夜に光る魚は骨で踊る

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「松本さん、大丈夫ですか?」  先生に名前を呼ばれて、ようやく私は私と目が合った。私はこの世界に初めて来たかのように、あっけにとられたような顔で壁一面の大きな鏡の前に立っていた。  春の花と磯の匂いがする真っ暗な夜から、真っ白で清潔感のある部屋にいることをはたと思い出す。ここは、新設された公民館のレッスンスタジオだ。 壁の一面が鏡張りで、床はピカピカのフローリング、部屋の壁にはポールも設置されていて、バレェのレッスンもできる。改築されるまでこの公民館は、床が禿げ上がり、カーテンはボロボロ、まるで心霊スポットのようだった。けれど、今は高齢化が進むこの町の健康促進のための、コミュニティー広場として輝きを放っている。特に、このレッスンスタジオのおかげ、今までこの町にはなかった文化が入ってくることとなった。 「松本さん、大丈夫ですか?」  私にダンスを教えてくれている、めぐ先生が心配そうにこちらを見ている。  先生のことは好きだ。この町では誰もしゃべれない東京弁を話すところや、ミントグリーンの髪や、上下真っ黒なスウェット生地のジャージを着ているのに、鍛えられていることがわかるその背中も、年齢不詳と言いながら、高校生の時、持っていた携帯の機種で私より年上であることをバラしてしまうところも。何より、愛されて生まれてきたことがにじみ出ているところに憧れる。 「あー。すんません。違うこと考えてました」  私が素直にそう言うと、先生は、 「そうですか。毎日、お疲れ様です」  と優しく言ってくれた。  こんな風に生きて来れたなら、どれほどよかっただろう。 「お仕事、忙しいん?」  レッスンの休憩中。クラスで一番年長の岡野さんが声をかけてくれた。彼女はもう六十歳の還暦を迎えているにも関わらず、毎週きちんと練習してくるし、ショートの黒髪に白髪が見えたこともない。それに、曲がる気配のない背筋は、彼女が「美しくありたい」という強い意思がそのまま表れていた。 「逆です。最近、工場の仕事があらへんから、残業もでけへんし。だから、実は新しいバイトはじめたんですよ」 「あら、すごい。若いってええね」  岡野さんは、何かにつけ「若いから」という。だけど、それは嫌味でも、お世辞でもない。それは旦那さんが会社を経営していて、豊かそうではあるが、それを鼻にかけることはなく、いつも人を気遣うための美しい振る舞いからして、そうわかる。今の言葉も心からの賛辞だ。 「どんなバイトなん?」  岡野さんの後ろから顔をのぞかせた橋本さんは介護士で、この近隣の老人ホームで働いている。忙しいからか、いつも化粧っけがなく、顔色もよくないが、誰が何を言ってもよく笑っているところが、彼女を健康そうに見せている。そして、彼女は今、旦那さんと高校生の息子さんと一緒に暮らしていて、毎日相当な激務をこなしているそうだ。なので、生きているだけで、えらいと私は思っている。 「居酒屋さんです」 「魚、捌くの?」  富田さんのパーマを当てた髪がふわふわと揺れる。富田さんはクラゲみたいな人だ。おおらかで、小さな手足を振って踊る時は、海を漂うクラゲのように愛くるしい。私の胸はその姿にいつもきゅんとしてしまう。 けど、彼女はクラゲのように流されるだけじゃなくて、意思をもって生きている。四十代で独身の彼女が社会という荒れ狂う海でもちゃんと漂いこなしているのは、生き方の軸を強固なまでにしっかり持っているからだと、最近思った。 「いえ、それは技術があらへんとできませんから……」 「じゃあ、何するの?」 「飲み物を運んだり、たまにお鍋を作ったり、雑炊を作ったりします。最近、卵がふわふわになる方法を教えてもらいました」  すごーい。と言いながら、みんなは手を叩いてくれた。先生はその様子を温かい目で見守ってくれている。 「じゃぁ、いつかみんなで食べに行きましょう」  先生のその一言で、さらに拍手が大きくなった。私はついつい照れくさくて笑ってしまう。  そんな温かさに包まれて、笑っていたのに。ふいと体が冷たくなる。  そうだ。昨日、高校生に告白されたんだった。
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