夜に光る魚は骨で踊る

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 私の人生は「愛」に恵まれたことがほとんどない。  生まれながらにして、母親はけしていい人ではなかった。父親は知らない。  母親はいつも黒いドレスみたいなワンピースを着ていて、顔には糸のように細い眉を引いて、縦皺が深く入った唇に真っ赤な口紅を差す。そして、白粉は死化粧のように真っ白になるまで塗りたくった。  彼女はまるで海の魔女。  まぁ、それもあながち間違いではない。母はずっと夜の女だったから。  昼間は貝のようにひっそり寝ているのに、夜になるとギスギスの分厚い化粧をして、漁港に隣接したスナックへ出勤した。そして、何度繰り返しても懲りることなく、彼女に暴力を振るう碌でもない男を連れて帰って来た。  私は海の底で息を潜めるように生活した。小学校も、中学もできるだけ目立たないように。 髪の毛はパサついててもいい。持ち物は白、黒、グレー。答えが分かってても手はあげない。友達には意見しない。対立で挟まれる前に、そもそも仲良い友達を作らない。外で傷ついても治してくれる人はいない。むしろ、塩を塗り込まれる可能性がある。  そうならないよう必死に隠れ、壁のようになることだけを意識する毎日。  それでも、私を見つけてくれる人は時折いた。 「松本!もっと輝け!」  体育教室が一番多感な時期の私に手向けてくれた願い。  しかし、あれほど、私を震え上がらせた言葉はない。爽やかな笑顔、若々しい肌、自分は誰からも好かれているという自信。確かに本当に大勢の生徒や保護者からの好意を、彼はその厚い胸板で受け止めていた。  彼は私が突き抜けるように青い空と、キラキラと太陽の光を反射する白い砂浜みたいな場所に上がって、若さを謳歌することを善意で望んでくれていた。お前の生きる場所はこんなものではないと。  冗談ではない。  私はここでいい。暗い海でひっそりと、誰にも見つかりたくない。私は欲張って、運命に逆らい捌かれたくはなかった。  恵まれた者には分からない。生きるための戦術。  高校をなんとか生き延びて卒業すると、頭がいいわけではなかったから、山の上にある地元の工場にそのまま就職した。その日海から上がった魚を缶詰にする工場だ。海辺の停留所からバスが出ているので、朝、協調性しかないみんなと同じ作業着を着てバスに乗り、定時になるとバスに乗って帰る。  旅行をしたことはない。友達はいない。趣味もない。私はずっと生臭い匂いのするこの町でしか生きたことがない。ただ、寄せては帰るつまらない生き方。  ちょっとだけ人と違うとしたら、不倫をしていたことぐらい。まさか自分がするとは思ってなかった。しかも、騙されたのではなく、最初から承知で飛び込んだ。  相手は、会社の上司だった。ロマンスグレーの髪と、いつもアイロンのかかったシャツだけが魅力的なおじさんだった。 「松本はプレーリードッグって知ってるか?松本は、ほんまに似とるんや。お前にて、かわいいんやで。  せや、今度一緒に見に行こう。ほんなら、似とるってわかるから」  褒められたと感じた私はあまりにもアホだったが、「かわいい」と言われたことが衝撃的過ぎてそれ以外は何も自分の中に残らなかったのだ。男の子に見向きもされなかった人生の思わぬ落とし穴だった。  今ではもう聞けないけれど、あれはわざとであったに違いない。わざと、無理やりにでも「かわいい」と褒めて、寂しそうな女に近づいてきたのだ。いや、彼のせいだけではない。もしかしたら、私も母親と同じで、「さみしい女」の在り方を血で知っていたのかもしれない。何にせよ。私たちはお互いに罠を張り合い、お互い笑顔で捕まった。  そんな母親も不倫相手も失ったのは、ほぼ同時だった。  母親は病気。不倫相手は奥さんにバレたとかで、去って行った。辛いことは辛いが、いつまでも泣いて落ち込んで、自暴自棄になることはなかった。どんなことがあっても、気持ちに蓋をして、じっと低燃費で生きる。要は、報われないことにそこそこ慣れているのだ。
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