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母がその人をさらってきたのは、蒼子が中三のときだった。
一日がかりの模試から帰ってきたら、そういうことになっていたのだ。
ふだんは閉めきったままになっている和室の襖があいていて、覗いたら見覚えのある顔があった。忙しそうに立ち働いていた母が振り返り、こちらの質問に先んじて言った。
「さらってきちゃった」
母の隣でその人もあっけらかんとして言った。
「さらわれてきちゃった」
それで話がすんだとばかりに二人がまた部屋を整えはじめたのだから、知らなかったのは自分ばかりだと勘違いしたのも無理はなかったと思う。実際には話はなんにもすんでいなくて、何も知らなかった弟と父はそれぞれに同じようなやりとりを繰り返すことになったのだけれど、とりあえず蒼子は彼女がトイレに立つタイミングを見計らって母に抗議を試みた。
「ふつうそういうのって、家族会議とかしてから決めるもんじゃないの」
家族会議なんてしたことがないにもかかわらず蒼子はそうつめ寄った。廊下に通じる扉をちらちらと気にしながら台所の隅に突っ立って、ひそひそ声で。
「あんたたちに迷惑はかけないわよ」
母はわし掴みにした大根をごりごりとおろしながら答えた。刻んだあさつきがまな板に乗っていて、バットには俵型に成形されたひき肉がみっしりと並んでいる。夕飯は和風ハンバーグだ。やった、大好物。
「だってあたし受験生なんだよ。ふつうそういうときにそういうことする?」
「あんたの部屋に入れるわけじゃないんだから関係ないでしょうよ」
「だってあの人うちに泊まるってことなんでしょ? 関係ないわけないじゃん」
「ただ和室を貸しただけじゃない。あんたたちふだん和室になんか入らないでしょう」
「だってそしたらお母さんどこで寝るのよ」
「隣にふとん敷いて寝るわよ。そしたら何かあってもすぐわかるし」
「はあ?」
声が大きい、と母が顔をしかめる。
「だってお母さん看病なんかできないでしょ、素人なんだし。だいたいなんで連れてくる必要があるわけ、おうちの人もいるんでしょ」
「ちゃんと書置きしてきたわよ」
「そうじゃなくて、だって――家族の人、うちにいてほしいんじゃないの」
なんとなく濁したら、母は「返してほしけりゃ取り返しに来るわよ」とめんどくさそうに言った。
「だからってさあ」
食い下がろうとしたとき、トイレを流す音が聞こえて蒼子は口をつぐんだ。まもなく現れた彼女が母の隣に蒼子を認めてぱっと破顔し、「ごめんねえ」と大きな声で言った。
「あ、いえ……」
あいまいに笑ってちょっと頭を下げると蒼子はその人の横をすり抜け、階段を駆け上がって二階の自室に逃げこんだ。大変なことになったと思った。
唐突にわが家にやってきたその人はバナミさんという。あだ名ではなく、本名だ。芭波と書くらしい。近所のスーパーで働いている母の同僚だ。仕事帰りにしょっちゅうおしゃべりに来ていたから面識はいちおうある。
蒼子は彼女のことが好きではなかった。声が大きすぎてなんだか下品だったし、遠慮のないところが気持ち悪かったからだ。父の席に陣取ってお茶菓子を食い散らかしつつごはんどきになるまで居座って、大きな声でガハガハ笑って、帰宅した蒼子に「おかえり」なんて笑いかけたりして。きらいとまでは言えない気がして、でもやっぱりいやなので「なんであの人しょっちゅう来るの」と母にちくちく文句を言ったことだってある。
「近所だからでしょ。職場じゃ話せないことだってあるし」
「だったら別の人だっていいじゃない。だってあの人、四丁目でしょ。山下って人のほうが近所じゃない」
「山下さんとは気が合わないのよ」
自分だってさして気が合うわけでもないくせに、母はそうごまかした。
