1 現実

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1 現実

 朝、目が覚めて、それがどうしてなのかはわからないのに憂鬱だという気持ちだけがはっきりと浮かび上がる瞬間が苦手だ。  全て夢だったらいいのに、と思うのに、覚醒が進むにつれて憂鬱の原因を具体的に思い出して現実だったことを否応なしに突きつけられ、またそこで「あぁ、そうだった」と一から衝撃を受けなおす。毎日、毎回、その繰り返し。自分の人生の価値がその程度のものだという現実を、嫌というほど何度も何度も思い知らされる。そうなる結末が分かりきっているのに、つい、お願いだから夢であってくれ、と毎回願ってしまう僕は、もしかしたらそれなりにマゾの気があるのかも知れない。  ひとよりも得意なことがあればそんなクソみたいな人生も少しはマシになるかと思っていたのに、結局この業界もクソみたいなことだらけで、自分がわざわざ望んでここにいる理由がわからなくなる。そもそも僕は、どうしてここにいるのだっけ。自分で選んだ? 本当に?  時計を見ると、1限に間に合うためにはもう起きなければいけない。今日の1限目は何の講義だったっけ、と思ってスマホを手に取ると、クラスのグループラインにメッセージが入っていた。  1限休講。ラッキー、と思って、眠りたいわけでもないのに僕は再び布団を引き寄せて目を瞑った。無駄だとわかっているのに、やっぱりこの憂鬱が夢であればいいと願いながら。 **********************  大きな白い模造紙にたいして綺麗でもない毛筆で書かれた名前。作曲部門の第1位から第3位までの中に、隈元(くまもと)朝陽(あさひ)という僕の名前はない。  やっぱりな、と思う。むしろ、そうとしか思わない。何となくわかっていた結果だ。何を期待していたのだろう。いや、期待なんてしていなかったか。  会場のエントランスに「第14回」と書かれた看板が立てかけてある。中堅の音楽教室が主催する、中規模な音楽コンクール。ピアノ部門、バイオリン部門が元からあって、数年前に作曲部門と歌唱部門が新設された。  僕のように大学1年でこのコンクールの作曲部門にエントリーした人は、今までいなかったらしい。作曲部門に限っては、学年限らず学生のエントリーじたいがまれだそうだ。音楽教室主催なだけあって、参加者はほぼ若手。ピアノとバイオリンの部門は小学生から中高大、社会人の部までで、参加人数もそれなりだ。でも作曲部門は、そもそもの作曲人口の少なさ故か、年齢幅も参加人数もたかが知れている。  僕はこのコンクール自体はよく知らなかったし、当然出ようとも思っていなかった。でも師事する教授からの薦めで、あまり深く考えずに流されるようにエントリーしてしまった。もっと良く調べてから決めればよかった、と後悔したけれど、後の祭りだ。  模造紙に書かれた審査結果の前でみっともなく奇声を上げながらピョンピョンと飛び跳ね、付き添いの母親だか先生だかと抱き合って泣いている女子を見ながら、早く帰りたいと思った。こういう雰囲気を表すちょうどいい言葉があった気がするのだけど、何だっただろうか。思い出せない。何も知らずに喜んでいる付添人に自分が見た全てをぶちまけてやりたい気もしたけれど、今はこれ以上関わりたくない気持ちの方が断然大きい。  コンクールの内容は、それほどおかしなものではなかった。と言っても僕もエントリーは初めてで他のコンクールを知らないので、一般的に知られている知識として、くらいの認識だ。  事前に作った15分以内の曲の譜面を前もって提出して一次審査。それを通過したら、決められた時間内にその場で課題に沿った作曲をしてピアノで演奏をする二次審査。それも通ったら、後日、約2週間の間に一次で作った曲をオーケストラアレンジし、最小規模の30名ほどの1管編成オーケストラ用にスコアまで起こして提出、最終選考はオケの生演奏のため、提出から1週間後にコンサートホールで。