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11 露見
スミのいなくなった大学生活は、何が足りないのかははっきりわからなかったけれど、どうしても何かが微妙に足りなくて、それでもいつかきっと、という気持ちだけを頼りにしっかり前を向いて進んでいかなくては、とみんなで頑張っていた。
学校内が年度末の、4年生は特に卒業式直前のそわそわとした空気に染まってきて、スミが出るはずだった卒業コンサートの準備もだいぶ佳境に入ったと真奈香が教えてくれた。
スミが退学してからの真奈香の落ち込みようはそれはそれは凄まじく、眞がいてくれなければ真奈香も一緒に学校に来なくなっていたかも、というほどだった。それでも眞が説得して、なんとか卒業まで走りきる覚悟を決めたようだった。
「今真奈香が学校やめてスミが喜ぶと思うか? これ以上スミに責任感じるようなこと押し付けるなよ」
そういう眞も落ち込んでいる時期はあったけれど、真奈香がそんなだったので自分がしっかりしなくてはと思ったのか、すぐに通常運転に戻った。
ジュンはあれから、前にも増して友達と会ったり喋ったりしているところを見なくなったけれど、だからと言って落ち込んだりしんどそうにしたりしている様子はなくて、彼の中でも色々なことを先を見据えて考え直して頑張っているように見えた。
そんな友達の様子をそばで見つつ、自分も当然一緒に頑張っていくつもりだった。そのための具体的な行動も計画をたてつつ、少しずつでも進んでいくつもりだった。
それなのに、ある日、僕の担当をしてくれている教授からの一言で、全てが止まってしまった。
卒業式の後の謝恩会の準備をするため役割分担を決めたりお店の予約をしたりの打ち合わせをしていた教室に、僕の担当教授がやってきた。そして、耳を疑う名前を口にした。
「隈元くん、きみは辻本浩司さんの息子さんだったんだなぁ!」
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。聞き間違いかと思った。周囲の学生の数人が、ザワッとした後ヒソヒソと小声で話していた。心臓がバクバクと鳴って、手のひらにじっとりと冷たい汗をかく。肯定すべきか否定した方がいいかの判断もまったくつかなかった。
「すごいなぁ、藍田玉を生ず、だなぁ」
ラテン曲!? 何だ、何を言っているのか全くわからない!
「あの、どこからそんな話が……」
焦る気持ちをひた隠しにしながらできるだけ冷静に訊ねると、教授は興奮した様子でネタの出所を教えてくれた。
「去年出たコンクールのサイトでねぇ、掲示板に書きこみがあったんだって。見つけた学生が教えてくれたよ」
辻本浩司は、僕の実父だ。小3の時に両親が離婚するまでは確かに僕の父だった。日本で音楽に携わっていれば、その名前を知っていても不思議ではない。父だった時にはあまり聞いたことがないけれど、大きくなってから母に聞いたりネットで調べたりして彼の仕事を知った。映画やドラマ、舞台やアニメなどに使われる曲をたくさん作っていて、ヒット作にも何本も関わっている。でも、彼と僕の関係を家族以外で知っている人はいないはず。眞にも、実父が作曲家だったことは話したけれどそれが誰かは伝えていない。
トイレに行くフリをして教室を抜け出す。とにかく事実を確かめなければ。
僕はひとまず母に連絡をした。
『もしもし、どうしたの』
めったに電話なんてしないので、さすがに驚かれている。
「お母さんさ、去年のコンクールの時、僕の……本当のお父さんに、連絡とかした?」
母に向かって「本当の」と言ったのが良かったか、わからない。でも今はそんなことに構っていられないほど緊急事態なのだ。
『やだ、なぁに、急にそんな話』
「いや、大事なことだから教えて」
『そんなの、辻本に連絡なんてするわけないでしょ。もう連絡先も知らないわ。あんた小さかったから覚えてないかも知れないけど、私、辻本とは円満には別れてないから、離婚後は養育費のやりとり以外は一切接触ないの。こちらからなんてお願いされても連絡なんてとらないわよ』
初めて聞く母の父に対するリアルな気持ち。ふたりの実子としてはどうにも複雑な思いだ。
『どうしたの、何かあったの?』
「いや、僕もまだよくわからなくて情報集めてる段階なんだけどさ」
僕は簡潔に現状を説明した。
『そうねぇ、同じ業界だから、たまたま偶然コンクールの情報の中に朝陽の名前を見つけたのか……あ、でもあの人、今のあんたのフルネームは知らないはずだけど』
確かに僕は、辻本の姓から母の旧姓に戻って、そこから最初の継父の名字になって、また母の旧姓、そして今の継父の隈元という名字になっているので、名前だけ見ただけなら僕だと気づく可能性は低そうだけれど。
『あ、あれかしら、もしかして、ピアノの吉井先生なら今でも辻本と繋がってる可能性あるかしら』
言われてみれば、元々父の紹介で習い始めた先生で、高校いっぱいで定期的なレッスンはやめてしまったけれど、音大に入ってからも課題の相談に行ったり近況報告をしたりはしていた。もちろん、コンクールの話もしてある。僕と父を繋ぐ人物としては、最有力候補かも知れない。
『でもあんたが辻本の息子だってバレて、何か悪いことでもあるの?』
「それはまだわかんない。それを知りたくて情報集めてる」
『そう……。ごめんね、色々と面倒かけて』
「いや、うん。いいよ。大丈夫だよ」
あまりにあっさりと謝罪の言葉を口にした母と、それを特別なことでもないように受け入れた自分に、少し驚いた。
「ありがと。もし何かわかったことあったらラインでいいから教えて」
『わかった。気をつけてね』
