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少年は自分が失敗したことを悟った。 生きている。 もはやそれは、許されないことだった。 妖魔に喰われて死ねなかったということは、少年を足止めにして逃げようとしていたご主人さまの計画が狂ったことを意味する。例えご主人さまや、妖魔のエサにされる少年を黙ってみていた奴隷たちが喰われたとしても、ご主人さまが死ねばその家族が少年の新しいご主人さまになるだけだった。 エサにもなれなかった少年は、これから起こる激しい折檻を想像した。 折檻で済むならまだましかもしれない。いっそ殺してくれたほうがましの苦痛が待っているのかもしれなかった。 「もうしわけございません、ご主人さま。」 その言葉はいままでの人生の中で最も使用された言葉だった。自分が途方もない失敗を犯している気がして、少年はとにかくこの言葉を唱えなければならないと感じていた。 熱に浮かされてはっきりとしない頭で、少年はただ生きていることを詫び続けた。 どれほどの時間が過ぎたのかわからないが、少年は周囲を認識できるまでに回復した。 見慣れない服を着た女たちに、見たこともないくらい贅沢なベッド。 飢えも渇きも寒さも感じない。 体の痛みを感じて息が乱れると、女たちがとても苦い液体を匙で飲ませてくる。それを飲むとやがて痛みは消えて、とろとろとした温かさに包まれる。 そして眠りたいときに眠ることができた。 自分に何が起こっているのか、全く理解できなかった。少年の知っている世界には、こんなものは存在しなかった。やはり自分は死んだのだろうかとも考えたが、ときどき全身に襲ってくる叫びだしそうな痛みによって、生きていることを実感していた。 少年にとっては大きな喜びがひとつあった。 それは、マアトと呼ばれる男に抱き上げられることだった。 何故こんなにも嬉しいのかわからなかったが、膝の上にのせてもらうとどうしようもなく安堵した。ベットに戻されると不安になり、一日中マアトにしがみついて過ごしていた。 マアトからは不思議な匂いがして、それをかぐと力が抜けて行った。 絨毯の上で胡坐をかくマアトの膝の上で、全身をすっぽりと抱え込まれながらうとうとするときには、あらゆる疑問や悩みや不安から解放され、はっきりと幸福を感じていた。 マアトは無口で、何を考えているのか少年にはわからなかった。けれど夜中に少年がうなされていると、必ず抱っこしてマアトの額を少年の額にくっつけてあやしてくれた。マアトの額からあたたかなものが少年の額に流れ込んで来るのを感じると、体の痙攣も収まり、穏やかな気持ちになった。 女たちも自分にとても優しいことを少年はよくわかっていたが、どうしてもマアトから離れたくなかった。それどころか、マアトがいないと泣きそうになっていたし、ついには泣いてしまった。 おろおろと狼狽する女たちは甘いお菓子をくれたり、抱っこしてくれたり、歌まで歌ってくれたけれど、少年はマアトの膝の上がたまらなく恋しくて泣き続けた。 ご主人さまにぶたれたときでも、これほど辛く感じたことなど一度もなかったのに、マアトがそばにいないだけで胸がしくしくいたんだ。 やがてマアトがやってきて抱っこしてくれると、少年は必死でしがみついた。 マアトは少年を叱りもせず、ただしがみつくままにさせてくれた。 その日は朝からマアトの膝で過ごしていた。 マアトは食事をしながら、ときどき少年用のお粥を匙ですくって口元に持ってきてくれた。少年がマアトの食べているものに興味を示すと、箸で小さくきって口に含ませてくれる。あまりおいしいとは感じなかったが、不味いとも思わなかった。呑み込めなくてむずがっていると、吐き出せといわんばかりに絹の布を口元にあてられた。ぎょっとしてマアトを見上げると、最速するようにこちらを見ている。少し離れたところに座って裁縫をしている女たちをみると、ご無理なさらなくてもよろしいのですよ、と声がかかったので、こわごわとその高そうな布に吐き出した。 マアトからその布を受け取りながら女のひとりが、おぼっちゃまにはまだお早いようでございますね、と嬉しそうに笑う。つられてほかの女が、焦らずともすぐにたくさんお召し上がりになれますよ、と丁寧に少年に話しかけてくる。 マアトは女たちの様子を気にすることもなく、自分の食事を続けている。 あんなに豪華な絹の布地にきれいな刺繍までしてあったのに、この場の誰もそんなことは気にしていない様子だった。高そうなあの布をちり紙かなにかのように使っても、ここではそれが当たり前の様子だった。 