その場合、オケの人数と練習期間1週間という条件を配慮し切れず常識外れなほど難しい曲を書いても減点対象になる。最終審査でソリストを使う場合は自分で依頼して用意する。どこにでもあるような、ありがちなコンクールだ。  僕はとりたてて(つまず)くこともなく最終審査まで残った。想定内、と言えば甚だおこがましいのだけど、そうなる気がしていた。  スコアの提出日、出すものを出してホッとして、駅までの道を帰りながら街をふらついていた時。見覚えのある顔を見かけ、嫌な予感がした。同じコンクールでずっと戦ってきていた女性3人が、審査員をしていた偉そうな初老の男性3人と料亭に入っていくのが見えた。嫌な予感はほぼ確信に変わったけれど、どうしても確認したくてその場で待った。  4時間ほど経過して、料亭から出てきた彼らは、綺麗に男女ペアになって、それぞれ別のタクシーに乗ってどこかへ走り去った。  思っていた通りの展開になったことより、ずっとその場で立ったり座ったりを繰り返して足が痛くなったことの方がしんどかった。よく4時間もその場で待ったものだと我ながら感心してしまう。  コンクールの結果は、予想通り。最終審査に残った5人のうち、入賞はあの夜見かけた3人の女性。自分ともう1人の男性は落選。残念な気持ちなどなく、やっぱりな、と思っただけだった。  もう1人の落選した男性は僕より少し年上っぽかったけれど、最終審査には母親らしき人と一緒に来ていて、今にも泣きそうな雰囲気の彼をその女性は一生懸命慰めていた。そこまでのものか?と意地悪な気持ちが湧き上がって、あわてて彼らから目を逸らした。  エントリーを薦めてくれた教授に落選したことを電話で報告して、義務は果たしたような気になって、会場のロビーの片隅にあるベンチに座った。楽器を持った人たちがぞろぞろと歩いていて、コンクール参加者かオケの人かわからないけれど、ひと仕事終えたようなどこか晴れ晴れとした表情で歩く人たちをぼんやりと眺める。こんな、ひとつの企業で完結しているような内輪感満載なコンクールになんて出るんじゃなかった。  絶望、という言葉が頭に浮かぶ。僕が今まで想像していた絶望は、真っ暗闇に落とされて四つん這いになって項垂(うなだ)れてBGMにトッカータとフーガ ニ短調が流れる中を打ちひしがれているアニメチックなイメージだった。でも今は、感情が全く生まれてこなくて、BGMはない。無音の中で何も感じずただ立っているだけだ。  コンクールの結果に絶望したのではない。僕がこの先関わっていくかも知れないと思っていた世界の真実を知ってそう感じたのだ。  そもそもコンクールなんて、何の意味があるのか。音楽に順位をつけて何が楽しいのか。音楽なんて、生きていくのに必要なのか。学校なんて、ピアノなんて、本当に何の意味があるのか。そんなことを考え始めたら、どうして自分が今ここにいるのかもよくわからなくなって、見据えるべき方向どころか完全に自分の立ち位置を見失った。    何人かの主催者側関係者に名刺を渡された。残念だったね、という言葉を何度か聞いたけれど、僕の中にそんな気持ちは一切ない。当然、悔しいという感情も湧いてこない。色々と話しかけられたけれど、おそらくほとんど空返事になっていただろう。手にした数枚の名刺だけが僕がこのコンクールに関わった証拠だったらいいのに、と思う。それなら、これを捨ててしまえば全てなかったことになるのに。RPGだったらセーブしないでリセットしたいところだ。  何ひとつ収穫がないまま、このままここにいても全く意味がない気がして会場を後にしようとした時、ふいに声をかけられた。 「隈元くん、だよね?」  振り向くと、審査員の偉い人に付いていた若い助手のような男性が立っていた。 「ちょっと時間あるかな」  男性は、話したいことがあると言った。