母の口から僕を気遣う普通の言葉を聞いて、僕はなんだか母が遠くなったような、知らない他人になったような、虚しいような寂しいような感じがした。それと同時に、母は僕の母であるより前にひとりの人間なのだな、と気づいた。当たり前のことなのに、今まで気づけなかったこと。母には母の人生があるということ。それに気づいた僕はきっと、少しは大人になったのだと思う。
母との電話では、家族から実父には情報は流れていない、ということしかわからなかった。もっと情報が欲しい。教室に戻らなきゃいけないことは分かっていたけれど、どうしてもそんな気にはなれない。僕は、さっき教授が言っていた去年のコンクールの掲示板にアクセスしてみた。そこで僕は、一番恐れていた現実を目の当たりにすることになる。
SNSの書き込みなんてろくなものではない、ということは、今まで生きてきて知った情報や経験から嫌というほどわかっている。それでも、不特定多数の人が自由に出入りできる場で書かれていることがどのくらい世の中に影響力があるのかくらい、簡単に想像できる。
そこには、恐ろしいまでの無責任な情報が羅列してあった。
『去年のコンクールの室内楽作曲科部門の入賞者、1位の高松歩は有名指揮者の高松忍の息子』
『2位の庄司えりかは有名作曲家の里中伸太郎の門下生』
『そして、3位の隈元朝陽は有名作曲家の辻本浩司の息子』
その情報の後には個人の書き込みが大量に続いていて、世間一般の受け取り方は想定内というか、もし僕がそちら側に立っていたとしても同じような反応をするだろう。
『やっぱりバックがついてる人はいいよな』
『二世最強!』
『弟子もな』
『3位は名字ちがくね?』
『芸名かw』
『親離婚かwww』
『隠し子かwwwww』
『この順位って親とか師匠のランキング通りってこと?』
『別次元のランキングで草』
『え、待って、それって出来レースってこと?』
『あんなのお偉いサンが黙ってても審査員は気を使って点数つけるだろ』
『忖度』
『それな!!』
『www』
『でもさーそんなんじゃ一般人が出たって敵わねーわ』
『最初からムリゲー』
『うちもパッパがゆーめーじんならなー』
『もういっかい生まれ直せw』
『親ガチャw』
『無理wwwwwwww』
こんなことになっているなんて全然知らなかった。どこまで広まっているのだろう。こんなの、公式発表でもないただの掲示板の書き込みだ。正しい情報を求める人が見るものでもない。でも、誰でもいつでも見れるということは、真偽はともかく情報は確実に広まりやすいということだ。そして、少なくとも僕自身に関する情報は間違っていない。
教授は、これを見た学生から教わったと言っていた。あのコンクールに関わった人なら見ている可能性がある。眞は見ただろうか。スミは見ただろうか。そして、坂井さんは……。
真実を知りたい。真実だけでいい。それも、知りたいのは自分のことだけだ。他の入賞者のことなんてどうでもいい。コンクールの主催者に連絡をとってみるか? でも、なんて訊けばいい? 僕の受賞は父の手回しがあったからですか、とでも訊けばいいのか?
噂の出どころなんてもうどうでもいい。ただ、コンクールの結果がまるで出来レースだったかのように語られるのは不本意だ。ズルい、きたない、コネだ裏口だと言われて、何のためにコンクールに出たのかわからなくなる。父の記憶なんてほとんどない。元々家にはめったに帰って来なかったし、小3の時に離婚して、顔もまともに覚えていない。それなのにどうして。なぜ。
誰かに相談したい。誰か、お互いにこれを話してもダメージの少ない、誰か。
スミは無理だし、真奈香もスミのことで手一杯だろう。ジュンは、あいつも家庭の事情が重すぎて僕の親のことなんて相談しづらい。坂井さんには、このことは知られたくない。まだ掲示板の情報が伝わっていない前提で考えて、僕の父のことなんて絶対に知られたくない。まして、コネで賞を獲ったかも知れないなんてことは、死んでも知られたくない。じゃあ、眞なら。
同じように講義がほぼなくなっている眞に電話して、話したいことがあると言って、次の日に会うアポをとった。サークルの卒コン直前でそんなに暇ではないことは承知していたけれど、それでもどうしても話を聞いて欲しかった。
「ごめん、卒コン近いのに呼び出して」
「いいよ。平気」
大学に近い大きな駅まで出てきてもらって、駅前のカフェに入った。僕が呼び出したからと2人分のドリンクを買って、空いている席につく。
話したいことも訊きたいこともたくさんある。それを、昨日から前もって色々考えてきたはずだ。でもいざ話そうとすると、何も頭に浮かんで来ない。
「どうした? 大丈夫か?」
眞の方からそうやって話を聞き出そうとしてくれた。本当に甘えているなぁ、と思う。友達以上、まるで兄のように慕っているけれど、眞はいつもそれを受け入れてくれる。
「あのさ。これ、まず見てくれる?」
そう言って差し出したスマホを、眞は黙って読んだ。
僕はただじっと眞が例の掲示板の書き込みを読み終わるのを待つ。どこまで読んでくれるだろう。最初の部分だけか、その後のくだらない書き込みもか。
「ふーん。これ、事実?」
それなりに長い時間かけて画面をスクロールして見ていたので、一通り目を通してくれたのだろう。
「……少なくとも、僕の実の父親がその人ってことは、本当」
「そうか」
眞のことだから、父の名前は知っているだろう。そして、眞のことだからそれを知って大騒ぎすることはないともわかっていた。
「でも、それ以外の……コンクールの結果との関係は、全くわかんない」
「……そうか」
「誰がどうやって調べたかとか、わかんなくてさ。お母さんに聞いてみたんだけど、今はその人の連絡先も知らないらしくて、当然コンクールのことも一切何も伝えてないって」
しばらく黙って何かを考えていた眞が、僕の方をまっすぐに見て口を開いた。
「朝陽は、どうしたいの?」
「え……?」
