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 バナミさんはかなり若い。  たぶん二十代後半か、三十そこそこだと思う。こげ茶に染めた髪は肩より少し下。化粧はけばめだったけれども、いまはさすがにすっぴんだ。顔色は悪い。どっしりした体形はそのままだが、エネルギーではちきれそうだった体はいまはなんだか弾力に欠け、ぐったりとたるんで見える。病気になってダイエットできると思ったのに進行が速すぎてやせる間もなかったよ、と豪快に笑った。 「そういえばさ、蒼子ちゃんってお化粧とかする? せっかく夏休みなんだからちょっとは気合入れればいいじゃん。未開封のマスカラとかあるんだけど使わない?」 「使いません。塾しか行かないのに気合なんて入れないし」 「寄り道もしないの? 今の子って友達とプリクラ撮りに行ったりタピオカ吸いに行ったりしないの?」 「しません」 「もったいなーい!」バナミさんはびっくりしたように叫んだ。「この子、青春を無駄にしてる!」 「受験生なんで。そういうのはあとで」  蒼子はお味噌汁を飲みながら淡々と返した。ヒナちゃんが告られたという衝撃の事実にはちょっと――というかかなり心を揺さぶられたけれども、そのことはこの際目をつぶる。 「だいたい誰のために一目散に帰ってきてると思ってるんですか。一人じゃチャンネルも変えられないくせに」 「最近調子いいから大丈夫。だいたい三か月で死ぬって言われてもう五か月生きてるんだから、いまさらそんな簡単にくたばらないわよ。だから安心して青春しておいでよ」 「だから、受験生なんでそんな暇ないんですってば」  冷たく言い返すと、母が向かいでくすりと笑った。 「受験生っていったって、勉強しかしちゃいけないわけでもないんだから。たまには蒼子も気分転換してきていいのよ」 「なんなのお母さんまで。そんなこと言って成績下がったら怒るくせに」 「そりゃそうだけど」  母は笑って首をすくめた。なんなの、楽しそうにしちゃって。家族でいるときには決してしないそういう仕草を母はときどきするようになって、蒼子はそういうところも気に食わなかった。あからさまに不機嫌アピールしている蒼子を前にしてもなんだか二人とも悠々としている。むかつく。  二人のことなんて無視して黙々と朝食をたいらげていると、バナミさんは朝食の傍らじっくりと眺めていたチラシをぴらりと翻し、母に渡した。 「このアジフライとメンチ、四枚ずつ頼める? あとスポーツドリンクの粉末が安売りしてるから、それを二つか三つ」 「野菜がないわよ。ポテトサラダか何か適当に見繕っていきましょうか」 「ああ、じゃあこの和風の煮物みたいなのもいいかな。パパはそういうほうが好きだから」 「わかった」  母はうなずき、バナミさんは部屋着のジャージのポケットから財布を取り出した。マリクワのピンクの長財布だ。表面は手垢で黒ずんでおり、特徴的なお花のチャームは付け根の革がちぎれそうになっている。バナミさんはお花をひっぱってチャックを開け、千円札を二枚出して母に渡した。母はそれを受け取ると「じゃあ帰りに置いてくるから」とチラシと一緒に見慣れないポーチに入れた。 「ちょっと待って、それなんの話?」  蒼子は口を挟んだ。 「何って、買い物よ。仕事の帰りに寄って置いてくるの。男二人じゃごはん大変でしょう」 「だってそのスーパー、坂の下でしょ。全然逆方向じゃない。ふつうにアカシで買えばいいのに」  二人の勤め先であるスーパーの名前を出すと、「アカシにはないものもあるのよ」と母がごまかすように笑った。 「ごめんねえ、ほら、アカシってちょっと高いからさ。あたし自分ちの買い物はいつもミツバストアなのよ。それにあそこのアジフライ息子が好きでね、今日安売りしてるから」 「だってお母さん仕事終わってから行くの? この暑いのにわざわざ歩いて? いつもそんなことしてたの?」 「毎日じゃないわよ」母は気まずそうに目を伏せた。「それに好きでやってるんだからあんたには関係ないでしょう」 「はあ?」  蒼子は立ち上がって母からポーチを奪い取った。 「ならあたしが行くよ。塾終わってからでいいんでしょ? 買って届ければいいんでしょ?」 「いいわよ、蒼子」 苦い顔をした母がポーチを取り戻そうと腰を浮かせたとき、「いいの?」とバナミさんが嬉しそうに大声で言った。 「ありがとう、助かるよー。うちわかる? 四丁目のさ、保育園の向かいにお米屋さんあるでしょ、その隣のマンションの三階なんだけど。ドアにひっかけておいてくれればいいからさ」 「表札出てるから行けばわかるわよ」と母がそろそろと言った。「でもお母さん行くからいいよ?」 「いいよ行くよ、どうせ暇だし。気分転換させたいんでしょ」  引っ込みがつかなくなった蒼子は奪い取ったポーチをポケットに突っ込んだ。    というわけで、余計な仕事を引き受けてしまった蒼子は塾からの帰り道、自転車を下りることなく家の前を通り過ぎた。大通りに出て坂をずっと下っていき、突き当りを右に少し行ったところにミツバストアはある。アカシと比べると古くさい感じのスーパーだ。店に入ると冷房の強い風がぶわっと体を包み、蒼子は鳥肌を立てながらなんとなくすっぱいにおいのする店内をずんずんと進んだ。  