内容を教えてくれないまま会場のビルの中にあるカフェに誘ってくるところを見ると、あまり楽しい話ではなさそうだ。それでも僕は、下卑た好奇心が優ってしまって、つい彼の誘いに乗ってしまった。 「今回は残念だったね。でもぼくは」  カフェの狭いテーブルで向き合って座って、男性の吐き出す言葉を僕は黙って聞いていた。  お約束のセリフから始まって、その後の流れもだいたい想像できる。僕は目の前の男性がこちらに目線を向けずに話す様子をじっくり観察しながら、答え合わせをするみたいに、予想していた言葉と彼の口から出てくる言葉を照らし合わせた。  白々しい。  そうだ。この言葉だ。白々しいのだ、何もかもが。選ぶ方も選ばれる方も。嘘くさい。薄っぺらい。うさんくさい。質の悪い狂言でも見せられているような気分だ。  どこまで真実があるのだろう。僕の演奏を良いと思った? どこが? どんな風に? そう問い詰めてみたい欲求に駆られる。こんな若い人が僕の演奏を良いと思ったからと言って、何か変わることがあるのだろうか。仮にほんの少しでも本当に良いと思った気持ちがあったとして、この人の進言があのお偉いさんたちに響くような可能性がどれくらいあるのだろう。それ以前に、あのお偉いさんたちに何か響いて欲しいことが僕の中に存在するかもわからない。 「だからね、ぼくは君の」  今回の審査結果のからくりをそれとなく匂わせてきたその男は、きみにその気があるのならこれからそれなりの協力をしてあげる、と誘いをかけてきた。  100点満点。もちろん、僕が、だ。もしかして予知能力でもあるんじゃないだろうか、とさえ思えるほど予想通りの答え。わかりやすすぎて笑ってしまう。  ついて行ってみたらどうなるのだろう、と思って興味が湧いた。ただし、良い結果が欲しいからではない。そのからくりの実態を知りたいと思ったからだ。本当に関係者に媚びれば良い結果がもらえるものなのか、その裏を見てみたかった。それがわかれば、僕が音楽をやる意味も何か見えてくるかも知れない。あるいは全く逆で、音楽をやる意味なんてないということに気づくか。  本当に自分を売るつもりはない。ギリギリのところまで踏み込んだら、逃げる。ここまでは大丈夫、と、これ以上はヤバい、の境目は見極められる自信がある。もちろん、実際こんな下っ端のような男にそんな権限はない可能性が限りなく高く、本当にドアの向こうまでついて行ってたとしてもほぼ間違いなく不発に終わるだろう。それを承知で、僕はこの業界の闇に繋がる裏路地に足を踏み入れてみようと思ったのだ。  カフェを出て会場前のタクシー乗り場で一緒に車に乗り込もうとした時、やめとけ、という声とともに、いきなり後ろから肩を掴まれた。  びっくりして振り向くと、そこに立っていたのは全く知らない長身の男。不意に体に触れられたことで、心臓がドッと跳ねるように鳴る。思わず、体を捻るようにしてその男の手から逃れた。 「そんな男についていくな」  偉そうな男だな、と思った。背の高さに見合う態度のデカさだな、と感心する。見ず知らずの男にどうしていきなりこんなふうに命令されなきゃいけないのかと腹が立つ。僕が返事をしないで黙っていると、割り込んできた男は僕を誘った男に話しかけた。 「あんた、本当に音楽関係者か?」  割り込み男の偉そうな態度に、誘い男はただでさえおどおどした様子をますますグレードアップさせて、下を向いて目さえ瞑る勢いで萎縮していた。  タクシー乗り場に人が来たので、ぼくは目の前の男たちを乗り場から押しやって除けさせた。めんどくさいことになった。こんなことなら最初からとっとと帰っていれば良かった。 「演奏、聴いてたんだろ? 彼を今そんなふうに扱ってどういうことになるか想像もできないほど音楽に(うと)いんなら、あんたこの仕事向いてねぇよ」  誘い男は全く反論する様子もなく、ただ黙っていた。