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マアトを見送って部屋へ戻ると、下女たちが食事の用意をしていた。 ヤショーカが負っていた傷は想像以上に深く、内臓もまだ十分に回復していない。マアトに拾われてもう2年は過ぎたが、ヤショーカは自分用のお粥しかまだ口に出来なかった。 それでも半年前にくらべると、相当な量を食べることが出来ていた。麻痺の残る指の運動をかねて、最近は自分で匙を持って食べる。 食事の後は薬の時間だ。首のうしろから背中に広がる火傷のあとに軟膏を塗ってやると、くすぐったいと身をよじる。じっとしているように促すが、敏感なのだろう。どうしても我慢できないようだった。 痛み止の丸薬を飲むと着替えを済ませ、後宮の王の間に向かった。 「おはようございます、主上」 王の間はとても乱雑だった。書類や巻物が床に散らばっていて、ところどころ食べかけのお菓子や果物が転がっている。うず高く積まれた書物の上には、王にしてはずいぶん質素な服がぞんざいに放り投げられている。 天井には蜘蛛の巣がはってあり、割れた窓はそのままになっている。 アガメムノーンに言われて初めてここへ来たとき、まさか王の間だとは思ってもみなかった。 王宮の隅に離れのようにあり、大きさもそれほど大きくない。ほとんどの離れも居室も、屋根から柱まで美しい彩で飾られているのに、ここだけくすんだ鋼色の瓦に木材がむき出しになった柱、そして土壁だった。 保護区にあるキンマの自宅のほうがまだマシだった。 「ヤショーカ、キンマ、もう朝か」 この部屋の主は寝台のなかで書き物をしていた。その寝台もよく見なければただの書棚かと思うくらいに書物が山積している。 王が下女たちの世話を好まないので、ここは荒れ放題だった。 王の姿が見えれば床に平伏する習わしだが、身をかがめる空間はない。 もう朝なのか、と恨めしそうな声を上げる若い王は、正殿で見せる姿とはずいぶん異なる。 このあばら屋での玉俊は王の仮面を脱ぎ捨てた、ただの青年だった。 「あのねあのね、ヤショーカは今日マアトをお見送りしました」 「ああすまないなあ、ヤショーカ。マアトのやつにどうしても行ってもらわなくてはいけないんだ。」 「マアトが、主上はお強いといっていましあ」 「なんの嫌味だろうなあ、それは」 「いやみ?」 ヤショーカが玉俊の膝に乗っておしゃべりをしている間に、キンマは適当に服を見繕って玉俊に渡す。 ここで服を着替えると、玉俊は後宮の中央にあるもう一つの王の間で、正殿に出かける服装に着替えるのだった。 「今日は何をするのだ、ヤショーカ」 「ヤショーカは今日キンマとご本を読みます」 「おお、偉いぞ。本はたくさん読め」 「主上は何をなさりますか」 「私は今日も王様をする」 「それは楽しいですか」 「ああ、楽しいぞ。議会の貴族や教会の連中の顔を見ると、へそで茶がわかせそうなくらい楽しい」 「ヤショーカもご本を読むと楽しいです」 偉いぞ、と玉俊はヤショーカの頬をなでる。 ヤショーカは喜びに頬を染めていた。 あまりの可憐さに玉俊もキンマも思わず手を止めてしまった。ごまかすように玉俊が咳払いをすると、キンマもいそいそとヤショーカを抱き上げた。 「ヤショーカさま、そろそろお部屋へもどりましょうね。主上はお勤めがございますゆえ」 「はあい」 アガメムノーンがよこした人物は、玉俊に少々感動を与えた。 何故なら彼は至ってふつうだったからだ。 髪を布で隠し、引きずりそうなほど長いヴェールで顔や体をすっぽりと覆ったいでたちは、アナハバキの民の民族衣装だった。マアトもであったはじめのころは、そのような恰好だった。 正式な場以外ではヴェールをつけないことが多いが、髪は布で覆うのがほとんどらしい。 家族以外には髪を見せないものなのだと、かつてアガメムノーンから教わった。 じゃあお前はなんなんだという疑問はあったが、こいつは変態なんだと深く考えないことにした。 「あの、わたくしキンマと申します。アガメムノーンさまから遣わされました」 「どうしてここに?」 マアト以外誰もこない自室に突然現れたキンマに、最初は驚いた。 「ここに必ずお伺いするよう、申しつけられましたので・・・」 答えるキンマも戸惑いを隠せない様子だった。 こんなぼろぼろの家が王の自室だとは、まず思わないだろう。 「突然このような形でおたずねして、誠に申し訳ございません。本来ならば取次を頼むべきだったのですが、・・・・その・・・・・」 このオンボロ屋敷には下女はおろか門番もいない。本当に玉俊しかいないのだった。 取次など誰にも頼めない。 「そうか・・・それは、すまなかったな」 「いえ、滅相もございません。