「例えば、コンクールの審査の本当のことが知りたいのか、父親に連絡とりたいのか、これらのことをネット上から抹消したいのか、どうしたい?」
そうか。昨日からどうして僕の思考が立ち往生していたのか、それは、僕が具体的にどうしたいのかが自分でも分かっていなかったからか。
眞に指摘されて改めて考えてみたけれど、それでもわからない。
「どう、したいんだろう……」
僕がどうしたいか言わなければ、相談された眞も困るだろうとは思う。
「コンクールの結果の真実は知りたいよ。でも、父親に会いたいわけではない。この掲示板を消し去りたいけれど、それは現実的ではないと思う。あと……」
こうして眞に出てきてもらって、話を聞いてもらって、わざわざそんなことをしてもらわないと解決しなかった問題なのか、と自分に問う。それでも、どうしても話を聞いて欲しくて、それは他の人ではダメだった。
「坂井さんに、知られたくない……坂井さんたちはあのコンクールに関わってたし、もしかしたらもう楽団の誰かがこの書き込み見つけて坂井さんたちに知れ渡ってるかも知れないけど、そしたら……そしたら僕は、もうあの人たちには会えない……」
実は昨日、この事実がわかった後に坂井さんからラインのメッセージが来ていた。先日話していた、作曲家組合の人を紹介してもらえる件だった。近々アポを取れそうなので希望の日程の候補を、ということだったのだけど、僕はとりあえず当たり障りのない返事をして保留にさせてもらっていた。
「ここに書かれた噂が真実じゃなかったとしても、か?」
「真実じゃないことをはっきり証明できないなら、会えない」
今は坂井さんとは会いたくない。僕の知らないところで起きたこととは言え、コンクールの結果に裏があったのなら、僕は堂々と入賞者としてプロの坂井さんたちとは向き合えない。いや、そもそもネットの書き込みが事実だという証拠がないのだけど、でも事実だった場合を考えたら、怖くてもう会えない。
「コンクールの裏事情を知りたいなら、関係者に訊くのが一番手っ取り早いと思うんだけどな。それも、坂井さんくらい連絡取りやすい人がいるなら、坂井さんに訊くのが一番いいと思うけど」
「それは、無理」
眞は僕のスマホをテーブルにコトンと置くと、椅子の背もたれに寄りかかるようにして大きなため息をひとつついた。
「多分、眞が言ってることが正しい。それが一番いい方法だと僕も思う。でも、それはどうしてもできないよ」
僕はスマホを手に取ると、消えていた画面を再び表示させて、掲示板の書き込みをなんとなく眺めた。
言葉の威力はすごい。指一本で誰かが何の気なしに書き込んだそれが、その文字が持つ意味をそのまま強く読んだ人の頭に刻み込んでしまうのだ。それが事実でもそうでなくても。
「呼び出して、話聞かせて、提案までさせといて、それに従えないとか……ほんとごめん……」
「いいよ。そういうので迷ったから俺を呼んだんだろ」
お兄ちゃんだなぁ、と思う。やっぱり眞は兄のようだ。眞には実際に妹と弟がいるけれど、きっと僕のこともおまけの弟のように思ってくれているのだと思う。
「坂井さんは……あの人は僕の音楽を褒めてくれた。コンクールの曲を、良かったって言ってくれた。僕の音を気に入っているって言ってくれた」
気づいたら、話し始めていた。こんな話を眞が聞きたがっているかどうかはわからない。嫌ならスルーしてくれてもいいとも思った。ただ、僕がこうして思いを垂れ流すのを許してくれるのなら、今はこのまま話させてもらえたら嬉しい。
「もし本当にコンクールの結果に裏があれば、もしかしたら僕の父親の口利きがあったんだって疑うかも知れない。それどころか、コンクールに出した曲を僕じゃなく父親が書いたって疑うかも知れない。そんなことになったら、僕はこの業界では生きていけなくなる。絶対に知られたくないよ……絶対に……」
「朝陽さ、こないだ、坂井さんから仕事振られて、あの人の目の前で最初から最後までやって見せただろ。あれ見ててそんなこと疑うわけないと思うけどな」
そうだ。何度も見せているし聴かせている。僕の中で力を出し切ったコンクールも。レコーディングを見学させてもらった後にスタジオに篭って弾いた排泄行為のような即興も。先日の坂井さんから依頼された舞台の仕事も。そう言えば、まだわけがわからず教授の指示に流されるままに参加した1年の時のコンクールもだった。信じてもらえなくても、全部、僕の音だ。僕が作った。
「坂井さんを、信じられない?」
違う。逆だ。僕を信じてもらえないかも知れないことが、怖くて仕方ないのだ。その気持ちを伝えたくて首を左右にブンブン振る僕を眞はじっと見て、ふわりと笑った。
「坂井さんは大丈夫だよ。多分。そんな気がする」
いつもきっちりと結論を出したがる眞にしては珍しく、曖昧で感覚的な回答をした。
坂井さんの何がどう大丈夫なのか説明してもらいたかったのだけど、眞の表情があまりにさっぱりしていて、これ以上突っ込むのはよくない気がした。
「眞は、さ。坂井さんのこと、買ってるよね」
「だってあの人、まともじゃん」
何を以ってしてまともだと判断しているのかわからないけれど、それはそれぞれの主観だろうし、眞の価値観は僕は合うと思うので基本的には受け入れたい。
「でもそれ言ったら朝陽だって相当だよな」
「え? なにが?」
「何が、って、自分で気づいてないの?」
「……気づく、って、何に?」
何のことか全くわからない僕を見て、眞は呆れたような顔をした。
「まぁ、予想はしてたけど」
眞の顔が、呆れ顔から優しい兄の顔になる。
「朝陽が他人からの評価にこんなにビビッてんの、俺初めて見たぞ」
本当は自分でも気づいている。こんなふうに誰かに嫌われたくないと思ったことは今までなかった。相手がプロだから? 僕の音を好きだと言ってくれたから? まともな人だから? 坂井さん、だから……?