久しぶりにここが自分の理解の範疇を超えたところなのだったと思い出していると、マアトが思い出したようにお粥を口元に運んできてくれたので、少年は食事をすることにした。 食事が終わると、女たちが少年を着替えさせた。少年はマアトに着替えさせてほしかったが、マアトはつまらなさそうに巻物を読んでいる。着るものは全て絹でできているのはもうあたりまえなのだと悟っていたが、その日の着替えはずいぶん豪華だった。なにせいつもよりもたくさん着せられたのだ。 普段は身に着けない靴下や靴を履かされる。靴にもこれでもかというほど刺繍が施してあった。帯は体を締め付けない物だったが、普段使っているやわらかい白無地の帯と違って、硬く金糸の刺繍の黒い帯だった。髪を包むように布をかぶせられ、その上から豪奢な外套をかぶせられた。いくぶん少年の体より大きいそれは、頭の先からつま先まで少年を覆ってしまった。 お支度整いましてございます、と女たちが口をそろえて言うと、マアトがやっと抱き上げてくれた。いつの間に着替えたのか、気が付けばマアトもいつもとは違って全身を黒で包んでいたし、髪も頭のうしろで一つにまとめられていた。 いつもと違う様子に不安がる少年をなだめようと女たちが両手にお菓子を握らせてくれた。 ますます何が起こるのかと不安になって、できるだけマアトにしがみついた。 少年がしっかりと首にしがみついたのを確認すると、マアトは歩き始めた。遠ざかってゆく女たちは床の上で一列に並んで平伏し、いってらっしゃいませと見送ってくれた。 マアトに連れられてやってきたところには、人が沢山いた。皆マアトと同じような黒い恰好をしていたが、よく見ると少しずつ違っている。すれ違うひとたちは驚いた様子で振り返るので、少年は何人かとばっちり目があってしまった。 「その子か」 突然声がかかった。その声と同時に、マアトが急に膝をついたので、少年はびっくりしてより一層しがみついた。恐る恐る声の主をみると、そこには若い男が立っていた。 マアトやほかの人とは違い、その男は青い服を着ていた。頭には冠まである。一目でこの場の誰よりも地位が高いのだとわかった。周囲を見渡すと、いつのまにか廊下ではなく室内に入っていたようで、部屋の壁沿いに数人が平伏していた。 自分はまさかこの男に売られてしまうのだろうかという考えが、瞬時に少年の頭に去来した。 マアトと引き離される。 そう考えただけで涙があふれてきた。自分はマアトにとってそういう存在なのだと認識するのがつらかった。悲しくて嗚咽を止めることができずに、なりふり構わずマアトにさらにしがみついた。そうするとマアトの優しい匂いが漂ってきて、もっと悲しくなった。 「泣かなくてもよろしい。お前の嫌がることは、なにも起こらないと約束しよう」 思いがけず優しい言葉をかけられて、少年はびっくりしてその男を見上げた。男は優しく笑んでおり、マアトを見るとちょっと笑ったような顔をしていた。そこで少年はじぶんがバカみたいにお菓子を握りしめて泣いていたことに気が付き、恥ずかしくなった。 「泣いたり恥らったり忙しい子だ。マアトにはちょうどいいだろう。これからも時々顔を見せにおいで。」 男は少年のそばにしゃがんで、袖で涙をぬぐってくれた。 少年はそれだけでなんだか男を好きになってしまいそうだった。 「名はなんというのだ」 その問いかけに、少年は身を固くした。どうしてよいのかわからなくなった。 少年には名前などなかった。 なんだかこんなに立派な場所で、立派な身なりの人たちに囲まれている中で、名前はありませんと答えるのがみじめなように思われた。マアトや女たちは一度も名前や素性を訪ねてきたことがなたったので、少年は本当に困ってしまった。 「ヤショーカ」 突然マアトが口を開いた。少年の眼をみながら、もう一度ヤショーカと繰り返した。 「やしょーか、です」 癖でご主人さま、と言いそうになったが何とか思いとどまった。 「そうか、ヤショーカ。好い名だな。」 男は少年の頭をなでると、マアトと2,3言葉を交わしてどこかへ行ってしまった。 少年は感動に包まれていた。 今自分は何をした? 人に名前を名乗った。 自分はヤショーカなのだ。 この時の少年を理解できるものは、豊なヴェリエールにはほとんどいないだろう。名前もなく、食糧と水があるだけ家畜の方がまだましだと思える暮らししか知らなかった少年にとって、いましがたの出来事は衝撃的なことだった。 名前をくれたマアトに対して、少年はほとんど崇拝といっていいほどの感情に満たされていた。 この日から、少年はヤショーカになった。
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