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「松本さん、下の名前なんて言うんですか?」
最後のお茶を飲んでいた時に、まいさんに突然聞かれて、私はバレない程度に小さく驚いた。人生で自分の下の名前を聞かれることなど、ほとんどなかったからだ。
母は「あんた」
上司は二人きりでも「松本」」と呼んだ(これは奥さんへのカモフラージュに違いない)
学校ではずっと「松本さん」
仲がいい人がいないということはそういうものだ。
しかも、できれば聞いてほしくない。
「今日からみんな下の名前で呼ぼうって話になったんですよ。
せやから、松本さんの下の名前も知りたいなと思って」
私の入っていない「みんな」。しかし、卑屈になるより、下の名前を教えるという行為がいままで以上のプレッシャーで、さっき食べたものが、胸が競り上がってきそうだった。
りなさんは子供を諭すように、ゆっくりと優しく言ってくれた。。
「名前、なんていうん?」
小学生の低学年くらいはたまに聞かれることがあった。それは子供の純粋無垢な精神からだ。けれど、年齢があがるにつれて、徐々にその数は減り、可愛くもない隠キャラに名前などいらなかった。私はいつでも「松本」。好かれてないのだから、「松本」。そうして、ついに誰も私の下の名前を呼ぶことはなくなっていた。
私は自分の名前を言うだけなのに、胸がつかえるように喘いでしまった。みんなが不思議そうにこっちを見ていて、私の下の名前を知っている店長は一人、ニヤニヤしている。
下の名前は、私が死ぬまで付き合っていく名前なのに、私はいつのまにか名字に縋って生きていたことに気がついた。いつか変わるかもしれない名字こそが、本当の自分であるように錯覚していたのだ。
だって、本当の自分を晒せばみんな失笑するに決まっている。普通でない。奇異であると、嘲るのだ。だから、私はありふれた名字に隠れて生きてきたのに。受け入れる約束もしてくれないのに、ありのままの私を求めないでほしい。
だけど、そんな弱々しい私が抵抗するだけの確固たる強さはなく、「きらりです」と蚊の鳴くような声で、答えた。
「「え?なんて?」」
その場にいた全員が聞き直した。アホな私はちゃんと声に出せば一回で済んだのものを、聞こえなかったために、身を乗り出した高校生にさらに近づかれ、再度名乗る羽目になってしまった。
「きらりです」
「きらり?」
まいさんが復唱する。
「ほんまに、きらりって名前なんですか?」
りなさんが、目を丸くして言う。
お願い、連呼しないで……。
「そうです」
子供たちがどっと湧いた。
「えー!めっちゃ可愛いじゃないですか」
と、りなさんが満面の笑顔で言ってくれる。
「え?名前はひらがな?ひらがな?」
まいさんは、さらに身を乗り出して、私に迫ってくる。
「ひ、ら、がなです」
かわいいー!!の大合唱。私の中で申し訳なさの銅鑼が鳴っている。
おかしくてごめんなさい!似合ってなくてごめんなさい!
突然、乱暴にゆで卵を剥くように、体を暴かれ、自分に触れられたような気がして、とにかく汗がやばい。
しかし、ひたすらにご飯をかき込んでいる。ゆうまさんを見て、高校生男子の、食欲はすごいなー。とだけ思った。
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