「今回の件に関しては、俺は、坂井さんに相談してみるのが一番良いと思う。それ以外に何か言える事ないけど、あとは朝陽が自分で決めるべきだろ。話だけならいくらでも聞くし、何かあったらいつでも連絡してきなよ」
「うん。ありがとう」
眞がスマホの待機画面を確認しながら言った。
「俺、今日2時から卒コンの練習あるから、これから軽く何か食べてから学校行くけど、朝陽も食べる?」
「あ、えっと、うん、食べようかな」
食欲はあまりない。頭の中がパンパンで、何かを物理的に摂取する気持ちになれない。でも、知った顔を前にしてもう少しだけ無駄話をしていたかった。
ちゃんと考えなくてはいけないことはわかっている。でも、今ひとりになったら考えが暴走するか煮詰まって破綻するか、とにかくロクなことにならないような気がした。多分、眞はそれに気づいている。だからきっと僕に猶予をくれた。どうでもいいことを喋りながら頭を整理するどうでもいい時間が必要だとわかってくれている。
しっかりとした昼食を食べる眞の前で、僕は申し訳程度の小さなパニーニを少しずつ食べて時間を過ごした。スミや真奈香たちの近況も聞いたし、卒コンの話も聞いた。でも、コンクールの話はしなかった。そういうのも全て眞の気遣いで、そういうところは少し坂井さんと似ているな、と思った。
大人っぽい人ばかりが周囲にいて、僕はいつも自分のガキっぽさを思い知らされる。甘っちょろいのは自覚している。そして、そんな僕に付き合ってくれるこの人たちの存在を心底ありがたく思う。
「もし、コンクールのこと坂井さんに訊きたいけどどうしても訊けない、って言うんなら、俺が訊いてみても良いけど、どうする?」
別れ際、眞が僕に訊ねた。
内情は、知りたい。勿論。でも、やっぱり坂井さんに色々と知られてしまうことについては、まだ僕の中で結論が出ていない。
「うんん、いい。まだどうしようか決まってないし、もし訊きたくなったら自分で訊く」
「そうか。そうだな」
いつでも僕のワガママをあっさり受け入れてくれる眞は、やっぱり大人っぽく見えた。もし僕が女子だったら、眞を真奈香と取り合っていたりするだろうか。そんなことを考えてから、あり得ない仮定に思わず笑ってしまって、一瞬心が軽くなる。
僕の自慢の友達は、いつもと変わらない様子で軽く手を振って去って行った。
それから、坂井さんからは何度か連絡が来た。全てラインのメッセージで、現場見学か作曲家組合の件だった。
最初のうちは適当な理由を付けて断りの返事を出していたのだけど、そのうち申し訳ない気持ちが優ってしまって、既読を付けずにスルーしてしまうようになった。そっちの方が失礼だろ、と思わなくもなかったけれど、嘘の理由を捏造することに耐えられなくなってきていた。
どんどん増えていくアイコンのバッジが重い。そして、未読スルーが両手の指で数えきれなくなった頃、電話がきた。夜の自宅だったので、風呂に入っていた、とか、もう寝ていた、とか、そういう言い訳を考えながら居留守を使った。その日は立て続けに2回、しばらくしてもう1回かかってきたけれど、出なかったらそれで着信はなくなった。
次の日の昼ごろ、1度着信があった。学校にいたので、気づかないふりをした。そうしたら留守電が残されていた。
『話したいことがあります。連絡ください』
話したいこと、なんて、どうしてそんな回りくどい言い方をするのだろう。現場見学でも組合の人に会うのでも、それならそうとはっきり言えばいい。それを明記しないということは、他に何か話したいネタがあるということか。
他に、何か。確かめたくない。関わりたくない。もう、逃げ出したい。
坂井さんの留守電を聞いた後、そのままボーッとスマホのディスプレイを眺めていたら、手の中でスマホのバイブがブルッと震えて驚いた。眞からのラインメッセージだった。
『今、坂井さんから連絡あった』
『朝陽がどうしてるか、元気なのか訊かれた』
『一応元気にはしてる、って答えておいたけど』
その後色々と追求が続くのかと思って待っていたけれど、眞からはそれで終わりだった。念のためもう少し待ってみたけれど本当に何も来ないので、返信した。
『ありがとう』
『ちゃんと連絡するよ』
元気なんて言ってしまったら僕がわざと連絡をスルーしていることがバレる。いっそ、体調を崩していて、くらい言ってくれれば放っといてもらえたかも知れないのに。
そんなクズ思考が浮かんで、自己嫌悪に陥る。最悪だ。甘え過ぎにも程がある。眞は何も悪くないのに。
明らかに余計な気を回させている。眞にも、坂井さんにも。本当になんとかしなくては。
