夏祭り

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「中井さんが引っ越さなかったのは、結衣が友達と別れて悲しまないようにしたからだと聞きました。それって、転がり込むのと同じ意味ですか? あっ、そうだ、ここにいる方たちにも知って欲しいんですが、中井さんは、役員でもないのに、夏祭りの櫓組みを手伝うくらい頼りになる人です。」 「な、な、何をあなたは……わ、私にこんな大勢の前で恥をかかせて」  横山の顔が真っ赤に染まって、ゆでだこのようだ。  俺が怒りで返さなかったのは良かったとして、相手の立場を無くさせたのはイケなかったらしい。  そんな器用に加減なんかできるか。ば~か!   それに、大勢の前で恥をかくようなことをしたのは自分だろ。  半ばヤケになったとき、結衣の予測が本物になった。 「あなた陽翔君って言ったわね。宮田さんところの息子さんかしら。確かお父さんは単身赴任されているのよね」  これだから田舎は嫌なんだ。外部との交流がないまま、同じ人間たちと同じパターンの平凡な毎日を繰りかえすから、他人の家の話で盛り上がって、仲間意識を活性化させようとする。プライバシーなんてあったもんじゃない。  俺はわざとらしく大きなため息をついて、だから何? と言いた気に、冷めた視線を送る。横山が怒りでわななく口を開いた。 「最近はお家に帰ってらっしゃらないそうだけど、単身赴任じゃなくて、本当は生意気な息子さんに愛想をつかしたか、女の人ができたから、出て行ったんじゃないの」  俺の中で怒りが沸騰した。握った拳がブルブル震える。  お前なんかに、お前なんかに……  考える間も無しに、拳が上がる。周りでヒッと息を飲む音がして、横山の顔が驚愕に引きつった。  俺が大きく一歩前に踏み出した時、バサッと何かが落ちる音に続き、俺の名前を呼ぶ男の声が聞えて、俺は歩みを止めた。背中で野次馬の生垣が崩れるのを感じる。  ぜぇ、はぁーと激しい呼吸音が聞こえた方に振り向くと、カッターシャツが肌に張り付くほど汗だくの親父が、膝に両手をついてこっちを見上げている。足元には放り出された黒いビジネスバッグ。その横には、ここまで案内してきたのか、荒い呼吸を繰り返す中井が立っていた。 「陽翔。……遅くなってごめん。仕事で……帰れないせいで、嫌な思いさせたな」 「遅ぇ~よ」  あんなに憎かった親父なのに、顔を見てほっとした。  情けないけど、俺はまだガキなんだって思う。  固唾を飲んで見守っていた人々も、俺と横山の一触即発の事態が去ったことを感じ取り、張り詰めていた空気が和らいだ。
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