どう見ても割り込み男の圧勝で、僕の『この業界の闇を見てみたい』という野望があっけなく消えたということだけはわかった。  目の前のやりとりを、僕はただの傍観者のように俯瞰(ふかん)で見ていた。話している内容は僕に関してだと頭ではわかっていたけれど、僕はあえてそうではない風に他人事のように装った。 「せっかくのチャンスだったのに」  誘い男が黙ったままその場を立ち去ってから、僕ががっかりしたようにそう言うと、割り込み男は厳しい顔をして僕を一瞥した。 「そんなことで自分の音を濁すなよ」  僕が不当な成果を手にいれるために誘い男に付いて行こうとしたのだと、きっと勘違いされている。そして、そのために本当に身体でも売ろうとしているのだと。でも、その誤解を解きたいと思うほどの意欲が今の僕にはない。  ゲイバレ上等。ぼくがゲイなことは事実だし、それがこんな知らない男に知られようがどうでもいい。どうせもう関わることないし、問題ない。とにかく早く帰りたい。 「そんなことで濁って困るほど自分の音は元から綺麗じゃないんで」  どうしてその勘違いに乗るようなことを言ってしまったのだろう、と思ったけれど、もう遅い。適当にアバズレ男を演じて呆れてもらって、早く帰ろう。  自分は汚い手を使って得た金で音楽を習わせてもらって音高と音大に進学した、という自覚があったので、行きずりの相手にアバズレ男だと思われるくらいどうってことない。 「どうせ他のやつもみんなやってることだし」 「でも、きみはやらなかった」  めんどくさいやつだな、とイライラした。やらなかったのではなく、あんたのせいでやれなかったんだよ、と言いたかったけれど、やめた。本当に早く帰りたい。 「みんなと同じことしようとしてるだけなのになんで僕だけそんなふうに言われなきゃいけないの」  なんだか本当に身体を売ろうとしたような気になってきた。  あまりにめんどくさくて、僕はその場を立ち去ろうと一歩下がりながら言った。もうどうでもいい。なんでもいい。 「……本気で言ってる? そんなこともわかんないで音楽やってんの?」  完全に背を向けた僕に向かって、割り込み男が怒ったような口調で言った。 「これからも音楽続けたいなら聞いとけよ。いいよこっち向かなくても。そのまま聞いてけ」  面倒だと思うのに、なぜか足が止まってしまう。こんなやつの言うことに耳を傾けても何の意味もないのに。早く、帰らなきゃ。帰りたい。早く。 「今から言うことは、ここだけの話。きみももう気づいてるようだから言うけど、ウチのメンバーたちは今回の結果について、誰も納得してなかった。そして、どうしてこういう結果になったのかもわかってた」  いったい何の話が始まったのかとげんなりする。ウチの、って、どこの、何? 「このコンクールはなぜか楽団が毎年コロコロ変わってて不思議だったんだけど、やっと理由がわかった。このご時世に、まさかの裏があったとはね」  この人は審査の裏を知っているのか。それなら話は早いだろうに。 「ウチのメンバーたちが一番気持ちよかった曲は、きみの曲だと言っていた」   思わぬ言葉が聞こえた気がして、思わず振り向いた。 「音楽を続けたければ、続けられるような行動を選ぶことを俺は勧めるね」  そう言うと、割り込み男は僕の返答など全く待つ様子もなくそのまま地下鉄の駅の方へ歩いて行った。  ウチのメンバー?  僕の、曲が……?  いったいどこの誰だったんだろう。まぁいいや。どうせ二度と会わないだろうし。  音楽を続けるかどうかなんて、今はわからない。こんな煮え切らない思いをした直後に、そんなことは考えられない。今はとにかく早く帰って、やる意味もわからない明日提出の課題をかたづけなければ。  僕は、誰かと言葉を交わす度に少しずつ重く沈んでいった足を必死に動かして、どうにか帰路についた。
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