次こそは、この次の返信こそは、と何度も思いつつ、それからもいくつかメッセージをスルーした。何かあったのか、とか、大丈夫か、とか、そういういつもの気遣いの言葉が飛んでくる。さすが楽団運営の人、相手の様子を伺うのは上手だ。いつも気難しい楽団員の世話をしているのだ、僕のような卑屈なひねくれ者の扱いなんて慣れっこだろう。
もうこのまま電源を切ってしまおうかな、と思ってディスプレイに触れようとしたら、着信したメッセージがポップアップで表示された。そこに書かれた文字列を見て、息が止まりそうになる。
『会いたいです』
送る相手を、間違えてはいないだろうか。
思わず瞬間的にそのポップアップに触れてしまって、すぐに既読を付けてしまった。しくじった。慌ててラインを閉じたけれど、もう遅い。もし誤爆だったとして、こんなにすぐに既読を付けてしまったことがバレたら、何て言い訳をしよう。
そう思って悶々としていたら、またすぐにメッセージが届いた。
『会って話がしたい』
2回続けて誤爆する可能性がどれくらいあるか考えて、ほとんどないな、と思った時には、最新のメッセージを開けていた。
もう逃げられない。少なくとも、黙ったままは。距離を取るなら、せめて何か言い訳を……理由をちゃんと伝えて、それからだ。
時計を見ると、もう19時近い。まだ明るいうちに帰宅したのに、いつのまにかこんな時間になっていた。
どうして会いたいのだろう。何を話したいのだろう。ひとりで考えていたって答えがわかるはずがない。話さなければ。坂井さんに連絡をしなくては。
スマホのロックを解除して、メッセージにしようか通話にしようか悩む。坂井さんのトークルームを開いていたら、またメッセージが入ってトークが増えた。
『朝陽』
『レスして』
今、同じ画面をリアルタイムで見ているのだな、と思うと、なんとなく不思議な感じがする。
『はい』
しまった。もし自分がもらったら「なんじゃそりゃー!」と叫びたくなるような返事を書いてしまった。
『良かった』
『ありがとう』
テンポ良く、トークが増えていく。
『すみません』
『会って話せる?』
『いつですか』
『できれば今から』
今。もう19時を過ぎた。今から?
『今、家?』
『はい』
『明日学校ある?』
『必須のものはないです』
『今からそっち行ってもいい?』
『話ってなんですか』
『それは会ってから話すよ』
『会って話したい』
『行ってもいい?』
『今日が無理なら明日でも』
返事をしないと、坂井さんからのメッセージだけがどんどん増えていく。
相手の顔色が見えない会話は、やっぱり少し怖い。坂井さんはどんな顔をして文字を打っているのだろう。どんな気持ちで文章を考えているのだろう。怒ったり困ったりしていないだろうか。そして、僕がどんな気持ちでいるか想像ついているだろうか。
『今日でいいです』
まだ頭の中が何も整理できていないのに、僕はそう返信した。このままの状態で一晩過ごすのが無理だと思ったからだ。胃のあたりがムカムカして、頭も締め付けられるように痛む。
『わかった』
『今から向かうけど、家の前に車つけても平気?』
あのうるさい車が夜間に家の前に来ても大丈夫か、という意味だろうか。夜間と言っても夜中なわけでもないし、近所に特に口うるさい人がいるわけでもない。僕は大丈夫だと伝えた。
『ありがとう』
『少し待ってて』
ありがとうなんて言われるようなことはしていないのに、と僕は卑屈なことを考える。そうでもしないと何だかくすぐったくてどうしようもなかった。
それから、坂井さんが来るまでの間、僕はただベッドに横になって過ごそうとした。あえて、何もしないように努めた。何か考え始めたらどんどんおかしなことになりそうなことはわかっていたし、何かしていようと思っても集中できる気がしなかったからだ。
それでも全く何も考えないようになんてできるはずはなくて、それなりに、頭に色々な疑問や不安は浮かぶ。
坂井さんが話したいことって何だろう。当然それが一番気になる。そんなに急に、しかも直接会って話したいなんて。僕がちゃんと対応できる話題だろうか。理解して、納得して、ちゃんと答えられる話だろうか。
気づいたら最初に避けたいと思っていたおかしな状態に陥っていて、慌てて身体を起こして深呼吸をした。
何もしないのはやっぱり無理だ。
とりあえず、出掛ける支度をしよう。家の前で少し話せば済むのか、どこかファミレスやカフェに行くことになるのか、どうなるのか全くわからなかったけれど、家から出ることは確実なので、その準備をしよう。そうしてバタバタ動き回っているうちに、あのうるさい車の音が聞こえて来た。本当にわかりやすくて助かる。
『今、家の前に着いた』
