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5
六時少し前。トイレに駆け込む足音で目が覚めた。えずく声にももう慣れてしまって、一緒に吐いてしまいそうになることもない。三回流してゆっくりと戻っていく足音。母が静かに起き出し、お茶の支度を始めたのが聞こえる。テレビの音が一瞬大音量で響き、すぐに聞こえなくなった。
蒼子は枕を頭の上に乗せ、もう一度眠ろうと努力した。しかしうまくいかなかった。しだいに意識されてくる空腹に耐えかねて体を起こした。むくんだ顔をさすりながらしかたなく階下に降りていく。トイレもお風呂も台所も玄関も、残念ながら一階にしかないので。
「あらおはよう。おなかすいたでしょ、昨夜のごはんあっためる?」と母は何事もなかったような顔で聞いた。「それとも先にシャワーする? 汗かいて気持ち悪いでしょ」
「ああ、うん」
叱られる覚悟を決めていた蒼子は用心深く母の顔色をうかがった。しかし母は怒っている様子もなく、むしろ心配そうに蒼子を見つめて言った。
「忙しいのはわかるけど、夕飯も食べずに寝ちゃうくらい疲れるなら塾も電車で行くようにしていいのよ。元々そのつもりだったんだし、暑いなか三駅分も漕ぐの大変でしょう。電車賃あげるから、今日からそうしなさい」
「え、いや、いいよ。日陰の道だし、自転車のほうが気持ちいいから……」
蒼子はちらりと和室に目を向けた。襖は閉まっている。どうやらバナミさんは昨日のことを母には告げなかったようだ。なんだか後ろめたい気持ちになり、蒼子は「それに、買い物するのにちょうどいいから。もしまた買い物あったら、言ってね」と罪滅ぼしのように口にしてしまったのだった。
「なに、それで人んちの買い物わざわざ引き受けてるわけ? 蒼子もたいがいお人よしだねえ」
「いや、毎日ってわけじゃないし、お駄賃として自分のアイスも買っていいことになったからさ」
蒼子はおにぎりを頬張りながらごにょごにょと言い訳した。
「それにバナミのためってよりはうちの母親のためにやってるようなもんだから。だってうちの母、下手したらバナミんちの分までごはん作って届けそうな勢いなんだもん。いやじゃない? それって」
「ああ、それはやだわ。わかる」ヒナちゃんは深くうなずいてカップコーヒーをずずっと吸った。「でもまじそこんちの男ども、メシぐらい自分で作ればいいのにね。何にもしないわけ?」
「食パン焼くくらいはしてるんじゃない? でもたしかに、あの感じじゃバナミがごはん作れなくなっても作ってあげようとはならなかったんだろうなと思うし――」
食べられなくなっても食べられるものを探してあげようともならなかったんだろうな、という言葉を、蒼子はお米と一緒に飲み込んだ。そんなのはただの憶測で、ひとの家の噂話は下品なので。
ヒナちゃんはそんな心を見透かしたように「まあいろいろあるんでしょう」と常のごとく締めくくった。
「それより今度の土曜、あたしの行きたい高校で高校見学のイベントあるんだけど蒼子も行かない? バナミの世話で忙しい?」
「なに言ってんの、行くよ行くよ。どこ?」
「共栄。私立だけど」
「共栄!?」蒼子は驚いて聞き返した。「あたし共栄受けるつもりなんだけど」
「え、そうなの?」ヒナちゃんも目を丸くした。「蒼子、共栄志望なの?」
「志望っていうか、近いから親がそこがいいんじゃないかって言ってて。でもヒナちゃん、共栄じゃもったいなくない? 清松とか行くと思ってた」
「いや清松行くんだけどさ」ヒナちゃんはさらりと言った。「公立だから他に選択肢もないし。でも本当は行きたいのは共栄なんだよ。あそこの馬術部に興味あるし、制服かわいいし。蒼子も行くんならなおさら行きたい」
「でもそんなにレベル高くないよ。あたしはともかく、ヒナちゃんには物足りなくない?」
「勉強なんてどこ行ったってできるんだから制服かわいいほうがいいよ」とヒナちゃんは唇を突き出した。「セーラーのとこがいいなあ……」
「ああ、まあね……」蒼子はあいまいに同意した。蒼子自身は制服にとくにこだわりはなくて、ただ私立であればいいかなくらいの感想しかなかったので、ヒナちゃんの本心は意外に思えた。「……じゃあ土曜日、行こう。ヒナちゃんと行けるなら楽しみ」
「うん。ぜったいね」
ヒナちゃんはクールな彼女に珍しくあけっぴろげににこっと笑った。ヒナちゃんってちゃんと笑うとえくぼができるんだ。蒼子はなんだか嬉しくなって、満面の笑みでうなずいた。
