その不思議、甘口なり

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「あ、血が」  思わず呟く。中指の爪の根元、甘皮の辺りから赤いものが膨れ上がった。そういえばそろそろ乾燥が気になる季節になってきたな、などと考えながら鞄からティッシュを取り出し、一枚抜き取って中指にあてがった。血はティッシュに滲んで小さな赤い染みを広げた。痛みがひどいわけではないが、あまり見たい光景ではない。はあ、と溜め息をつき、指を押さえたまま背もたれに背中を預けた。 「指、どうしたの?」  不意に右側から声をかけられた。そちらを見ると、通路を挟んだ机に同期の新城(しんじょう)くんがいた。 「新城くん。まだ残ってたんだ」 「うん。まあ、ね」  彼は椅子に座ったままこちらへ顔を向けたが、私が彼を見るとすぐにまた前を向いてしまった。そういえば最近の彼はいつもそんな感じだ。一対一で話しているとほとんど目が合わない。どことなくよそよそしさを感じるのだ。入社したばかりの頃はそんなことはなかったはずなのに。私が何かしてしまっただろうか、と少々気にしていた。 「えーと、まあ、指は大丈夫。乾燥肌なだけだから」  私も何となく気まずくなってしまう。さて業務の続きを、と向き直ってはっとした。  新城くんはてきぱきと仕事をこなす人だ。こんな時刻まで残るのは堀渕さんのように大量の仕事を請け負う人か、私のように進めるのが遅い人かだ。彼が残っているなんて珍しい、と首を傾げつつ、ようやく必要な報告書を提出し終えた。 「終わったー!」  伸びをすると、向かいから堀渕さんが「おつかれ」と明るく声を掛けてくれた。 「おつかれさまです! はあ……肩こった……」  帰り支度をしながらちらりと右側を見た。つい今しがた、私の指を気にかけてくれた彼がいた席には、ただ真っ黒な画面のパソコンがあるだけだった。  そうか、彼はもう帰ってしまったんだ。  誰もいない席がひどく薄暗く見えた。電灯が消えているわけではないのに。
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