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3
青矢がおばあちゃんの家に行くことになった。ついでに父も一緒だ。遠くはなるものの通勤できる距離だし、青矢が一人では心細かろうという理由で。夏期講習がびっしり入っている蒼子は当然のように数に入れられておらず、気づいたときには大きな荷物で出かける二人を玄関先で見送っていた。
蒼子はまじかと呟いた。まさか、行くか残るか聞かれもしないとは思わなかった。出発の朝まで知らされないとも思わなかった。なぜ誰も聞いてくれなかったのだろうと落ち込んだ。たとえば両親が離婚することになったら、自分と弟はこんな感じで振り分けられるのかもしれない。そう、うちの親は意外とそういうことをするのだと、つい最近知ったばかりではなかったか。いまさらこんなことで驚くほうがどうかしているのかもしれない。
「蒼子ちゃん、共栄受けるんだって?」
人数の減った食卓でバナミさんが言った。
「いいじゃない、あそこ制服かわいいよね。あたし娘がいたらあそこ入れたかったんだ」
「べつに制服がかわいいから行きたいわけじゃないです」
「そうなの? 蒼子ちゃん頭よさそうだから、ぜったい清松だと思ったのよ。でもあえて共栄なのは制服がかわいいからなのかなって」
「べつに頭よくないんで」
蒼子はいらいらとパンをちぎった。バナミさんは白茶けた顔で野菜ジュースをすすっている。
「近くにしてほしいって私が頼んだのよ。電車通学はなんだか心配で」と母がとりなすように言って、バナミさんは「女の子だもんねえ」と笑った。
「うちは男子だからさ、清松入ってくれればいいなって思ってるんだ。あたしに似ないでできる子だから期待してるんだけど」
「まだ早いんじゃないですか」
「なに言ってんの。うちの息子、蒼子ちゃんと同じクラスだよ」バナミさんはきょとんとした顔で言った。「野球部の佐藤って、知らない?」
「はあ?」
ケタケタ笑うバナミさんを蒼子はぽかんと見つめた。だってこの人、そんな大きな子供がいるような歳じゃない。しかも、息子、同じクラス?
知っていたのかと母を睨むと、母は「そうよ」とのんびりと頷いた。「ほら、小学校も一緒だったじゃない。二年生だか三年生だかで同じクラスだったはずよ」
「覚えてないよ」
ふてくされる蒼子にバナミさんは追い打ちをかけた。
「模試でもいい判定出てるみたいだからいちおう安心はしてるんだ。野球ばっかりしてるくせにわが子ながら不思議なんだけど」
「すごいですね」
蒼子は怒りを抑えて愛想よく言った。母がちらりと時計を見た。バナミさんはきげんよく話し続けている。
「だからさ、ママにも教えてよって頼むんだけど、もう全然。照れちゃって口もきいてくんないの。受験生の邪魔しちゃ悪いからあたしも無理にとは言わないんだけどさ。男の子って寂しいよね。蒼子ちゃんみたいな娘もほしかったな、あたし」
「あたしも受験生ですけど」
蒼子はとうとう言った。
「ん?」
「あたしもおたくの息子と同じ受験生なんですけど。邪魔しちゃ悪いと思わないんですか。もしかしてあたしが清松受けると思ってわざとうちに来たんですか。息子のライバル蹴落とそうとでも思ったんですか」
「蒼子」母が鋭い声で遮った。「そんなわけないでしょ」
「じゃあどういうつもりなの。お母さんおかしいよ。意味わかんない」
蒼子はパンを半分残したまま席を立って階段を駆け上がり、リュックを掴んだ。スニーカーをつっかけたとき、ごめんね、と母の謝る声が小さく聞こえた。蒼子にではない。バナミさんにだ。バナミさんの返事が聞こえる前に蒼子は乱暴に扉を閉めた。