総菜売り場は突き当りの右側。揚げ物コーナーに立っている大特価と書かれたポップが目を引いた。メンチ四枚と、アジフライ四枚。自分で取るタイプだ。メンチをまずゲットした。けれど、アジフライは三枚しかなかった。  どうしよう。  トングをさまよわせながらしばらくその場をうろうろしてみたけれど、アジフライが補充される気配はない。足りないと困るだろうか。こういうときどうすればいいのか聞いておけばよかったと蒼子は激しく後悔した。三枚だけだと喧嘩になるなら二枚にするとか、それともいっそアジフライはなかったことにしちゃうとか?  迷った末に、アジフライより少しだけ高い厚切りハムカツをパックに詰めてよしとすることとした。あとはサラダとか煮物とかを適当に買えばいい。  こんなところで延々と迷っていたことがなんだか急に恥ずかしくなって、蒼子はそそくさと残りの買い物をすませた。買い物袋をかごに突っ込み、緩やかな長い坂をのろのろと漕いで、ふたたび自宅の前を通り過ぎ四丁目を目指した。  ここか……。  バナミさんの家にたどりついた頃には汗だくになっていた。自転車といえどもこの暑さであの上り坂は半端なくきつい。ましてや仕事帰りの母が荷物を持って歩いていたと思うと蒼子は泣きたいような気持ちになった。なんであたしたちがこんなことまでしなきゃいけないんだろう。あんな人のために、わざわざ。  ドアにかけておけばいいとは言われたけれど、不用心だし衛生的にも心配だ。不在なのだろうと思いつつ、いちおうインターホンを押してみると、思いがけないことに「はい」と大人の男の人の声がした。驚いた蒼子は「あの、バナミさんから頼まれてきたんですけど」としどろもどろに言った。 「ああ、はいはい」男の人はめんどくさそうに言って、おいとかなんとか言いながらいきなり通話をぶつりと切った。戸惑っていたら足音が近づいてきて、のっそりとドアが開いた。おじさんではない。息子のほうだ。 「あ、どうも」  同じクラスの佐藤某は小さく会釈のようなものをして無造作に袋を引き取った。中を覗きこんだから、蒼子は「アジフライ足りなかったんで一枚ハムカツになりましたから」と急いで言った。 「あ、はあ」  胡乱な顔でもう一度袋を覗きこみ、くるりと背中を向けて部屋の中に引っ込んだ。 閉まった扉の前で蒼子はあっけにとられて立ち尽くした。  なにあれ。なにあの人たち。人のことなんだと思ってるの? しかも二人とも家にいるなら、自分で買いに行けたんじゃないの?  母親が母親なら息子も息子、夫も夫だ。蒼子は階段を駆け下り、もう二度と来てやるもんかと思いながら猛烈な勢いで自転車を漕いだ。  帰宅した途端、バナミさんが「蒼子ちゃんおかえりー。ありがとねえ」と和室から大声で言った。「でもスポーツドリンク忘れたでしょう。粉のやつ。べつにいいんだけどさあ」 「あ」  アジフライに気を取られてすっかり忘れていたことに気づき、蒼子は顔を赤らめた。 「すいません」 「うん、いいの。安売りだから買っとくかって思っただけだからさ。アジフライなかったんでしょ、一枚ハムカツだったって息子が喜んでた」バナミさんは上機嫌に続けた。「そんなの好きだったなんてあたし知らなかったよ。早く言えばいいのにねえ」 「ていうか、なんで知ってるんですか。息子さんに聞いたんですか」 「え? そう。さっき電話きてさ」 「それでスポーツドリンク忘れたって文句言われたんですか」 「いや、まあ、あたしが今日買っていってもらうって言っちゃったからさあ」  気まずそうに笑うバナミさんに、蒼子は冷たく言い返した。 「ご家族二人とも、もうおうちにいましたよ。うちのお母さんはまだ仕事だけど。買い物行けるじゃないですか。自分で行けるんじゃないですか。わざわざ他人を使わなくても」 「いや、まあね。でも」 「でも、なに? 受験生だから? あたしもですよ。働いて疲れてるから? うちのお母さんもそうですけど。バナミさんが辞めた分人手が足りないからシフトが増えて毎日朝から晩まで働いてるんですけど。どうしてあたしたちがバナミさんの家族まで面倒見なきゃいけないんですか」 「いや、面倒見てもらいたいってわけじゃないんだけどね」 「じゃあなんなんですか」 蒼子はポーチを床にたたきつけた。バナミさんが驚いたように表情を改める。 「バナミさんうちに何しにきたの。なんでうちなの。お父さんも追い出して青矢も追い出してひとんちめちゃくちゃにして楽しいわけ? うちのお母さん、あんたのお母さんじゃないんだけど。あんたの奴隷じゃないんだけど」  「ごめんねえ、蒼子ちゃん、そんなつもりはないんだって。頼むから泣かないでよ」  焦ったように体を起こしたバナミさんは不安そうで、困り切っているように見えた。でもそんな態度すら蒼子の怒りを煽った。 「じゃあどんなつもりなの」 「どんなっていうか……」  口ごもるバナミさんに蒼子は投げつけるように言った。 「どうしていつまでも家族が迎えに来ないのか、あたしよくわかったよ」  そして階段を駆け上がって、その日は二度と階下に降りなかった。
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