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後宮のマアトの居室には、人の気配がないのが常だった。部屋の主人であるマアトが帰って来ないので、マアト部屋で働く下女たちにはほとんど仕事がない。 退屈と不満を燻らせていた下女たちは、この半年ほどの間ちょっとしたお祭り騒ぎだった。 マアトが拾った少年は重症で、包帯を変えたり、薬を塗ってやったり、体を拭いてやったりととにかく世話が必要だった。 最初仕事ができて喜んでいた下女たちだが、意識を取り戻した少年の様子を見て、今度は良心の呵責に苛まれた。 『申し訳ございません、ご主人さま』 少年はこの言葉をうわごとの様に繰り返すのだ。少しでも体に触れようものなら、全身を緊張させ、虚ろな目でどこかを見つめながら早口に謝罪の言葉を繰り返す。 気の毒に思われてあまり体に触らないようにしても、意識のあるうちは呪文の様に謝罪し続けている。 これはとんでもないことだ この時初めて下女たちはこの少年はどこの誰で、何故マアトが連れて来たのだろうという疑問をいだいた。 ご主人さまとはマアトのことだろうか。 この子はマアトの何なのだろうか。 何故こんなに怪我をしているのか。 そもそもマアトは何故こんな小さな子供のそばにいてやらないのか。心配ではないのか? そこまで考えて下女の一人が、怪しいと言い出した。 マアトは非常識で不謹慎な方だ。先代の王妃の葬式で晴れ着で出席するくらいだ。この子の怪我はマアトが原因なのではないか。 この子はマアトの趣味と欲望を満足させる道具として扱われているのではないか。 さすがに他の下女たちも、考えすぎだろうと慰めてみたが、そう考えればしっくりくる。 保護区にはヴェリエール人口である下女たちはたちいることができないので、そこでマアトが何をしていてもわからない。 いけないお遊びが行き過ぎてしまって、他のアナハバキにバレると不味いから、後宮に連れてきたのではないか。後宮ならばマアト以外のアナハバキなどいないし、王族たちもマアトを訪ねてなどこない。 それは最も確からしいことに思われた。 マアトじゃあるまいし、自分たちの主人に対してこんな疑念を抱くなんて不謹慎だ、とその日はなんとかお互いの気持ちを宥めた。 しかし次の日もまたその次の日も熱に浮かされて謝罪を繰り返す小さな男の子の世話をするうちに、もはや下女たちにはマアトが悪人に思われた。 もし男の子が本当にマアトの稚児なら、自分たちは非人道的なむごたらしい行為の手助けをしていることになる。それは教会の敬虔な信者であるヴェリエール人にとっては耐え難い苦痛だった。 下女たちはお互いの顔色を伺いながら、自分はちっともマアトを疑ってなんかないという顔をして、それぞれがこっそりと教会でマアトへの疑念を打ち明けていた。下女たちがそれぞれ心の中で司法府に駆け込むべきか悩み始めていたころに、変化が訪れた。 彼女たちの主人であるマアトが帰ってきたのだ。 ここで無体に及ぶつもりなのかと気色ばみ、その日から数日間下女たちはマアトの居室を離れなかった。 もしもマアトがこの部屋で男の子に手を出そうものならば、その場を取り押さえて大げさに騒ぎ立て、隠し立てできないくらい騒ぎにして露見させてやろうと考えてのことだった。 下女たちはもはやマアトを敵視していたし、互いにその様子を隠すつもりもなかった。 彼女たちの間には、不思議な連帯感さえ生まれていた。 しかし下女たちのドラマチックな想像をよそに、マアトは日がな一日少年のそばで書類を整理しているだけだった。少年のうわごとに一瞬眉を顰めたが、マアトは下女たちとは違う解釈をしたらしく、それ以降は気にする様子もなかった。 ときどきおっかなびっくりといった様子で水を与えてやったり、体を拭いてやったりする。夜は少年の傍に布団を持ち込んで眠っていた。 一歩も居室から離れることなく少年の世話を慣れないながらもするマアトをみて、下女たちは自分たちの思い違いを悟った。詳しいことはわからないままだが、どうもマアトと少年の間には大した関係はないようだった。 なんだそうだったの、よかったこと。 本来の仕事であるマアトの世話に加え、かわいらしい少年の世話もできるとあって、下女たちは充実を感じていた。つい2,3日前までマアトを悪魔かなにかだと思っていたことなど忘れたことにして、皆がよかったよかったと素知らぬ顔で新しい日々を楽しむようになった。 ヴェリエール国の国主に一撃を食らわせていたなど知りもしないマアトの下女たちは、よく見ればマアトも美形ではないか、などと調子のよいことを考えるようになっていた。
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