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 校門の前で待ち合わせ、着いたときにはヒナちゃんはもう待っていた。膝下のジャンパースカートの制服を身に着け、長い髪をきっちりと束ねていかにもできそうな雰囲気を漂わせたヒナちゃんは、蒼子に続いてタクシーを降りたバナミさんを見て一瞬目をみはった。 「どうもー、ヒナちゃん。今日はよろしくねえ」  ひときわ大きな猫なで声に、久々で気合が入ったらしいけばさ三割増しのお化粧。ぎりぎりちゃんとしていそうなジャケットの内側は足首まであるワンピースで、むっちりと生白いはだしの足をハイヒールサンダルに押し込んでいる。ペディキュアを施したのは蒼子だ。不本意ながら、かがむとつらいとせがまれたので。 「今日はよろしくお願いします」  ヒナちゃんは礼儀正しく深々と頭を下げた。 「来たかったので助かりました。ありがとうございます」 「いいのいいの。情けは人のためならずだよ」  バナミさんはわけのわからないことを言い、受付に向かってさっそうと歩きだした。蒼子は慌てて駆け寄り、支えるためにバナミさんの腕を掴んで小声で尋ねた。 「一人で歩けます? 肩とか貸したほうがいいですか」 「やだ、全然大丈夫だよ」  バナミさんは答えつつ、蒼子の腕を自分の腕とぎゅっとからめた。察してもう片方の腕をからめたヒナちゃんと三人、おしくらまんじゅうをしているみたいにぎこちなく歩きながら、共栄に足を踏み入れた。 「うわあ、素敵だねえ。校舎がレンガ造りだよ」  門からのびる並木を抜けると、視界が急に開けた。東京駅を小さくしたようなレンガ造りの建物がどんと構えるさまは壮観だ。ちらほらと姿の見える在校生も大人っぽく、なんとなく上品で優雅に見える。 「バナミさん、あんまり大声出さないで。始まる前から体力使い果たさないでよ」  蒼子は自分もまた目を奪われていたことをごまかすように注意した。バナミさんははーいと生返事をして、それでも眩しそうに目を細めながらきょろきょろと辺りを見回している。  受付はつつがなくすんだ。親子でないことを見咎められることもなく、蒼子とヒナちゃんはそれぞれに受付簿に記入して資料の紙袋を渡された。バナミさんまで「あ、あたしにも一部ください」と頼んで紙袋をもらっていたのを見たときには「遊園地じゃないっつの」と小さく毒づきヒナちゃんにたしなめられたけれど、まあ、入ってしまえばこちらのものだ。  紙袋の中に入っていたプリントによると、まず講堂で三十分程度の入試関係の説明会があり、学校紹介の動画を見て、その後メインイベントである生徒会によるガイドツアーが行われる。プログラムはこのツアーで終了だが、希望するならその後も残って自由に質問したり部活を見学したりして構わないということだった。帰りには受付で入構証を返すのを忘れないようにとだけ強めにアナウンスされた。 「講堂はあっちだって。あ、すごい、図書館は別棟になってるんだ」  ヒナちゃんも明るい顔で声を弾ませた。来られてよかった、と蒼子は心底思った。ここを受けるのは自分のほうなのに、ヒナちゃんを喜ばせることができたことのほうがずっと嬉しかった。今日にかぎってはバナミさんに感謝だ。 「あ、ねえ、あれカフェテリアだって。学校にそんなのがあるんだあ」 「本当だ。うわあ、テラス席もありますよ。お昼あそこで食べるのかな」  はしゃぐ二人を引きずるようにしながら蒼子はなんとか講堂へと足を向けた。  説明会のあいだ、なんだか不思議な気持ちだった。高校には行くものだ。だから比較的自分に都合のよさそうなここを受けることになんの異議もなかったし、関心だって全然なかった。ヒナちゃんに誘われなければ今日だって来なかった。こうして説明を聞いている今でさえ、よさそうだとは思う一方、過度に期待しないよう気をつけている自分がいる。だって中学だってそうだった。外からはどんなによさそうに見えたって入ってみたら地獄かもしれないのだ。