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 こうしてバナミさんとの生活はしごくスムーズに始まった。 「何も変わらないでしょ」と母が言うとおり、バナミさんがいようといまいと夏休みであることにも受験生であることにも変わりはなかったわけで、蒼子は当初の予定どおり家と塾を往復する物足りない夏休みに突入した。とはいえ本当に何も変わらなかったわけはなく、実際には細かい変化は無数にあった。結局のところ、変わったことを無視することでしか「何も変わらない」は達成されないので、蒼子たち家族にとっては変わったことを無視することが大切だった。   ひとつめ。ピアノを弾くのをやめた。受験生だからとレッスンを休んでいるけれど、十年近く続けた趣味だ。バナミさんが来るまでは気分転換によく弾いていたのだが、蒼子の家では居間の片隅にあるピアノを弾くと家じゅうに響いてしまう。うるさいし、振動が病人にはよくないのではないかと蒼子のほうから申し出た。母はバナミさんがいいと言うなら弾いても構わないのではないかと首を傾げたけれど、自分のピアノが刺激になってバナミさんの体に何かが起こったらと思うと怖かった。知らずに引き金を引いてしまったら取り返しのつかないことになる。引き金を引くのがいやというより、引き金を引くのが自分になることがおそろしかった。だから弾くのをやめてしまった。  ふたつめ。ごはんが、なんというか、薄くなった。食べられなくなってきているバナミさんのために消化のいいメニューが多くなったからで、うどんとか素麺とかそういうものが多くなり、逆にハンバーグや唐揚げは食卓に上らなくなった。さすがに物足りないので文句を言ったが、母はそういうメニューを作ってはくれなかった。脂っぽい料理を作るとにおいで気持ちが悪くなってしまうらしいからだ。そこで母は仕事帰りにお惣菜を買ってきてくれるようになったけれど、そんなにおいしいと思えなかった。  父はだんだんと帰りが遅くなり、外食してくるようになった。蒼子は受験勉強を口実に夜食としてレトルトカレーやカップ麺を部屋に持ち込むことが多くなった。青矢は毎日のようにコンビニでチキンナゲットを買い食いし、ポテトチップスを机の引き出しに隠していた。  三つめ。テレビも見られなくなった。バナミさんの和室は居間の隣にある。襖をあけ、ベッドの上から彼女は一日中テレビを見ている。バナミさんが見ているときには好きな番組を見られないし、テレビが消えているときには寝ているということなので、テレビをつけることもためらわれた。みんな色あせた絵か何かみたいにテレビをスルーするようになり、これまでのように夕飯のあとテレビを見ながらだらだら過ごすこともなく、まるで最初からそんなことしていなかったみたいにそれぞれの部屋に引き上げるようになっていった。後片づけをしている母と、画面を眺めながら陽気にしゃべりつづけるバナミさんを残して。  四つめ。トイレやお風呂にも気を遣うようになった。これもほかと同じような理由だ。むやみに家の中を歩き回って安静を邪魔してはいけないというのと、トイレにこもりがちになる彼女の妨げになったらまずいというのと、それから、なんとなく彼女のあとに使うのが怖いような気がして。うつるような病気ではないということはわかっているのに、それでもなんとなく避けてしまう。バナミさんには悪いなあと思いながら、やましい気持ちで階下の気配を探るのだ。  五つめ。寒がりのバナミさんに合わせて温度を設定しているために部屋が暑い。  六つめ。嘔吐の音がしょっちゅう聞こえて気持ちが悪くなる。父はこっそりみんなのぶんの目立たない耳栓を買ってきてくれたけれど、そのせいで母と言い合いになった。父と青矢はつけているけれど、つけようとしない母がかわいそうな気がして蒼子はつけるのを迷っている。勉強に集中するべし、さすればきっと聞こえなくなるであろう。そう自分に言い聞かせてはいるけれど、鍛錬というのは十日やそこらでどうにかなるものでもなかった。 