憂鬱な夏休みに、楽しみな予定ができた。
受験対策の一環ではあるけれど、蒼子はその日を心の支えに毎日を乗り切った。学校見学をして、そのあとちょっと遊んでもいいよね。お茶したりお店を見たりお揃いの文具を買ったり、それくらいは許されるはずだ。松明みたいに心の中で大事に育てた期待はいらいらしがちなときにも人知れず蒼子をなだめ、慰め、一層明るく燃え立った。
だから金曜日、塾に着くなりヒナちゃんが思い詰めた表情で駆け寄ってきたときには不吉な予感におののいた。
「ごめん、うちら行けないかもしれない」とヒナちゃんは暗い声で謝った。
「なんで?」
「保護者の同行がいるんだって。パンフレットに書いてあったの見落としてたの。うちの親には頼めないし……」ヒナちゃんは悲しそうに言った。「蒼子んちだって難しいでしょ?」
「そうだね、お母さん土日は休めないからなあ……」
蒼子も深刻な顔で腕を組んだ。スーパーは忙しい土日こそ人手不足になりがちで、だから母は土日は必ず出勤するようにしていた。ましてや前日に頼んでも急には都合をつけられないだろう。
「待って、お父さんに聞いてみる。もしかしたら来られるかもしれないから」
「ごめん、お願い」
ほっとした顔のヒナちゃんの横で蒼子は父にラインをした。土日休みの父なら大丈夫かもしれない。一日くらい戻ってきて付き合ってくれるだろうと高をくくっていたけれど、すぐに返信が来たと思えば、宇宙人がぺこぺこ頭を下げているスタンプだった。
「悪い、いま青矢連れて新潟にキャンプにきてるんだ。もうテント張っちゃったし、明日の朝すぐ出たって遠いから間に合わないよ」とメッセージが送られてくる。
「ああー」
二人は落胆のあまり机に上体を投げ出した。
「ごめん蒼子」
「ううん、こっちこそ」
ちゃんと確認していなかったのは自分も同じだ。胸の中の松明は恨みがましく燻り続けているけれど、こればかりはどうにもならない。
「楽しみにしてたんだけどねえ」
「しょうがないから明日は一日自習室かな。蒼子も来る?」
「来ようかなあ。うちにいるより捗るし」
暗い声で言い交わして、二人はぽかりと空虚な気持ちのままおとなしく授業を受け、授業が終わると静かに手を振って別れたのだった。
状況が変わったのは翌朝だ。
父から連絡を受けたらしい母がどうにか都合をつけてくれようと職場にかけあおうとしてくれて、しかしそれは悪いよと蒼子が止めて、言い合いのようになっているのに気づいたバナミさんがあっけらかんと申し出た。
「なんだ、そんなのあたしが付いてってあげるよ」
「は?」
母と蒼子は言い合いをやめ、眉をひそめてバナミさんを見た。
「無理でしょ」
「無理よ」
「なんで? 親子かどうか確認されるわけでもないんでしょ。あたしでもいいじゃん」
「いいじゃんじゃないよバナミちゃん。無理よ、この暑いなか外出は。しかも子供の引率なんて」
「なに言ってるの、あたし毎週ふつうに通院してるじゃない。幼稚園児連れて歩くわけでもあるまいし、全然大丈夫よ」
バナミさんは余裕ぶって手をひらひらと振ってみせた。
「蒼子ちゃん行きたいんでしょ? そのお友達だって楽しみにしてたんじゃないの。だったら行こうよ、あたしだって共栄行ってみたいし。あそこ校舎も洋館みたいで素敵なんだよねえ」
「遊びに行くわけじゃないんだよ。途中で倒れられたりしたらあたしたちだって困るし」
「学校なんだから保健の先生くらいいるでしょ、大丈夫だよ。それに、二人が見て回ってるあいだ、あたしどこかで待っててもいいんだし。ね、そうしよう」
バナミさんは熱心に言い募った。困惑して顔を見合わせている二人を置き去りにしてバナミさんは「とにかくそのお友達に早く連絡しなよ。あたし支度に時間かかるから、そうだなあ、一時間後に出発で。悪いけどタクシー呼んどいてもらっていい?」とまくしたてるとさっさと和室に飛びこんでぴしゃりと襖を閉めてしまった。
「どうする……?」
おそるおそる母に尋ねると、母は諦めたように首を振った。
「何かあったら迷わず救急車呼びなさい」
そう言ってタクシーを手配し始めた母を茫然と見つめていた蒼子は、信じられないような気持ちのまま、ヒナちゃんに連絡するため自分の部屋に上がっていった。
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