そんなメッセージくれなくてもわかるよ、とひとりでツッコミを入れて、アホらしくて笑ってしまった。
『今行きます』
コートにスマホに財布。マフラーはどうしようかな、と考えて、もし立ち話が長引いたら寒いかもな、と思ってマフラーも持った。
もう何を話すのかなんて予想するのはやめた。そんなことしても仕方ない。ただ、ちゃんと向き合おうと覚悟を決める。逃げないで、ごまかさないで、ちゃんと話そう。
玄関を出ようとしたら、リビングから日向が出て来た。
「お兄ちゃん、でかけるの?」
いつの間にか日向が帰って来ていたことに気づいていなかった。
「あぁ、うん。ちょっと人と会うから」
「ふーん」
「もうすぐお母さん帰ってくるし、大丈夫だろ?」
「へーき。行ってらっしゃーい」
今年大学1年になった日向は、過去の嫌な事件をしっかり乗り越えて楽しく学生生活を送っているようだった。学校に行けなくなっていた時期が義務教育の中学時代だけで済んでよかったな、と思う。今はカウンセリングももう行っていないし、友達もできてバイトもして、普通に大学生を謳歌しているように見える。
僕が受けた被害と日向のそれとは少し種類が違うけれど、日向を見ていると、いつまでもトラウマを引きずってウジウジしているのがカッコ悪いな、と思う。女子高から女子大に進んだことを考えれば、日向の中にあの時の恐怖が全く残っていないとは思わないけれど、それでも傍から見ても楽しそうに大学生をやっている姿を見れば、自分ももう少し頑張ってみてもいいのかも知れないと思う。
玄関を出ると、車の外に出てこちらを見ている坂井さんの姿があった。僕を見て、片手を上げて笑顔を見せた。
何だろう、何だかすごく、ホッとした。安心、というか、怒ったりしていなかったとわかって、すごくホッとした。
「寒いのに。車の中で待ってればいいのに」
「いや、大丈夫だよ」
そう言いつつ、少し鼻の頭が赤くなっている。
「なかなか連絡取れなかったから」
「……すみません」
「あ、そういうつもりじゃなくて」
「……」
「……」
「……」
いまいち会話が続かない。
「朝陽、ちゃんと食事してるか?」
「え?」
「顔色、あんまり良くないな」
見透かされている。また、何でもバレている。
「そう、かな……」
「夕飯は?」
「えと……まだ、です」
まだ、というか、食欲がないから食べなかったし、今からも食べるつもりはなかった。
坂井さんがスマホを開く。
「7時半、過ぎ、か……よし、ちょっと出かけよう」
「え、どこ?」
「俺も夕飯まだだから、付き合って」
食事に行くという選択肢は考えてなかった。胃の調子があまり良くなくて食欲がないのに食事になんて付き合って大丈夫かと心配になる。
返事もしないうちに車に押し込まれて、僕は観念してシートベルトを締めた。いつものようにアホみたいにうるさいエンジン音を響かせて、ボロ車は住宅街を走り抜けて行く。
どこへ行くのだろう。僕は、どこへ向かうのだろう。
こっそり、運転中で前を見据えている坂井さんの顔を盗み見た。この人は僕を連れて、どこへ行こうとしているのだろう。
訊けば済む話だ。どこ行くの?とひと言訊けばいい。でも、それを訊かないで黙って連れて行かれるのも今はアリかもな、と思う。
坂井さんといると、今まで僕の中にはあり得なかった選択肢がいつの間にか増えていて、しかもそれを選んでしまうことが多々ある。もちろん悩むし、迷う。それでも最終的にはそれを選んでいて、僕は色々なことを諦めるのだ。
坂井さん。
僕の中で少しずつ大きくなっていくあなたの存在感が怖いです。
行き先も、何が待っているのかも、確認するのが怖いと思った僕は、景色を見なくて済むようにそっと目を瞑った。
少しうとうとしていたのかも知れない。名前を呼ばれて目を開けると、車はビルとビルの狭間にある狭いコインパーキングに停められていた。
「動ける?」
「うん」
車から降りて、坂井さんの後をついて行く。
知らない街の、知らない通り。一方通行の通りの両脇に中低層ビルやマンションが立ち並んでいる。1、2分ほど歩くと、坂井さんはビルとビルの間の車が通れないほど狭い道へ曲がった。そして通りに面した建物のすぐ裏にある、暖簾がかけられた食事処の引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ。あらぁ、圭介くん!」
「どうも。ご無沙汰です」
どうやら馴染みの店らしい。店内は時間的にも混雑のピークは過ぎているようで、まもなく食事が終わりそうな客が数人いるだけだった。
「まだいいですか?」
「大丈夫よ、どうぞ」