とにかく三年間在籍できて卒業できさえすればどこだっていい。建物が素敵じゃなくても、制服がおしゃれでなくても、友達がひとりもいなくても――。  それなのに、「ね、ここ、いいとこだね」と、あのヒナちゃんが目をきらきらさせるのだ。「カリキュラムも行き届いてるし、進学対策もちゃんとしてる。単位制だから先輩後輩も厳しくないみたいだし、なんかみんな楽しそうじゃない?」 「ぜったい楽しいわよ、見て、部活もこんなにたくさんあるし、掛け持ちもできるんだって。入っても入らなくてもいいっていうのも気楽でいいよねえ」  バナミさんも真剣な様子で説明を聞き、頬を紅潮させてヒナちゃんと話し込んでいる。自分の息子は清松に入れると豪語しているくせに、この入れ込みようはいったいなんだ。まるで自分が入学するみたいな調子で部活動を真剣に吟味したりして。  蒼子は二人を見ているうちに、ふっと心の中にあたたかいものが灯るのを感じた。それはおそらくこの学校への期待であり、もしかして期待してもいいのかもしれないという希望のようなものであり、しかしもしかしたら単に二人を楽しませることに貢献できたという素朴な喜びに過ぎなかったのかもしれない。  紹介動画の上映のために光を落とされていた座席がぱっと明るくなって、みんな夢から覚めたような顔でのろのろと立ち上がり始めた。生徒会長だというてきぱきした男の人が「それではこれから校内をご案内します」と声を張り上げる。見るからに広い校舎だ。休んでいてもらおうと思ったら、バナミさんは参加者の列にさっさと紛れ込んでいた。 「ちょっと、大丈夫なのバナミさん」 「大丈夫大丈夫。せっかく来たんだから、中、見たいじゃない」  バナミさんは力強くうなずいた。ふらついてもいないし目もぼうっとしていない。熱もなさそうだ。なんだか今日は本当に元気そうに見える。しかたない。蒼子はヒナちゃんとうなずきあい、左右からがっしりとバナミさんの腕をつかんで一緒に進むことにした。重くて熱くて耳元でしゃべられるとうるささにうんざりする。でも気づけばこうやってくっついていてもそれほどいやではなくなっていた。べつにバナミさんが好きになったわけではなくて、ただ慣れてしまっただけだけれど。    講堂から旧棟、教室、音楽室に体育館。あずまやのある中庭の庭園、図書館から時計塔、最新式の設備が整っている新棟。渡り廊下から弓道場、武道場、トラックのあるグラウンド。部室棟の裏に回って飛び込み台のある屋内プール、サッカーコートにテニスコート、厩舎に馬場に園芸部の菜園まで。  蒼子もまたこの学校の環境の豊かさに圧倒され、いつのまにか二人と同じようにきゃあきゃあと興奮しながら見て回っていた。  ぐるりと回って講堂に戻ってきた頃にはさすがにバナミさんもギブアップし、紙袋に入っていたロゴ入りのうちわでしきりに顔を扇ぎながら「あとは二人で好きなように見学してきなよ」と勧めた。「悔いが残らないように見ておいで。あたしはカフェテリアで休憩してるから、遠慮しないでゆっくりしてきて」 「あ、うん。ヒナちゃん、馬術部行く?」 「あたし、いいかなあ。さっき馬場とか見せてもらえたし……。蒼子は?」 「なんか今日はもう十分って感じ。それより資料にあった入試対策のページをちゃんと読みたいかも」  蒼子はそわそわと答えた。実際来てみると思ったよりだいぶ魅力的な学校だった。自分の成績なら受かるだろうと高をくくっていたけれど、果たして本当に大丈夫だろうかとにわかに心配になったのだ。さっきの説明会で先生がこの学校は英語を重視すると明言していた。蒼子は英語が弱い。きちんと対策しないとやばいかもしれない。  バナミさんはちょっと首を傾げたけれど、「それならカフェテリアでお茶してから帰ろうか」と二人を誘ってアイスティーをおごってくれたのだった。
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