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「松木さん、今日は月報を忘れずに提出してね」
灰色の無機質なパーテーションの向こうから聞こえた声に、私ははっと顔を上げた。
定時になるのとほぼ同時にリマインダーの役割を果たしてくれたのは、先輩の堀渕さんだった。威厳がない、とは言い方が悪いが、こちらが構えずに済む穏やかな声でそっと教えてくれる。
彼は私の目の前のパーテーションからひょっこり顔を覗かせると「出さないと後で面倒だから」と囁いて課長をちらりと見遣った。
「忘れるところでした……ありがとうございます」
小さく頭を下げる。
私は恐ろしいほどに仕事が遅く、忘れっぽい性格だった。職場だけではない、お忘れ物預かり所に駆け込んだことは、数えきれない。そんな私が報告書の類を忘れたことがないのはひとえに彼のお陰だ。親指を突き立てた彼の左手にはきらりと銀色に光るものがあった。結婚指輪だ。
私より十歳ほど年上の堀渕さんは既婚者だった。羨ましいわけではないが、つい指輪に目がいってしまう。結婚しているということは、その前の段階、すなわち奥さんと恋人関係を結ぶ段階を経たということだ。
向かいを見ると彼の頭がちらりちらりと見える。キーボードを高速で叩く音が聞こえる。パーテーションの向こうの堀渕さんは銀縁の眼鏡を光らせ、癖のない黒髪を耳や襟にかからない辺りで切っている。つまりほとんどいじっていない、標準的な髪型だ。すれ違う人誰もが一瞬で彼を真面目な人だと判断するだろう。それでいて彼が笑う時は、細い目をきゅっとさらに細め口の端からニッと八重歯を覗かせる。そんな彼と奥さんが紡ぎ出す家庭はさぞ楽しくて、明るくて、崩壊の危機もないことだろう。
仕事が早いうえに後輩のサポートもしてくれる彼が奥さんに見そめられたように、私にも人に好かれる何かがあるのだろうか。そんなことを考える間にも時は刻まれていく。
既出の通り、私は仕事が遅かった。堀渕さんの十分の一もこなせていないだろう。つい余計な考え事をしてしまうのだ。次第に一人、二人、三人と、腰を上げて帰り支度を始める。気づけば外は真っ暗で、閉まっているはずの窓からは冷気が立ち昇っている気がした。私は背中を丸める。仕事を続けようとキーボードを叩いていると、不意に右手の中指がひりひりと痛みだした。
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