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「ヤショーカさま、お目覚めください」 まだ夜が明けきっていないころ、キンマはヤショーカの体を軽くゆすった。 しかし、いつもは昼まで眠っているヤショーカは、まだまだ夢の中だった。 「ヤショーカさま、ヤショーカさま。マアトさまがご出立されますよ」 マアト、の言葉にぱちと目が開いた。 しかしうまく体が動かせないのか、寝ぼけているのか、両手を空中に伸ばすだけだった。 マアト、の言葉だけで夢から覚めるかわいらしい雛の姿に、このまま寝かせてやりたくなったが、後になってマアトの見送りができなかったと泣くのは目に見えていた。 今無理にでもおこしてマアトに抱っこさせやらなくては、ヤショーカがかわいそうなのには変わりなかった。 「寝かせてやれ。昨日は遅くまで起きていた」 着替えを済ませたマアトが、キンマの後ろからヤショーカを覗き込んだ。 わからないやつだと内心キンマはマアトに呆れていたが、顔には出さなかった。 もう半分瞼が落ちかけ、ふにゃふにゃとなにか言っているヤショーカをみてもうダメかなと思ったが、マアトに向かって手を伸ばしているのを見ると、たまらなくなった。 外出用のヤショーカの上着を寝間着の上から着せると、マアトから抗議の声が上がった。 「正殿の入り口までです。最近は体の具合もよろしいですし、食事もお召し上がりになりますから、お風邪など召されません」 「そういうことを言っているのではない」 憮然としたようすだが、マアトはすでにヤショーカを抱っこしてやっていた。マアトに抱かれていることがわかるのか、ヤショーカも幸福そうにまあと、とため息を漏らしていた。 下女たちが行ってらっしゃいませ、と控えめに挨拶をする。 まだ夜の気配がしている。 後宮のろうかはうっすらと朝もやに包まれ、まばらに下女たちが朝の支度をする音が聞こえる。 衣擦れの音にまぎれて、朝を知らせる鳥のなきごえも、遠くの方から聞こえてくる。 すこし前を歩くマアトに従いながら、キンマはマアトに抱かれているヤショーカを落ち着かせるように話しかけてやっていた。 「よろしゅうございましたね」 「うん」 「鳥が鳴いておりますよ」 「とりさん」 「ええ、鳥さんですね。」 「マアトにもきこえる?」 「聞こえる」 「あの鳥知ってる?」 「知ってる」 「キンマは」 「存じております」 「ぼく、しあない」 ずいぶん目が覚めてきたようだが、ヤショーカはうまく話せない。年のわりにはとても幼かった。 最初にヤショーカを見たとき、キンマはマアトの虐待を疑った。マアトに限ってそんなことはないと思いたかったが、ヤショーカの体にはたくさんの怪我ややけどのあとがしゃれにならないくらいに残っていた。 マアトに問い詰めると、またそれかと怒っていた。 しかし詳しく事情を聴くと、キンマは恐ろしい思いがした。 それ、に導かれるようにしてヤショーカに出会ったというマアトも、ヤショーカの素性についてはほとんどキンマと同じ見解だった。 おそらくは国境付近の危険地帯。奴隷として妖魔の足止めのためのエサにされたのだ。 きっとその連中は、ヤショーカがアナハバキだということにも気が付いていなかったし、アナハバキのことを少しも理解していなかったのだろう。 妖魔はアナハバキを決して襲わない。連中が無事でいられたのはヤショーカを連れていたからだ。それが己の保険のために、さらにエサを撒いて安心しようとした。 アナハバキを置き去りにした連中を、妖魔は嬉々として襲ったことだろう。指をくわえてみているしかなかった食事が、突然自分のところへ舞い込んできたのだから。 問題はヤショーカ自身も自らの業を理解していないことだった。 ヤショーカはアナハバキの自覚がない。ただ本能に従ってマアトを求めているだけで、しかもそれも十分には与えられない。本当ならばもっと無分別にマアトにしがみついてもよいのだが、ヤショーカは自覚がないせいか妙に聞き分けがいい。マアトを求めることを、自らの甘えのように恥じるときさえある。それはアナハバキとしては危険なことだった。 この子は長く生きられないかもしれない。 それがキンマがヤショーカに抱いた最初の思いだった。 雛のうちに本能が満たされなければ、大人になってもアナハバキの力が十分に開花しないことが多い。力が弱いということは、すなわち短命なことを意味していた。 それどころか、大人にさえなれないかもしれなかった。アナハバキはどこまで寿命があるのかキンマの知るところではなかったが、その致死率は高い。10人生まれればそのうち5人は大人になれないまま死んでゆき、うち4人は30年も生きない。のこり1人だけが、果てしなく長い時を生きねばならなかった。 例え本能が満たされても、5割の確率で幼くして亡くなるし、9割の確率で30年のわずかな生涯をおえるのだ。それならば、満足に膝の上に登らせてもらえないこの子が大人になるのは、絶望的なことだった。 「マアト、今日いっしょにねられる?」 「さきほどまで寝ていたのに、もう寝る話か」 「マアトはいい匂いがするから、いっしょにねたあきっと気持ちいいの」 「そうか、いい匂いがするのか」 マアトは答えなかった。キンマにも答えはわかっていた。 マアトは玉俊に忠誠を誓った戦士だ。主人の命令には決して逆らえない。玉俊の許しがなければ、マアトは帰ってこない。その玉俊も、最近はマアトを離すわけにはいかないようだった。 今日もマアトは玉俊の勅使として、朝早くから遠くへ立たなければならなかった。とても今日のうちにはもどってこられないだろう。 「あのね、主上にね、おはようございますって言ってもいい?」 「玉俊にか。構わないぞ」 「なでてくれれるかな」 「なでてと言えばなでてくれるさ」 「そうじゃないの」 自分からマアトをとりあげている玉俊を、ヤショーカは妙に好いていた。 「ヤショーカさまは主上がお好きなのですね」 「うん。だってね、マアトのことばしーんって叩くの。すごいでしょう。マアトはとっても強いのに、マアトのほっぺたを叩ける主上はもっとお強いの」 「ビンタというのですよ、あれは」 「びんた」 それはマアトが避けないからなのだが、ヤショーカの勘違いが可愛らしかった。 きっと玉俊ひとりではキンマにさえ劣るが、ヤショーカにはまだわからないようだった。 「そうだぞ、ヤショーカ。主上はお強いのだ」 主人をほめられて、心なしかマアトは嬉しそうだった。 やがて朝もやの廊下を抜けて回廊をわたり、門をくぐり、正殿まできてしまった。 駄々をこねるかと思ったが、意外にもヤショーカは自分からマアトの腕を離れた。 何度も繰り返すうちに、もう別れをあきらめているのだろう。 こんなに幼い雛がマアトのために本能を抑え込んでいる姿をみると、自分にも子供がいるキンマは胸が潰れそうだった。 はやくかえってきて、の言葉も いかないで、の言葉も、この子は口にしないのだ。 正殿の奥へと消えるマアトの背中を、ヤショーカはじっと見つめていた。 とても静かな朝だった。
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