塾についたらヒナちゃんに速攻愚痴ろう。そう思ってうずうずしていたけれど、ヒナちゃんの顔を見るなりそんな気持ちは急激にしぼんだ。いつもと同じ声で「おはよ」と言ったヒナちゃんの左目の周りが大きく腫れあがっていたのだ。驚き、言葉をかけあぐねた蒼子を気遣うようにヒナちゃんはちょっと笑った。
「きのうは逃げそびれた」
「大丈夫なの? 病院とか行ったほうがいいんじゃないの」
「うん、黒板も見えるから。保冷剤いっぱい持ってきたし」
ヒナちゃんはハンカチに包んだ小さな保冷剤をそうっと患部におしつけた。覆いきれない赤黒い痣にどうしても視線が引きよせられてしまう。不思議なことに、先生たちはヒナちゃんのけがにも、保冷剤をおさえながらノートを取りづらそうにしていることにも気づかないようだった。午前午後合わせて五人の先生がすぐそこでみんなを見下ろしていたにもかかわらず、誰も。
「このあとどうする?」蒼子は授業が終わったあと、ヒナちゃんに尋ねた。「今日も自習室行く?」
「あ、いや、今日は帰ろうかな。昨日遅くなったら親とかちあっちゃったからさ」
ヒナちゃんは顔を歪めて笑った。腫れはひくどころかますますひどくなっているように見える。
「大丈夫? 送ってこうか」
「大丈夫、大丈夫。じゃあまた明日……」
教室を出て行こうとしたヒナちゃんに、一人の男子が近づいてきた。ちがう学校の子だ。その子は怒ったような顔で小さな袋を突き出した。
「これ使って」
驚いたように固まっているヒナちゃんに袋を押しつけ、その子は不器用に机にぶつかりながら逃げるように教室を出て行った。下のコンビニで買ってきたのだろう、貼るタイプの冷却シートだ。ヒナちゃんはちょっと迷ったあと、箱から二枚取り出して貼ってくれるよう蒼子に頼んだ。
「知り合い?」
ぷよぷよした痣をシートで慎重に覆いながら尋ねると、ヒナちゃんはううん、とうなるような声を出した。
「この前、告られた。一中の人だって」
「まじで? ここで?」
大声出さないでよ、とヒナちゃんは眉をひそめて答えた。
「そう。模試の帰り。ほら、うちら県立コースだから蒼子より後に帰ったじゃん」
「ああ」蒼子はぼんやりと思い返す。県立コースは私立コースより科目が多いのだ。「え? それで?」
「それでもなにも、ふつうに断ったよ。知らない人だし」
「なあんだ」ちょっとほっとしたような気持ちで蒼子は息をついた。冷却シートを貼り終わる。見た目はひどいけれど、保冷剤も溶けてしまったし、これで少しはましだろう。
「――断ったのに、くれたんだ」
「断ったのに、くれたね」
ヒナちゃんは気持ち悪そうに冷却シートの箱を見つめ、しかしそれをしっかりリュックに突っ込んで、じゃあねとかったるそうな足取りで帰っていった。
今日は一緒に自習室で勉強してから帰ろうと思ったのだけど。
少しだけがっかりしながら蒼子はとぼとぼと自習室に向かった。
あの人のために早く帰らなければいけないと思うと癪だった。というより、なんだかもう、帰るのがいやだった。やる気もなくノートを広げながら、ヒナちゃんをうちに誘えばよかったのではなかったかとふと思った。ちがう学区で家は遠いし、連れて帰ったところで居心地のいい家ではないのだから全然いい思いつきではなかったけれど、それでも誘うくらいしてみればよかったかもしれない。
二時間ほど自習して帰宅したときには、不安でいっぱいになっていた。
帰ったらバナミさんが死んでいたらどうしよう。自分が遅くなったおかげで誰にも助けを求められず苦しみながら待っていたら。取り返しのつかないことをしてしまったかもしれない。いや、そうにちがいない。
不安はいつしか確信に変わり、蒼子はほとんど絶望しながら必死で自転車を飛ばし、ばたばたと家に飛びこんだ。おかしい、いつものテレビの音がしない。この時間なら夕方のニュースを見ているはずなのに、寝ているのだろうか? あるいは――どうしよう、もう死んでるかもしれない。
