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腹心の部下に虐待の噂が流れたことによる、取り巻き連中の地味な嫌がらせは絶賛続行中だった。
しかしそれももうすぐ収まってくるだろう。
今日マアトはヤショーカを連れて一日中用もなく正殿をぶらぶらするのだ。ヤショーカのあのマアトに安心しきった様子を見れば、噂は噂として収まるところへ収まるだろう。玉俊としても、くだらない噂に一年以上足を引っ張られるのは御免だった。
しかし、玉俊の憂いは別のところにあった。
玉座で宰相の読み上げる奏上を聞くともなく聞きながら、そのことを考えていた。
泣かせた。
ヤショーカは自分を見てみるみる大きな青い目に涙をためて、次の瞬間には大粒の涙をこぼして声をあげて泣いたのだ。あんなちいさな子供を泣かせてしまった。すぐに泣き止んだが、何か自分は怖がらせるようなことをしたのだろうか。
わからない。
しかもあの下僕に至っては、殊勝そうに顔を伏せていたが顔をあげると人を馬鹿にしきった様子で、笑いをこらえきれないといった顔をしていた。
とりあえず玉俊はあの下僕だけは許さないと腹に決めた。
玉俊が不快そうに眉をしかめたのを見咎めて、宰相は奏上を切り上げた。
やはりこの件に関してはお気に召さないのか、と次の案件に移った。
実際には玉俊はほとんど話を聞いていなかったのだが、普段から奏上の場では口を利かない方針なので、宰相や大臣たちにそれを悟られることはなかった。
奏上される内容は様々で、議会を通さずに直接王へ情報が届けられる。奏上を作るのは地方の行政を管理する役人や、治安の警備に当たる軍など様々だ。ときには外国の勅使なども参加する。特徴は、議会の貴族を通さないということだった。
口で読み上げられる内容はそのまま書面にしたためられ、王の執務室へ運ばれる。玉俊はそこでゆっくりと奏上に目を通すのが常だった。
奏上の場が設けられているのは、その場で奏上してきた者に詳しく問いかけることができるようにするためだった。しかし、その機能が十分に果たされていたのは先王の時代までで、玉俊は奏上の内容に興味を示す素振りは見せなかった。
先王の時代は、王が議会を徹底的に敵視していた。議会に出席することもなく、議会を通さず奏上されたものだけを信じた。また奏上をしたためたものの言うことを真実だと考え、意見を鵜呑みにすることさえあった。当然面白くないのは貴族たちだ。実際に税の徴収を行い、国に治めているのは地方の貴族であるにもかかわらず、王に軽んじられた彼らは、ヴェリエール内で大きな緊張を引き起こした。
ヴェリエールには妖魔はでないが、人同士の争いをなくすことなどできるわけがなかった。
また奏上をしたためる官吏や軍人、外国の勅使たちは、王の信頼を笠にしての横暴が目立った。自分たちの言うことを何でも聞く王を軽んじ、彼らもまたヴェリエールの秩序を乱したのだ。
玉俊は議会も官吏もそれほど信じていなかった。どちらも同じくらいに疑っていた。
なのでどんな場合にも付け入る隙を与えないことが重要だった。
自分は先王と違ってお前たちの意見など聞かない、という奏上の場での玉俊の態度は、自惚れた彼らの頭を冷やすのに十分だった。王の一言で一族が路頭に迷うことになる危険を、彼らはやっと思い出したのだった。
いつにもまして不機嫌なようすの王を恐れて、その日の奏上は早々にお開きとなった。
退屈な仕事がいつもより早く終わったことに気をよくした玉俊は、アナハバキの住まいを訪ねた。
途中後宮で妹に出くわして、一緒に連れて行けと駄々をこねられたが、無視した。
妹はアナハバキに変な夢を抱いているのだ。マアトやそのほかの、外に出てくる彼らの外見に騙されている。
特にアガメムノーンという女のアナハバキは、絶対に外にだしてはいけない類の者だ。彼女の一族は揃って変態が多い。恐ろしく強いので、有事の際に駆り出すことはあるが、決して一人での行動は許さない。
そう、変態なのだ。
「何を難しい顔をしておるのじゃ、ぼうや。」
水面に張り出した部屋で煙草を吹かすアガメムノーンは、全裸だった。
今更こんなことでは驚いたりしないが、妹ならば卒倒するだろう。アガメムノーンの周囲に控えている美しい少年少女たちも同様に全裸だ。数人が恥らうようなしぐさを見せるが、アガメムノーンは取り合わない。
「アナハバキの子供というのは、何を好むのだ」
「さすがにアナハバキといえども、子供は性に未熟じゃからのう。」
しどけなくクッションにねそべり、美しい裸体をさらけ出している妙齢の女は真面目な顔で逡巡するようなそぶりを見せた。自分の小間使いの少年少女たちに視線を投げて、まるでよい考えだと言わんばかりに告げる。
「何人かお試しになればよろしかろう」
「私は『何を好むか』と聞いたのだ。『どこを好むか』を聞いたのではない」
玉俊はキレそうだった。
確実に人選を間違えていることはわかっていたが、他に相談できるものなどいなかった。
アガメムノーンはヴェリエールの建国当初から生きている、恐ろしい女だった。
ヴェリエールが彼女の娘でなくてよかったと、玉俊は何度か神に感謝さえしたことがある。自分がこんな女の子孫というのは御免だった。
長く生きているだけあって、彼女のアナハバキの中での権力は絶大だった。保護区に閉じ込められていることに多くのアナハバキは不満を隠そうともしないが、アガメムノーンがそれを受け入れているかぎり、どんなアナハバキも逆らわない。
