夜に光る魚は骨で踊る

6/20
前へ
/20ページ
次へ
 お店は居酒屋と日本料亭の間のような和式の店内だが、BGMにはいつもドビッシューがかかっていた。幻想的な店内に惹かれたお客さんはお酒と音楽に酔いながら、いつも柔らかな千鳥足で帰って行く。 「おはよございます」   夕方、魚の屁のみたく小さな声で挨拶をして、私が暖簾を潜ると、店長が満面の笑みを浮かべて、こちらを振り返った。 「おはよー!!ねぇさん!」  私は頷きか会釈かわからない、曖昧なお辞儀をし、店の中に入る。十八時なのに、『おはよう』と挨拶するのはなんだが不思議な感じだ。  この店は店長が贔屓にしている漁師さんから新鮮な魚を降ろしてもらい、新鮮なまま提供するのを売りにしている。特に、春先は、サワラや真鯛が取れるので、それを目当てにしたお客さんが遠方からも大勢くる。  店長はとてつもなくいい人で、魚みたいに大きな目でいつもしっかりと目を合わせながら人と話す。そして、五十代半ばなのに肌がツルツルで、ちょっと太っているからか歩く時はガニ股、髪はサイドを刈り上げてしまっているから、おばさんというよりなんだか無邪気な少年のように見えた。  言葉は荒くて、すぐ飲んだくれる。それでも根は優しいから、そんなところがまさに海の女。とはいえ、私はこの人が苦手だ。嫌いとかじゃなくて、苦手。 「どないしたん?仕事忙しいー?」  彼女は私にぐっと顔を近づけ、大きな目で瞬きする。私はその欧米じみたフランクな距離感に思わず、身を固めた。 「ちょっと、店長。ねぇさん、困っとるやん。早く着替えさせてあげんと」  奥から板前の神田さんが顔を覗かせて、店長を諌めた。  彼はここの板前で、五十歳くらいだ。ここに来る前は、流しの板前をやっていたらしく、東西南北、はてはロサンゼルスで包丁を振るっていたらしい。私は先日話してくれた、砂漠地帯でおこった無法者達との大立ち回りの話は思わず、賄いの箸が止まるほどに聞き入ってしまった。しかし、3年ほど前からこの町に腰を下ろしたそうだ。彼は方々を彷徨ったせいで、土地の雰囲気を嗅ぎ分ける才がついたのではないかと、私は思う。  ここはいい。  暴力的な言葉は戴けないが、人はいい感じの距離で接してくれるし、目に入る物のどこかには潮風にさらされた錆があって、常に死の匂いが漂っている。  若者も少ないから「元気を出して!精一杯生きよう!」とギラギラと責め立てたりしない。「まぁ、いいか」と自分の人生を諦め、廃れることを優しく許してくれる海辺町。堅苦しい品性を置き去りにした町。ここは終の住処にはもってこいなのだ。  私は、神田さんにぺこりと頭を下げると奥の更衣室で、制服に着替えた。制服は上下黒で、ズボンはゆったりとしていて、上は和服でありながら、甚平のように袖が短く簡単に着ることができる。これに黒いハンチング帽と長いエプロンをつけると完成。 「あー!松本さん!あかん、あかん。全然オシャレちゃうやん!」  更衣室から出てきた、私にここのバイトでは古参メンバーである大学生のりなさんが駆けてきた。 「エプロンはもっと下でー。帽子は浅く被るんですよ」  高校生と大学生ばかりのバイトの中では、私が一番年長であるにもかかわらず、ここではいつも末っ子みたいな扱いを受けてしまう。一番新参者だから、当然なのだけど。  私は柔らかな指先にエプロンと帽子を取られ、正しい位置へと直される。彼女はついで私の前髪も軽く整えてくれる。それはまるで、おねぇさんが小さい子に行うようなことで、私は指先がおでこを撫でる感覚にくすぐったさを感じながら、されるがままにしていた。 「はい!できた!」  実はこうやって優しくされるのも苦手。彼女から香る女物のいい匂いも苦手。けれど、私はその黒い塊を心の中で、うんと潰して丸めて、自分の炉に投げ入れる。そうして、逃げ出したい気持ちを今を乗り切る力に変えている。 「あと、リップもつけないよ。うちのでよかったら貸しますよ。春の新作なんですけど、ピンクの発色がよくて、ちょーオススメなんです!」  目立たない灰色のネズミのわうな生き方を心がけてきた私からすれば、どんなお下劣な単語よりも、私を震え上がらせるワードが次々と出てきたものだから、私は思わず両手でバリアを張った。 「いいです!いいです!ほんと、いいです!」 「遠慮せんと!」  子供みたいな攻防をする中、勢いよく入り口の戸が開かれた。 「おはようございまーす」  太くてしっかりした声が、店の中に響く。 「あ!ゆうまおはよう!」  店の中にいた女子達が一斉に入り口へと、押しかけた。彼はここのアイドルだ。  高校生の彼は刈り上げた頭に、シャツがはち切れそうなほど逞しい腕を持っていて、黒目はキラキラと輝いて、白目はいつも純白だった。言い方は悪いけど、人間の新鮮とはこういうことだ。 「なんや。なんや。みんなして来て。早う、準備せんと」 「なぁー、今度。みんなで、ユニバいこよ。ユニバ」  りなさんがゆうまくんに身を寄せて、下から覗き込むように、問いかける。私は彼女から香った、ムラッと来るほどの甘い匂いを思い出した。 「あかん、あかん。俺にそんな金ないわ」 「えー。また、違う女けー?」 「ちゃうわいや!!」  彼がそんな荒っぽい言葉を使うのを初めてみた。 「俺は(はよ)う金貯めて教習所行くんや。それにユニバは彼氏と行けや」 「えーみんなで行った方が楽しいやん。それと、車の免許取ったら一番に乗せてなぁ」 「なんで、お前乗せなあかんねん」  すれ違う彼と、バチっと目が合った。  昨日告白された私は慌てて俯き、奥へと続く道を開ける。 「松本さん、おはようございます」 「おはようございます」と言ったものの、冷や汗が背中を流れていて、きちんと言えたかどうか自信はないが、ゆうまさんが「ふん」と優しく鼻で笑ってくれたのはわかった。口元が自然に綻んでしまう。 ここは温かさをぎゅっと凝縮した優しさの密度が濃い場所だ。  私はそんな世界をずっとずっと知らなかったから、戸惑い、上着で身を守っている感じ。それは北風と太陽に似ていて、今まで出会った人達の多くは、「私」という人を暴いてせせら笑うために、傷つくような言葉を吹き荒らし、優位に立とうと考えていた。私はその度に上着を掻き抱いた。しかし、ここの人達は違う。いつも温かく照らしてくれる。店長のこともバイトのみんなのことも、苦手なのは惜しみなく愛を持った焼けるほどの熱い手で私を引っ張ってくれるからだ。打ち解けようとしてくれる。私はあまりの熱さに怯え、今日も上着を脱ぐまいと意地を張っているが、それくらいしてくれないと、この輪には入れなかったと思うから、感謝している。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加