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5
来た、と思った。
終礼後、帰り支度を終え鞄を持って立ち上がろうとした時、意を決したようにして吉沢明里が声を掛けてきた。
「あの、葛城君、ちょっといいかな?」
緩慢な動作で振り返り、初めてまじまじと彼女の顔を見る。どうする?すごく微妙なラインだ。とりあえず保留にするか?といろいろと思案していると、
「葛城君って、料理も頼めたりするのかな?」
「は!?」
予想外の言葉に、反射的に大きな声が出た。すると彼女は慌てたように顔の前で素早く手を振る。
「いや、さすがに家庭部は駄目かなって思ったんだけど。来月の貸出簿は空欄だったし、それに、それ」
そう言って、彼女の視線が斜め下、俺の指先へと向かう。
「料理もするのかなって」
その瞬間、一気に顔に熱が集まるのがわかった。
俺の中指と人差し指には、絆創膏が貼ってある。先日の試合の時には液体絆創膏で乗り切ったけれど、マメが破れて出血したからテープに変えた。そして、指だけじゃない。両方の手のひらにもいくつも貼ってある。せめてそれらは見つからないように、俺は手のひらを握り締めた。
「実は来月ね、弟の誕生日なの。だから家庭科室でケーキを作る予定なんだけど」
「えっと……」
何で家で作らないの?という疑問が顔に出ていたのだろうか。彼女は続ける。
「私の家、大家族なの。ちっちゃい子がいっぱいいるから、家だととても落ち着いて作れるような状態じゃなくって。顧問の先生に頼んだら教室使っていいよって。部の活動っていうより、個人的なお願いになっちゃうんだけど」
「ごめん、俺料理はちょっと」
彼女の視線がまた俺の指先に向かう前に、「じゃぁ」と軽く手をあげ帰ろうとすると、
「あっ!そっか、野球か」
勢いよく彼女を見ると、左の手のひらをこちらに向けて広げ、右手で指差している。
「弟――大和っていうんだけど、手のひらの同じようなところにマメができてるよ」
驚異的な自分の間抜けさに、消えてしまいたくなる程恥ずかしい。
「弟や妹の世話であんまり部活に参加できないんだけど、毎日家でね、時間見つけては素振りしてるの」
雲一つない晴れたような笑顔でそう語る彼女は、俺の焦りなどまったく気にしていない。
「でも、大変だね。そんな手でボール投げるのって痛くないの?」
痛いよ。
「ピッチャーは割と、マメができる人多いよ」
笑顔を意識しながら、質問の答えになっていないことを言う。すると、彼女は眉尻を下げて困ったように笑った。
「みんなが葛城君に頼む理由、すごくわかるな」
いきなり何を言い出すんだろうか。俺は彼女の顔をじっと見つめ、言葉の続きを待った。そして、彼女は落ち着いた、静かな声で言う。
「頑張ってくれるからなんだね」
一瞬、何を言われたのかがよくわからなかった。頑張ってくれるから?そんなことある訳がない。頑張ったって、結果が出ない奴には誰も頼まない。
何も答えないままでいる俺に、彼女は気を取り直すように笑顔を見せた。
「やっぱり駄目かな?葛城君と作ったら、なんだかものすごいケーキが出来そうな気がするんだけど」
「食べれたもんじゃないと思うよ」
「それは心配しなくて大丈夫!大和、なんでもうめぇって食べるから!」
え?そんな軽い感じでいいの?と、なんだか気が抜ける。
彼女は何がそんなに面白いのか、さっきからずっと笑顔を浮かべ続けている。ちゃんと喋ったことがなかったから知らなかったけれど、全然、普通に、明るい子なんだなと思う。
そして、以前教室に来た、弟の姿を思い出す。姉と似たような笑顔で、喜んで食べている姿を想像する。グロテスクな失敗作を、それでも笑いながら食べている姿も。
「いつ?誕生日」
「え?来月の十日だけど……」
それまでには、この手も治る。治ってしまう。
どうしようかと思いながらも、不思議と、ずっと忘れていた久しぶりの感覚に近いものを感じていた。
一体、何がそうさせるのか。
吉沢が女子だから、思ったよりも明るい子だったから、弟を想う、姉の頼みだから。
きっと全部そうだけど、そうじゃない。そうじゃなくて、さっき俺の手を見た吉沢の目に、これっぽっちも失望の色が浮かんでいなかったからだ。成功しようが失敗しようが、馬鹿みたいに努力している俺を、吉沢は笑わないで、ただそれだけできっと認めてくれる。
応えたい、と思う。ただただ真っ直ぐ、純粋に、頑張ってみたい。
「わかった。それまでにはなんとかする」
「いいの?」
いいよ、頷きながら、頭のなかで早速スケジュールを組み立て始める。まずは書店に行って本を買って、帰りにスーパーに寄って……って、そもそも何のケーキを作るつもりなんだ?
尋ねようと顔を上げると、彼女は何故だか目を一層輝かせていた。そして、「やっぱり葛城君ってすごいね」と声を弾ませて笑う。
その途端、思いがけず早くなる鼓動に戸惑いながらも、
「おう」
俺は笑って、大きく頷いて見せた。
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