坂井さんが4人がけのテーブル席を選んで、その奥の席に座った。僕は上着を脱いでから、なんとなく坂井さんの対面に座る。
「しばらくねぇ、元気にしてたの?」
お茶とお手拭きを持ってきてくれたおかみさんが坂井さんに話しかけた。
「はい。元気にやってますよ」
「あらそう、良かった! こちらは楽団の方?」
「いえ、彼は友達で、作曲家なんですよ」
今までされたことのない紹介の仕方で、どう反応していいかわからなかった。作曲家だなんて、そんな、まともに仕事したこともないのに。
「あらあら、そうなの。ようこそ、いらっしゃい」
優しそうなおかみさんが、僕に向かってお辞儀までしてくれたので、あわてて僕も頭を下げた。
「朝陽、今日、昼何食べた?」
「え、あ、えっと、昼、は……あ、あの、食べて、ない……」
しまった。つい正直に白状してしまったけれど、また心配させてしまうだろうか。
「好き嫌いある?」
「あ、いや、特には」
「おかみさん、あのたまごおじやってできます?」
「待ってね、ちょっと見てくるから」
一度厨房に引っ込んだおかみさんが、カウンター越しに顔を出す。
「大丈夫、できるわよ」
「じゃあそれと、あと今日の定食ひとつお願いします」
「はーい、ちょっとお待ちくださいね」
展開が早くて流れについていけない。
「ごめん、勝手に決めて。空腹に急に色々入れたらしんどいかと思って。ここのおじや、裏メニューなんだけど、俺もさんざんお世話になったんだよ」
「……ありがとう」
今はこの返事で合っているだろうか。そんなこともいちいち考えないといけないほど、僕の今の会話力はおぼつかない感じになっていた。
「馴染みのお店なの?」
「そうだね、父の仕事場の近くだったから、よく連れられて来てたかな」
お父さんに連れられて、ということは、子どもの頃から来ていたということだろうか。裏メニューのおじやにさんざんお世話になったなんて、どういう事情があったのだろう。
訊きたいことがある。たくさん、ある。でも、色々ありすぎて、訊きたいこと以外にも山ほどありすぎて、何から口にすればいいかわからない。
「いつからちゃんと食べてない?」
急に質問されて、咄嗟に答えは出て来ない。ちゃんと食べてないということはちゃんと把握もできていないに決まっていて、いつからかなんてわかるわけがない。
「わかんない、けど、ちょっと……胃が痛くて」
「この店な、おかみさんと娘さんで切り盛りしてるんだけど、食材にすごく気を使ってて、化学調味料や添加物もほぼ使ってない優しい料理ばかりなんだよ。多分今、朝陽は弱ってるからな。身体に優しいものを少しだけ食べるのは、今の朝陽には一番必要なことだと思う」
「……うん」
あまり会話は進まない。多分、僕の反応が悪いからだ。頭もよく動かない。そうしているうちに、食事が運ばれてきた。
「はい、定食と。こちらはおじやね。熱いからね、気をつけてね」
目の前の湯気が上がる出来立ての料理を見ていたら、胃がぐるぐると動いて空腹感を自覚した。なんとなく食欲も湧いた気がする。
「いただきます」
「いただきます」
猫舌気味の僕は、スプーンで掬った一口分をあまり目立たないように少しだけ息を吹いて冷まして、慎重に口へ運んだ。
出汁の味が優しい、手作りの温かい食事。キャベツとネギと卵だけのシンプルなおじやは、食べることを重視できなくなっていた僕を優しく諭すように喉の奥にゆっくり落ちていった。
どのくらいまともな食事をしていなかったのだろう。
僕は無言で食べた。お腹が少しずつゆっくり満たされて、それと比例するようにカラカラだった心もじんわりと満たされていくと、こらえきれずに涙がこみ上げてきた。でも、食べ続けた。人前でなんか泣くもんか。そう思いながら、ただひたすら黙って食べた。
おかみさんは多分、さっきの僕たちの会話を聞いていて、全体の量を少なめに用意してくれたのだと思う。時間はそれなりにかかったけれど、ちゃんと食べ切れた。そして、完食してもお腹が苦しくなったりしていない。
空になった食器を見つめて、思う。どうしてこの人と食事をしたのだろう。どうしてついて来たのだろう。どうして呼び出しに応じたのだろう。どうしてこの人は僕を呼び出したのだろう。どうして。
下心があるのだろうか。いや、坂井さんはゲイではないと言っていた。それ以前にたとえ坂井さんがゲイだったとしても僕なんかが狙われる価値があるとも思えない。
では仕事のコマのひとつとして使えると思われたのか。一度仕事を受けたからと言って、僕なんかが重宝されるほど甘い世界でないのはわかっている。学生だから便利に利用されているだけ? それならもうすぐ学生ではなくなるけれど、そうしたら声はかからなくなる?
