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霧の中では視界が失われ、音や匂いや体の感覚が頼りだった。
真っ白な視界の中を進んでゆくと、硬い大理石の廊下を歩いていたはずが、突然土を踏むような感触を覚えた。不審に思われて周囲を恐る恐る踏んでみると、硬い感触は消えており、湿った土の暖かさを裸足の足裏に感じた。それと同じくして、風にあおられて木々が揺らぐ音やかすかな生き物の鳴き声が聞こえてきた。
どうやら自分はどこかの森だか山だかに来てしまったようだと一人顔をしかめると、急に鼻をつくような匂いを感じた。戦士であるマアトにとって、それは嗅ぎなれたにおいだった。
血の匂い。
一体なにが起きているのか見当もつかなかったが、何が起きても死ぬことはないだろうという傲慢さがマアトにはあったので、それほど重大なこととは捉えなかった。マアトの頭の中には、さっさともといた場所に帰りたいという思いしかなかった。
とにかく現状を知る手がかりを欲して、マアトは血の匂いの強いほうへ歩を進めた。
匂いの原因はほどなくして見つかった。足の裏に生暖かい湿りを感じた。独特のぬめりのあるそれは、足元に血だまりを作っていた。不快感に眉を顰めながら足を踏み出すと、石や土とは違うやわらかい塊を蹴っってしまった。
その瞬間、まるで目的地にたどり着いたといわんばかりに霧が薄れた。
霧が晴れると、足元に現れたものに言葉を失った。先ほど蹴ったやわらかい塊は子供だった。ただその子供の外見にはすさまじいものがあった。
年は10に満たないくらいだろうその子供は粗末な布に包まれ、布の上から鋭利なもので滅多刺しにされていた。深くまで達した傷口から大量の血が流れ出て、肌は生気を失っている。もっとも、泥や垢にまみれて肌の色などほとんどわからない状態だった。すぐそばの木に縄で括り付けられ、自力で逃げ出せぬよう両手は後ろでに縛られていた。日頃から不潔な状態であることが見て取れるほど変色した髪は無残なほど短く、首の後ろには古いやけどの跡が膿んで蛆がわいていた。
周囲を見渡すと深い森のようで、人の気配はその子供だけだった。
凄惨な様子に言葉を失っていたマアトだったが、すぐに奇妙な感覚を覚えた。
「おまえは・・・」
アナハバキにしかわからない直観というものがある。その直感をたよりにアナハバキは同族を見分けるのだ。その子供が同族だということがわかると、マアトはあわてて子供の縄を解き、抱き上げた。ただの人間であれば間違いなく死んでいるほどの出血だが、アナハバキなら別だ。アナハバキは病で倒れるものは多いが、外傷には強い。人間が死ぬ程度の怪我では死ねないのだ。
抱き上げてよくみると、掻き切られた喉から出ている血が呼吸に合わせて泡立っていた。外套で血まみれの子供をくるんでやると、またあたりに霧が立ち込め始めた。
自分が来た方向を振り返ると、来るときにはあれほど濃かった霧が今度は薄い霧だった。霧の向こう側にかすかな松明の明かりが揺れている。経験からあの明かりが、もといた王宮の廊下の松明であることはわかっていた。
これではまるで、呼ばれたようだ。
突然の小さな瀕死の同朋との邂逅に釈然としないものを感じながら、マアトは松明のもとへ急いだ。
子供への心配はあったが頭のなかでは、今日の約束の時間に完全に遅刻していることへの言い訳と、この状況を自分の主人になんと説明したものか考えていた。
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