「はあー、まじ憂鬱」  蒼子は塾で隣の席のヒナちゃんに毎日愚痴った。 「しょうがないんだけどさあ」 「うんうん、かわいそう、かわいそう」  ヒナちゃんに雑に慰められながら、蒼子は持参のおにぎりにかぶりつく。お昼休みだ。午前コースで帰る人や下のコンビニに買い出しにいく人が一斉に出て行ったので教室は閑散としていた。午後の授業は一時からだ。それまでに食べ終えて、次の授業で出ていた宿題の答え合わせを二人でしておくつもりだった。  ヒナちゃんはお弁当をつつきながら「でも考えようによっては好都合じゃない? 余計なこと考えないように勉強に集中できるじゃん、うちみたく」と人の悪い笑みを浮かべた。 「ヒナちゃんちほどヘビーじゃないよ」 「いや、なかなかきついと思うよ。うちはほら、家族だからまださ」 「いやあ家族のほうがきついんじゃないかなあ。結局は他人だから耐えられる気がする。もしかしたらあの人、自分の家族に追い出されたのかもしれないと思うもん」 「なんで?」 「いや、わかんないけど……うるさいから?」 「うるさいからって末期の人を追い出すもんかな」 「だって何も言ってこないんだよ、あの人の家族。近所だし、うちにいるってわかってるのにさ」  蒼子は「返してほしけりゃ取り返しにくるわよ」といらだったように言った母の声を思い返した。翌日には来るだろうと思っていたお迎えはまだ来ない。もう半月にもなろうというのに。 「非情じゃない? 非常識じゃない? ふつう夫の人とか迎えに来るよね」蒼子は鼻息荒く息巻いた。「息子だっているんだよ。死にかけた母親がひとんちにさらわれても放っとくってどうなの。家族でしょ、連れ戻しに来るでしょ」 「ふつうに家出したと思ってるんじゃないの。書置き置いてきたんでしょ?」 「家出だとしてもだよ。めんどくさくなったらほっとくなんておかしいよ。だいたいうちに迷惑がかかるって思わないのかな」 「うん、でも、よっぽどの事情があるのかもしれないよ。蒼子たちが知らないだけで、家ではものすごいひどい母親なんだとかさ。そういうのはわかんないもんだよ。うちだって、あんなんで外では優しい先生やってるんだから」  ヒナちゃんはふうっと大人びた溜息をついてペットボトルのホットほうじ茶をすすった。 「どこもいろいろあるんだよ。うちらが知らないでいられるだけでさ」 「いろいろかあ。そうかもしんないね」  もぐもぐ口を動かしながら蒼子はしぶしぶうなずいた。ヒナちゃんにそう言われると、確かにそうなのかもしれないと思えてくる。  ヒナちゃんの家はとにかく激しいと聞いている。殴り合い、どなりあいはしょっちゅうで、時にはパトカーが来ることもあるそうだ。そういうときはいつもイヤホンでガンガン音楽を聴きながら勉強に集中しているそうで、そのためか、塾の成績はぶっちぎりの一位だ。かといって行きたい私立に行かせてもらえるわけではないから勉強なんてたんなる暇つぶしなんだけどね、とクールに言い放つヒナちゃんは蒼子などよりずっと大変だったのだから、大変なのは自分だけみたいな顔はできない。だからそのぶん、気楽に愚痴を言えるのだった。 「でもその人、病人なんでしょ? お部屋で静かにしてるんならそんなに邪魔でもないんじゃないの」 「そうでもないんだよ。薬飲んだあとはつらそうだけど、ふだんは言うほど具合悪そうでもないの。声がでかいからふつうにうるさいよ。それにあの人の部屋って居間の横の和室だから、襖あけてると一階全部テリトリーって感じで。ほら、うちLDKだし」 「LDKじゃ、そうかあ。LDKじゃあねえ」  何がおかしかったのか、ヒナちゃんは笑い出した。ツボに入った様子でLDKと繰り返し、笑いすぎて箸を置くほどだった。笑いごとじゃないよ、と文句を言いながら蒼子もつられて笑い出した。 「こんなことなら合宿申し込めばよかったなと思ってさ」 「後期ならまだ申し込めるんじゃない? でも蒼子が合宿行っちゃったらつまんなくなるな」とヒナちゃんは教室を見回した。  蒼子もヒナちゃんも、この塾には親しい人がほかにいない。蒼子にとっては学区外だから知りあいもいないし、ヒナちゃんもここでは孤高を貫いていたから。