実際、ヴェリエール王室の長い歴史の中では何度も危機があった。公には伏せられているそれは、アナハバキの反乱だった。彼らが王室への協力を拒み、王室は王権そのものである『妖魔からの安全』を保障できないことが、過去に何度もあったのだ。
そうした危機的状況は、常にアガメムノーンによって鎮められてきた。彼女は反乱を企てた者たちを軒並み皆殺しにして解決を図った。取り返しのつかないほど反乱が大きくなるまで、彼女は一切アナハバキの社会に口を出さない。しかし、一度彼女と対立が深まれば命はなかった。
アガメムノーンは最大の味方だったが、同時に自由を求めるアナハバキたちは敵でしかなかった。彼らとうかつに親交を結ぶこともできないので、玉俊にとってここではアガメムノーンだけが頼りだった。
しかしそれも、アガメムノーンは玉俊の味方なのではなく、『国王』の味方なのだ。
真実『玉俊』という存在に味方しているのは恐らく、今朝方、子供を泣かせた動揺を隠している自分を馬鹿にしくさって、ちょっと笑っていたあの馬鹿しかいないのだ。
「そういわれてものう、子供はまだ雛じゃからのう。親の抱っこが一番じゃろうよ」
らちが明かないので、今朝の顛末を話すことにした。
泣かせてしまったお詫びに、何か好きなもので機嫌を取ってやりたかったのだ。
アガメムノーンは声を上げて笑った。可笑しくてたまらないといった様子で、目に涙までうかべた。
「うふふ、ふふ。うふ」
「笑いすぎだぞ」
玉俊はほとんどキレていたが、平静を心掛けた。
「いやあ、ぼうや、うふっ。いやいやこれは、べつにぼうやのせいではないじゃろう」
「しかし、私の顔を見て泣いたのだぞ」
アガメムノーンは首を横に振る。
「まだまだ雛とはいえ、アナハバキの端くれじゃ。たかが人間を見て恐怖などするものか。われらのほうが何倍も強いのじゃから」
長く生きるアナハバキたちは、当然のように人間のひ弱さを笑いものにする。笑いはしなくとも、ほとんどのアナハバキたちは人間を弱いものだと考えていた。その昔には絶滅寸前まで追いやられていたことなど忘れたかのような傲慢さだったが、たしかに大人のアナハバキには屈強な軍人でもまるで歯が立たない。
「ではなぜヤショーカは泣いたのだ」
「さあの。ヤショーカ本人に聞けばよろしかろ。間違ってもぼうやが考えているようなことではないじゃろう」
「また泣かせてしまうかもしれない」
「泣かせて何か困ることでもあるのかえ。」
困る。
「人だとてしょっちゅう泣いているではないか。泣きたいことがあるから泣くまでのこと。ぼうやの何がこまるというのじゃ」
一理あるように思われた。確かに、目の前で泣かれると自分のせいに思われてばつが悪い。だが、ばつが悪いだけで他に困ったことなどは起こらない。
「何かお前たちの子供がみな喜ぶ菓子とか、おもちゃはないのか」
「ない」
たっぷりと長いつやつやした髪を指でいじりながら、アガメムノーンは言い切る。
「雛のうちは、親の膝の上以外にほしいものなどない。マアトはヤショーカの親ではないが、ヤショーカのアナハバキとしての本能がマアトを親と定めているのじゃろう。本能に逆らえるアナハバキなどいはしない。ヤショーカはマアトしかいらないのじゃ。」
意外なアナハバキの一面を知って、玉俊は驚いていた。こんな変態どもに、そんなにかわいらしい本能があるのか。そんなにいじらしいのに、大人になるとどいつもこいつも傲慢で不遜で不謹慎で非常識な変態になってしまうのがとても悔やまれた。
「ばうやは失礼なことを考えるのじゃなあ」
口には出さずとも、アガメムノーンにはこちらの考えなど筒抜けなのだ。それはもうあきらめていた。
「そうじゃのう、それならば世話をする者をぼうやにあげようか。かわいそうなことじゃが、マアトはぼうやのものじゃ。ヤショーカのものではない。いつも一緒にいたいと思っていても、それはかなわぬ。ぼうやとてマアトがいなくては困ることもあるじゃろう。その間ヤショーカにはヴェリエール人の下女たちだけというのは、あまりにも心細かろう。いつもそばにいてくれる同族がいれば、慰めにもなるじゃろう」
「お前たちは同族を見分けられるのだったな」
「左様。青髪青目とくればほとんどのアナハバキがそうじゃが、外国にはそうした特徴の人間もいる。それにアナハバキにだって茶髪や黒髪はおるでのう。数は少ないが」
「便利だな」
「うむ」
それは良い提案に思えたが、ひとつ気がかりがあった。
「ヴェリエール人にとって受け入れがたいことをする者では困るぞ」
特にお前。
お前とお前の一族は絶対に許可できない。
「心配召されるな。ちゃあんと、ちゃんとした奴じゃ。マアトもよく知っておるで、構わぬじゃろう」
「マアトの知り合いか」
それもそれで不安だった。
マアトみたいなやつが来たら、面倒な誤解をばらまかれるのではないだろうか。
「明日には挨拶によこそう」
結局その日はそれで保護区を後にした。
しかしよく考えてみるとヤショーカを泣かせたことも、ご機嫌取りの手段が見つからないことにも変わりはなかったし、さらには明日アガメムノーンがよこしてくるアナハバキは人として最低限の常識をもったやつなのだろうかという心配も増えていた。
執務室に戻ると宰相が重要な案件ごとに奏上をまとめなおしてくれていて、人間の優しさと素晴らしさに玉俊は感謝した。たっぷりとねぎらいの言葉をかけてやると、宰相は何か感激した様子で平伏して退出した。
入れ違いにマアトが入ってきたので、思いっきりビンタしてやった。
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