「あら、おかえり」
勢いよく居間の扉をあけると、台所に立っていた母が言った。バナミさんも「おかえりー」とのんきに手を振る。
大丈夫だった……。
ほっとした瞬間に力が抜け、蒼子は床の上に座り込んだ。とめどなく汗がふきだし、心臓は爆発しそうに早鐘を打っている。へとへとだ。犬みたいに喘いでいると母が麦茶を持ってきてくれた。
「どうしたの、そんなに汗かいて。急ぎの用事でもあった?」
怪訝そうな母に首を振って答え、荒い息をつきながら扇風機を抱えこんだ。暑さと喉の渇きで頭ががんがんしている。こっちのほうが死にそうなんだけど、と蒼子はソファの上でのんきにポテトチップスをつまんでいるバナミさんを睨んだ。
なんだ、全然元気じゃないか。心配して損した。もっと塾で自習してきたって大丈夫だったじゃないか。こっちはひとりで倒れてないか気になってちっとも集中できなかったのに、のんきにマンガなんか読んで……。
「ていうかそれあたしの!」
バナミさんの手元を指さして叫ぶと、バナミさんはにこにこと言った。
「あ、ごめんねえ、借りてた。退屈で」
「はあ?」
「私が借りたのよ」母が急いで口を挟む。「だめだった?」
穏やかな口調とは裏腹に、ちょっとくらいいじゃない、という挑戦的な目つきで母は蒼子を睨んだ。瞬時に頭が沸騰し、「勝手に人の部屋に入らないでよ!」と叫んで蒼子はバタバタと二階に駆けあがった。「蒼子!」という怒声を背中に浴びながら。
は? 怒られた。
力任せに自室のドアを叩きつけ、蒼子はベッドに体を投げ出した。無性に悔しく、悲しかった。
バナミさんのせいで怒られた。ふだん怒られることなんてないのに。自分のものを勝手に触ってほしくないと思うのはそんなにいけないことなのか? 借りたいなら持ち主に許可をとるべきじゃないのだろうか? そうしなかったのは向こうなのに、なんで自分が怒られなくてはいけないのだろう。
それに蒼子が本やマンガを大事にしていて、折れたり汚したりしないように気をつけていることを知っているくせに、お母さんはあの人に貸したのだ。あんなだらしない人に、よりによってポテトチップスを食べながら読むような人に。病気だからしょうがないのだろうか? もうすぐ死ぬ人なんだからなんだって許してあげなければいけないのだろうか? 自分は優しくないから怒られたのだろうか?
「あの人いつまでいるんだろう」
蒼子は誰にも聞こえないような小さな声でつぶやいた。それはつまり、あの人いつ死ぬんだろうと言っているのと同じだった。あるいはもっと直接的に言えば、早く死ねばいいのにと。
人の死を願うなんて最低だ。そんなことを考えてはいけないとわかっているけれども、いけないと思うほどに心の中の声は強くなった。本当はもうずっとそう思っていた。何度も何度も、一日に何十回も思っていた。
あたしは最低だ。
蒼子は暗澹たる気持ちでそのことを再確認した。もはや疑いようもなかった。自分という人間は死にかけている人にも優しくできない、自分本位の最低な人間だったのだ。
「ああ、本当にいやだ」
もはや覆すことはできないけれど、できればこんなふうに自分の本性みたいなものに気づきたくなんてなかった。気づかされたくなかった。自分の本性なんてできれば一生気づかずに過ごしたかった。すくなくとも蒼子にはまだ気づかないでいる権利があったように思った。だってまだ中学生で、そのうえ受験生だ。こんなときにそういう展開を押しつけてくるなんてちょっと反則というかフェアじゃないような気がした、しかも自分や自分の家族でなく、親しくもない他人のためにというのは。
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