0人が本棚に入れています
本棚に追加
いつかの夢
【西暦 二一三四年(脱出歴 八四年)】
【金星、イシュタル大陸南部上空】
久し振りに、長い夢を見ていた。
子供の頃に一度だけ、アルプスの麓に行った時の思い出だ。
何万年もかけて氷河が削り取っただろう、どこまでも大きな氷食谷の丸みに沿って、遅い春の山脈に鮮やかな緑の絨毯が吹き出している。遠くマッターホルンやモンブランまで続く峰々が、青空をぎざぎざと切り取る下で、萌え出した草原はなだらかに起伏を包みながら、谷向こうの山の岩壁まで、のっぺりと半円の谷一面を覆い尽くしていた。野原はゆっくりと空を含んで、離れたところほど蒼く霞んでいく。
小さな足で、俺は芝生を駆け降りていく。誕生日に爺さんから貰ったプレゼントの、模型飛行機を飛ばすためだ。
一歩ずつ、足を前に回すごとに、跳べる距離は長くなって。甘い薫りを含んだ涼やかな風の中を、俺と模型飛行機はぐんぐん加速して突っ切っていく。
それっ、と左手で前に放り投げると、模型飛行機は嬉しそうに空中を滑り出し、しなやかな軌道で太陽の方へと揚がっていった。
突然足がもつれて、俺は一度大きく転んだ。柔らかな草の感触が背中を転がっていく。地面と空とが何度かひっくり返って、やっと前転が止まったかと思うと、気付けば俺は芝生の上で、大の字になって空を仰いでいた。
模型飛行機はすっかり天高く揚がって、ゆったり輪を描きながら青空を飛び回っている。
それだけで、俺は満足だった。
思わず飛び起きて、今度はまっすぐ谷の方を眺めた。この草原を全速力で駆け降りていけば、半円の谷のカタパルトから目の前の尖峰を飛び出して、何処までも高く、高く翔んでいける気がしてならなかった。
──今なら、本当に行けるかもしれない。
知らないうちに身体は走り出す。このまま──このまま、何もかもを追い越してやるんだ。
不思議と足は何処までも速く回っていく。遠く待っているあの蒼い空へ向かうために、俺は風を追い越して、谷底まで一直線で駆けていく。
そのうち視界は、煌めく草の葉の光が描いた輝線でいっぱいになった。もっと、もっと速く!
谷底を追い越して、上昇に転じる。力一杯加速していけば、芝生の終わりから山の岩壁までを登りきるのも一瞬だった。
そして俺は、空へと落ちていく。
いつの間にか無音になった世界。蒼さを増して深みへと続くこの空間に、俺は何処までも──
最初のコメントを投稿しよう!