色々な疑問が頭の中を飛び交ったけれど、次第にどうでもよくなった。今はお腹が満たされて、何かに急かされたりすることもなくて、ここには不快な要素も何もない。こんなに穏やかな気持ちになったのは久しぶりだった。
「お皿、下げちゃうわね」
そう言って、おかみさんは新しいお茶を持ってきてくれた。
「これね、ルイボス茶っていうの。飲んだことある?」
「いえ……」
「ハーブティなんだけど、カフェイン入ってなくて赤ちゃんでも飲めるのよ。整腸作用もあってね、胃に優しいの」
おかみさんの手でコトリとテーブルに置かれたカップには、赤みがかった鮮やかで綺麗なお茶が揺れていた。
「ありがとうございます」
「味にほんの少しだけクセがあって苦手な人もいるから、お店では出せないんだけどね。我が家はいつもこれなのよ。もし苦手じゃなければ飲んでみて」
ハーブと聞いて独特の味を想像していたら、紅茶に似ていて飲みやすかった。そして、坂井さんの家でいただいたポットのお茶は、このルイボス茶を冷やしたものだったのかも知れないと思った。
お店で出さないものばかり用意していただいて、こういう対応は初めてだったので、ありがたいような申し訳ないような何とも言えない気持ちになる。それでも、触り心地の良いマグカップに入ったルイボス茶は美味しかった。
落ち着いた気分になって改めて、ここ最近の僕の憂鬱の原因を思い返す。
そうだ。あのコンクールの掲示板が全ての始まりだったのだ。やっぱり話さなければいけない気がした。でも、その話題を振るタイミングがわからない。
「ちゃんと食べないとさ、体だけじゃなく、頭も動かなくなるからな」
「……うん」
「頭が動かなきゃ、考えたいこともまともに考えられなくなる」
「……ん」
見透かされているな、と思う。もう毎度のことなので慣れた。
「少しは落ち着いた?」
「うん。だいぶ」
どうしてそこで坂井さんの方が満足げなのだろう、と不思議に思う。でも僕は彼のその気持ちの緩んだ隙に付け入ることにした。
「あの、えっと、話したいことって」
何の前触れもなく唐突に核心に触れると、坂井さんは一瞬だけ顔を強張らせて、すぐにいつもの表情に戻った。
「それは、朝陽の方にあるんじゃない?」
「……そう、かな。そうですね。そうかも」
やっぱりあのことを既に知っているのかも知れない。
「どうする? どこで話すのがいいかな」
「えっと、どこでも……」
僕が知っているところ、行けるところなんて、そんなに選択肢はない。静かなところ。人がいないところ。タイムリミットを気にしなくていいところ。寒くないところ。居心地がいいところ。安らげるところ。行きたい、ところ……。
「朝陽が話しやすいところでいいよ」
本当はもう、思いついている。全ての条件が揃っている場所。でも、図々しいと思われるのが嫌で言い出せない。
「俺の家、行く?」
やっぱり全てバレバレなのだ。この人には敵わない。坂井さんから言ってくれたから、と自分に言い訳をしてから、それを受け入れる。
「うん。お願いします」
「いいよ。俺が呼び出したんだし」
いつの間にか僕たち以外に客はいなくなっていた。
「おかみさん、ごちそうさまでした」
坂井さんが財布を取り出して言うのを見て、僕も慌てて財布を出す。でも当然のように支払いを拒否された。
「学生は黙って奢られとけ。残りあと少しだろ」
「……はい。ありがとう、ご……ありがとう」
手早く荷物をまとめて席を立った坂井さんの後を追う。
「いつもワガママ言ってすみません」
「あら、いいのよぅ、こんなことで良いんなら」
ワガママを言えて、それを容易に受け入れて、ありがとうと笑い合える関係が羨ましい。そのやり取りを見ていた僕に気づいたおかみさんが、僕に笑顔を向けてくれた。
「またいつでも来てね」
「はい。ごちそうさまでした」
また来れるような場所なのか、ここがどこなのかよくわかっていなかったけれど、できるならまた来たい。
「また来ます。すごく美味しかったです」
「あらぁ、ありがとうね」
たった一度の食事でこんなにあっさり復活するなんて、単純な生き物なんだな、と思う。でも、大事なことから目を逸らしたようにも受け取れるな、などとまたネガティブな思考が生まれて、せっかく浮上しかけていた気持ちが停滞した。
「あんまり難しく考えるなよ。ただちょっと疲れていて、お腹が空いていた、だから美味しいものを食べた、それだけのことだろ」
お店を出て駐車場まで歩きながら、坂井さんが僕に言った。
時々、この人は魔法使いか超能力者か何かだろうか、と思うことがある。どうしてこんなに考えがバレるのだろう。
「ごめん、いつも……頼ってばっかりで」
「ん? 何? 誰が、何だって?」
「え? いや、あの……いつも、頼ってばかりで申し訳なくて」
歩きながらチラリと僕の方を見て、坂井さんが訝しげな顔をした。
「…………それ、本気?」
「あの、うん。本気だけど」
「はぁ…………それギャグか何かなの?」
今度は呆れた顔をして、視線を前方に戻す。
「え? なんで?」
「だってさぁ。俺、頼られてるなんて思ったことないけど」
怒っているのかも、と表情を伺ってみたけれど、それは大丈夫なようだった。こちらをまた振り向いた坂井さんは、いつもの優しげな笑顔だった。
「……でも、十分色々してもらってるし」
「それは俺が勝手にやってるだけで、朝陽から頼られたと思ったことなんてないけどな」
駐車場に着くと、坂井さんは手慣れた流れで精算機のボタンを押して、僕が財布を出す間もない勢いで清算を終えた。いちいち、何もかもがオトナで、相対的に自分がいかに何もできないコドモかを思い知らされる。
「ひとりで抱え込まないで、もっとまわりに頼ればいいのに」
促されて助手席に乗り込む。うるさいエンジン始動音にももう慣れた。
「俺は頼って欲しいけどな」
車が走り出したので、僕はその言葉に対する返事を勝手に免除してもらうことにした。車のエンジン音がうるさすぎたから。だから、返事はまたこんどすることにした。
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