生えてきそうになったけど、そういうのをなんとかいなしてあたしは「わかった」と返事をした。
久しぶりに、制服に腕を通した。胸がドキドキといっている。鏡にうつるあたしは、ものすごく引きつった顔をしていた。
「あら……どうしたの? 制服なんて着て」
「う、うん。ちょっと」
「学校へ行くの? 送って行こうか?」
「ううん、大丈夫。……ありがと、お母さん」
そう言うと、お母さんはびっくりしたように目を丸めた後、「やあねえ、なによ、急に」と言った。嬉しそうだったし、ちょっと泣きそうなようにも見えた。
「夕飯、今日は咲の好きなビーフシチューにしようかな。何時頃帰るの?」
「わかんない。……でも、そんなに遅くなんないと思う」
「わかった。気を付けてね! いってらっしゃい」
「うん。行ってきます」
そんなこそばゆいやり取りを終えて、左足にローファーを、右足にギプス用の靴を履いて、あたしは玄関をくぐった。
春の日差しが、目に眩しい。
草花は生き生きと日光浴をして、グングン根をのばしている。少し前まで、マフラーをしないととてもじゃないけど外を歩けなかったのに、今じゃブレザーを着ているだけでちょっと汗ばむくらいだ。
「あっ、咲―っ!」
緊張しながら学校の門をくぐると、すぐに夏帆が飛んできて、「あっ、松葉杖なくなってる! よかったあ」と笑った。そういうのに相槌を打ちながらあたしは、用心深くキョロキョロとあたりを見回した。よかった、本当に、他の部員たちはもう帰っているみたい。
「咲、ごめんね。私、まずは謝りたくて……」
「え……」
「この前、キャプテンの発表があった時さ、みんなすごいカンジ悪かったでしょ? でも、私、みんなのこと止めれらなくて……」
夏帆は、本当に申し訳なさそうにあたしの顔を見ている。じっと、真っすぐに目を見つめて。その瞳はあんまりに真剣で、夏帆がウソを言っていないんだってことが、ものすごくよく伝わってきた。
「……あ、あたしの方こそ、」
あたしは言った。自分の声がどうしようもなく震えてるってことに気が付いて、弱い気持ちを隠すように唾を飲み込んでから、もう一度。
「あたしの方こそ、ごめん。たぶん、聞いてるでしょ。……あたしが、リレーのメンバーのこと、その……」
「ああ! うん、聞いた聞いた。あはは! でも、ほんとのことだからねえ。咲がいないと、タイムけっこー落ちるし、私正直、かなりヤバいと思うんだよねー」
「……は、」
「さっさと治して、さっさと戻ってきてよ。三走の咲からバトンを受け取って、四走のあたしがぶっち切りでゴールラインを超えるの。ねっ。個人種目だけじゃなくて、リレーも行っちゃおうよ、県大会……いや、関東……いやいや、全国!」
ずるり、と肩の力が抜けた。
あんなに気にしていたのに。夏帆の態度はあまりにも穏やかだ。
「それに、ほら。咲がいないと、ほんとのほんとに、めちゃくちゃ困る人たちだっているしさ」
「え……なに、」
「一番レーン、いきまーすっ!」
「あ、ほらほら。はーいっ!」
元気いっぱいな掛け声に、夏帆が返事をする。驚いて目をやると――多田ちゃんが、五十メートルのスタートラインで、走り出す準備をしていた。レーンには、練習用の木のハードルが並んでいる。
あたしはびっくりして、目を丸めた。多田ちゃんは、夏帆の返事の後、すぐにレーンへ飛び出す。そして、ハードルを一台一台、ぴょん、ぴょん、と飛び越えた。
下手だ。下手すぎる。
……でも、一年前に入部してきたばかりの頃よりは、だいぶよくなった。
「三番レーン、いきまーすっ」
「はーいっ!」
多田ちゃんが無事走り終えた後、今度は天野くんの声が聞こえてきた。天野くんも、多田ちゃん同様、返事の後にレーンへ飛び出す。
天野くんの走りは、多田ちゃんほど酷くない。そもそも、足はそこそこ速いし、身長があるからか、女子よりちょっと高い男子用のハードルだって悠々と超えられている。
でもやっぱり、腕の振りにクセがある。少し前に指摘した時からはよくなったけど、それでも、もっと改良の余地があるはずだ。
「ほ、保科ぜんばあああい」
なんて考えていると、ゾンビみたいな声が聞こえてきた。走り終わった多田ちゃんが、大泣きしながらあたしに駆け寄ってきたのだ。
「ぜ、ぜんばい、ごめっなさ、ごめんなさいいい」
「ちょ、ちょっと! そんな、泣かないでよ」
「わ、私の、私のせいで先輩、走れなくなって……私、先輩が大好きなのに、私のせいで、」
多田ちゃんの真っすぐな言葉を聞いていると、胸がじーんとなって、思わず泣けてきた。あたしが泣くと多田ちゃんはさらに泣いて、「泣かないでくださいっ、ごめんなさいいい」と言った。
「ご、ごめんね、多田ちゃん」
あたしは言った。
「あたし、多田ちゃんに対して偉そうだった。あの日は地面がぬかるんでて、危ないってわかってるんなら、もっとちゃんと確認してから走るべきだった。それなのにあたし、全部多田ちゃんのせいにして……」
「先輩は悪くないです! わ、悪いのは私……っ」
私が悪い、いやいや私が……。そう言い合っていると、戻ってきた天野くんが夏帆に「なにこの状況? こいつらなにしてんの?」と訊いた。夏帆は苦笑いした後、まあまあお二人さん、とあたしたちの肩を抱き、
「……あー。こほん。じゃっ、ここはひとつ、おあいこってことで、どうかな?」
と、言った。
あたしと多田ちゃんは、夏帆のその言葉に顔を見合わせ、ふふ、と笑うのだった。
帰り道。四人で並んで歩いていると、多田ちゃんがちょっと遠慮がちにこっちを覗き込みながら訊いてきた。
「先輩、部活に戻ってきてくれますか?」
「うーん……そうだなあ」
夏帆と天野くんが、ちらっとあたしの方を見る。あたしは、咲き始めの梅の花に目をやりながら、照れくさい気持ちを隠すようにこう言った。
「まあ……あの様子じゃあ、戻らざるを得ないよね。二人とも、まずはフォームの矯正からはじめよう」
「や、やったーっ! はい、頑張ります!」
「えー。俺も?」
「文句言わない! あたしのことが必要なんでしょ?」
「えーっ、天野、そんな熱烈なこと言ったの? やるう」
「は、はあ!? あれはそういう意味じゃないし、ていうかお前、チョーシ乗んなよ!」
あはは、と笑い声があがる。前より軽くなった右足を、ひょこひょこと引きずるようにしながら、あたしは歩いた。
ゆっくり、ゆっくりと。
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