実のところ、友達ですらないはずだ。母の友人はもっと穏やかで物静かな人たちで、バナミさんとはまったく別のタイプだ。いつだって会話はバナミさんの一方的なおしゃべりであるし、母はそれを聞き流しながら楽しそうな顔もせず淡々と夕飯の支度なんかをしていたりする。ここはおまえの実家じゃない、と心の中で憤りながらバナミさんのどっしりとした背中の後ろを何度通り過ぎたことか。そういえば、彼女は両親を早くに亡くしているのだとか。一回りも年上の母に懐いているのはそういう理由もあるのかもしれない。でも、お母さんはおまえの母親じゃない、と蒼子は反射的に腹を立てる。そして、腹を立て続けている。
どういうつもりなんだろう、あの人。それに、お母さんも。
蒼子は無意識にむっと口を尖らせたまま自室のベッドで考え続けた。
なんでうち。なんで今。なんでこの期に及んで、家族のもとを離れたんだろう。
まったくわけがわからなかった。彼女の声が大きいのと、うちの壁が割と薄いのと、虫食い状態の不完全な知識を補完するために母からちょこちょこ聞き出していたために(断じて好奇心からではない)、蒼子はバナミさんの事情についてかなり詳しく知っていた。先月ついに仕事を辞めたということも(だからもう同僚ですらないのだ)、病気の進行具合も、夫の人は公務員でいつも定時に帰ってくることも、息子が一人いるということも。
諸々考え合わせると二人の決断は完全に不合理で、意味不明だ。どう考えてもそうはならないだろうとしか思えない。もしかしたら他の理由があるのかもしれない、さらってくるほど母が彼女に執着していたとは思えないけれど、何かそうするだけの理由が。たとえばバナミさんの夫の人が宝くじで十億円当てたので身代金が欲しいとか、あるいはその夫の人が実は暴力男でバナミさんが逃げてきたとか、もしくは幽霊の類が出るので家にいたくないだとか。
しかし母の様子はさらうという言葉の不穏さとはかけ離れていたし、バナミさんも何かから逃げてきたふうにも見えなかった。だからもうお手上げだ。自分は理由もわからないままあの人と同じ家で暮らすことになるのだ。
「最悪」
蒼子は声をひそめてつぶやいた。快く受け入れようという気持ちには到底なれなかった。だってそうだろう。こう言っては悪いけれど、もうすぐ死ぬとわかっている人と一緒に暮らすなんて誰だっていやに決まっている。
まさか中学最後の夏休みをこんな形で迎えることになるとは。
絶望感に囚われ、蒼子は逃げ道を探すように自室の壁にきょろきょろと視線をさまよわせた。
バナミさんはその日父の椅子で夕飯を食べた。父の帰りが遅くなったからだ。いつもは八時くらいまでは待っているのだけど、バナミさんの薬の時間が遅くなってはいけないので先に食べることになった。彼女も母も家族みたいに食卓を囲むことを何も不思議に思ってはいないみたいだった。バナミさんがテレビを見ながら楽しそうにしゃべり続ける向かい側で蒼子は一言も口をきかずに食べ終わった。弟の青矢は戸惑った様子だった。テレビが彼の好きな番組に設定されていないことが理解できないらしかった。かといってお客さんが見ているチャンネルを変えるわけにもいかず、しだいに絶望感を漂わせ悲しそうになっていった。力なく皿をつついている青矢をバナミさんは「ハンバーグきらいなの? 珍しいね」とおかしそうにからかった。青矢は罰を受けているみたいにハンバーグを食べ進め、皿の上をきれいにすると一目散に自分の部屋に走っていった。
「シャイだよね、あの年頃は」
バナミさんは蒼子に向かって言ったけれど、蒼子が返答を考えつく前にまたテレビの内容についてしゃべり出していた。
翌朝もその調子だった。バナミさんがうちで暮らすということが完璧に決定事項になってしまったような空気があった。平然としている二人の大人の女の人を前に蒼子は敗北感と、それから少しの怖さを覚えた。彼女たちは一夜にして何かを乗り越えたのだ。
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