あの、わたくし主上にご挨拶をせねばならないのですが、主上はこちらにおいでなのでしょうか」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私がヴェリエール国が主、玉俊と申す」 え、と短い悲鳴が聞こえた。一瞬固まった後、慌てて身を投げ出すようにキンマが地面に伏せた。 「申し訳ございませんっ」 「危ないっっ」 平伏した拍子に、長いヴェールが書物の山をひっかけたらしく、キンマの身長よりもはるかに高いほこりまみれの山が、キンマの上に崩れ落ちてきた。 背筋が凍る思いでキンマの腕を引き寄せると、間一髪のところで間にあった。大量の埃が舞い上がり、室内はむせ返るような綿埃に包まれた。 キンマの腕をしっかりつかみながら、急いで窓を開ける。 「大事はないか」 「はい」 埃が収まると、先ほどキンマが立っていたところは本が散乱していた。かろうじてあった足の踏み場も、もう見えない。 「この部屋では平伏はしなくてよい」 「はい」 「ヴェールもこれからはつけない方がよい」 「はい」 ふたりとも茫然としながら崩れた本を見つめていた。 「あの、わたくし、そうとは知らず大変無礼な振る舞いをいたしました」 「いや、かまわない。もとはと言えばここに遣わしたアガメムノーンが悪い。お前が気にすることではない」 本の山を見つめながら、玉俊はキンマのあまりに恭しい態度に驚いていた。 いままで玉俊がであったアナハバキが、自分から平伏したところなど見たことがなかったからだ。 アナハバキに敬語を使われるのも、ほとんど初めての経験だった。 キンマがそそくさとヴェールをはずすと、そこに現れた顔はあまりに凡庸だった。 年は30くらいだろうか、柔和そうないかにも人がよさそうな顔立ちだった。目がどことなく青みを帯びているが、黒に見えないこともなかった。 その色はマアトを思い出させる色だった。 「何をしている」 はっとして声の方を見ると、部屋の入口にマアトが立っていた。 「何故手を握り合っている」 怪訝を通り越して怒りや疑いを隠そうともしない下僕の態度に、これが普通のアナハバキだよな、と改めてキンマの丁寧な態度に驚いていた。 「マアト」 「何故キンマがここにいる」 玉俊に肩を抱かれるようにして立っていたキンマが、おずおずと玉俊から体を離した。 玉俊が握った手をなんとなく離さないでいると、マアトが乱暴に手を振りほどいた。途中戸惑うことなく本を踏みつけていたので、さすがにおい、と抗議の声を上げた。 「マアトさま、わたくし今日からヤショーカさまのお世話をするよう、仰せつかってまいりました」 「誰に」 「アガメムノーンさまからそのように賜りました」 「何故」 「マアトさまだけでは、心配だと仰せでした」 「そんなことはない」 「わたくしがいてはご迷惑でしょうか」 「そんなことはない」 二人の会話を聞いていた玉俊は、すぐにあることに気が付いた。 「マアト、お前やけに素直だな」 そう、素直だ。 返事はぶっきらぼうだが、ちゃんと返事をしている。 用事がなければ玉俊以外とはほとんど口も利かないマアトが、時には玉俊にさえ返事を返さないマアトが、返事をしている。 「そんなことはない」 心外だといわんばかりにマアトは顔をしかめたが、それが嘘なのは明らかだった。 どことなくばつが悪そうだった。 「お前・・・まさか・・・・照れているのか」 薄暗い室内で、明るいマアトの青い目がきろりと光った。 「そんなことはない」 「嘘だ。お前は主人に嘘をつくのか」 一瞬マアトの体がこわばった。いくら意地を張っても、玉俊が命じればマアトはどこまでも素直に打ち明けなければならない。 このまま意地を張り続ければ、面白がった玉俊がくだらない命令をするかもしれない危険をマアトは感じ取った。 「ヤショーカが待っている」 「ちょっと、マアトさま!」 うわ、という声と同時にキンマはマアトの肩に担がれていた。大柄なマアトに担がれると、小柄なキンマは子供のようだった。 玉俊が止める間もなくマアトは部屋から急いで出て行った。 残された玉俊は感動に包まれていた。 キンマという男は驚いたことに、確実に人間と同じ常識をもっている。 しかも、キンマに対してマアトは奇妙なくらい素直だ。 さらに、 「マアトが逃げた・・・・・」 10年以上とマアトと付き合っているが、初めてのことだった。いままでどんなに理不尽なことで罵倒してビンタをかましても、こうはならなかった。 しかし、キンマと同じ空間にいるマアトは、キンマに他人と同じような無礼な態度をとれない。本人もそれに気が付いているのか、指摘されるとあんなにむきになって否定した。 初めて見つけたマアトの弱点に、玉俊は小躍りしだしそうだった。
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