塾だから友達なんていなくても問題はないけれど、お弁当のときなんかにちょっと話せる人がいてもいい。そうやって隣の席どうし手をのばし合うようにして二人は仲良くなったのだった。 「お金かかるから行けるかどうかわかんないよ。だいたい、あたしが行っちゃったら、うち困ると思うし」  蒼子は慌てて言い足した。 「ほら、うちお母さんがシフト増えちゃって、いま一日いないからさ。あの人ずっと一人で置いておくのも心配だから様子見ないといけないし。倒れてたりしたら怖いから」 「ああそっか。けっこう責任重大じゃん」 「そうなんだよ。もう、まじ憂鬱」 「憂鬱だねえ、かわいそうかわいそう。ところで憂鬱の鬱って書ける?」 「書けるわけなくない? え、それ入試に出る?」 「知らないけど私書けるよ」 「まじか。薔薇も書ける? 髑髏は?」 「書ける書ける」  さっそくノートを取り出した。あれもこれもと、難しい漢字を思いつくままひねり出して挑んだけれど、ヒナちゃんはどれもさらりと書いてしまう(たぶん合っているのだろう)。なんで書けるのー、と笑いながら、蒼子は頭の片隅に燻っているちりちりとした違和感に気を取られていた。なんだかさっき、ヒナちゃんにひどく残酷なことを言ってしまったような気がする。不安になって必死に会話を思い返してみたけれど、あの会話のいったいどこにそう思ったのかわからなくなっていた。ただの錯覚だったらいいのだけれど。いつもどおりの横顔をこっそりとうかがいながら、蒼子はぼんやりとした罪悪感とともに願った。 「あ、おかえりー」 「どうも」  帰宅するとバナミさんは起きていた。部屋の真ん中に設えられたベッドの上で横向きに寝そべり、リモコンを突き出している。何度もボタンを押しているのに、うまくチャンネルが変わらないようだ。 「ねえこれさ、ボタンの効きが悪いみたい。全然変わんない」 「はあ」 「電池かな? 単三ある?」 「さあ……」  蒼子は冷蔵庫にまっすぐ向かって麦茶を取り出し、続けて二杯飲みほした。三杯目をついでから、「麦茶いりますか」と尋ねる。 「ううん、大丈夫。それより電池、買い置きないの」 「知らないです。どっかにはあるかもしれないけど」 「ちょっと探してみてくれる? そのへんの引き出しとか、勝手に見るわけにもいかないからさあ」  知らないって言ってるじゃん。  と、もちろん声には出さないで、しかたなくありそうなところを適当にあさる。食器棚の一番端の引き出し、テレビ台の上の雑然としたかご、カウンターの小物入れの缶。 「ないですね」 「そっかあ」  残念そうなバナミさんの声にいら立ちながらテレビの脇に立ち、本体のボタンでチャンネルを変えた。 「見たいのどこですか」 「あ、ありがと、じゃあね、ちょっと回してて。ゆっくりめに」  BS、CSと三周して、ようやくストップがかかったのは最初に見ていたチャンネルだった。とんだ時間の無駄じゃないかと蒼子は愛想笑いを引きつらせながら台所に戻った。テーブルの上にはかぴかぴになったおかゆの皿が無造作に置いてある。蒼子たちが風邪をひくと母が作ってくれるたまごのおかゆだ。ラップもかけずに半分以上残されているのを見て、ほとんど憎しみみたいな熱い怒りがおなかの中に灯るのを感じる。お母さんのおかゆをこんなに残しやがって。再放送の刑事ドラマを背中に聞きながら蒼子は冷えたおかゆをビニール袋にあけ、捨てる。皿を洗い、麦茶を持って部屋に引っ込もうとすると、バナミさんがテレビの画面に釘付けのまま声をかけてくる。 「あ、蒼子ちゃん、悪いけどそこのチラシ取ってくれるかな。あとね、もうすぐ雨降りそうだから洗濯物入れちゃったほうがいいよ」  蒼子は黙って新聞から引き抜いたチラシを渡し、ベランダの洗濯物を取り込んだ。畳んでおいたほうがいいだろうかと迷い、しかし父のワイシャツを見て怖気づく。アイロンはうまくできない。かごに入れたまま置き去りにして階段をそっと上った。
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