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side 直人
あれから半年……
以前と変わらない、2人だけの生活に戻った俺達。
光はまた、熱心に温室の花を世話するようになった。
「……僕も花の勉強をしようと思って……」
そう言って、俺の調剤室に来ては、いつもの椅子に座って花の図鑑を見る日々。
穏やかな生活。
たぶん……俺が望んだ生活。
こうして2人だけで、この閉じられた世界で…
でも……
時々、光が見せる憂いを帯びた横顔が、本当にこれで良かったのか……と俺を不安にさせた。
どこかに隠してしまったように見なくなった光のスマホ。
母さん……俺…何か間違えたのかも知れない
「……最近、薬が変わったよね?」
「……ああ。ちょっと試してみたい薬なんだ。体調はどうだ?」
「………うん。悪くないと思う」
朝食の後。いつもの薬の時間に不意に尋ねた光。
体調は悪くないという言葉を信じたい……
「………じゃあ。今日はもう、出掛けるから」
俺は、それ以上光に何かを聞かれるのが怖くて、バタバタと支度をして家を出た。
1日病院で働いた後、院長に頼まれた書類を届けに、見知らぬ街の病院に向かった。
賑やかな街の一角にあるその病院。温厚そうな先生に書類を届け、駅までの道を歩く。
ゆっくりと降りていく夕陽が、街の中をオレンジに染めていく。
ふと目に入った小さなケーキ屋さん。甘い物でも買っていけば、少しは笑ってくれるだろうか。
こんなことしか、光を笑顔にする方法を思い付かないなんて……
自分の不甲斐なさに戸惑っていると、不意に後ろから声を掛けられた。
「……早瀬先生?」
「………」
見覚えのある顔に記憶を辿る。
「……あっ……佐伯さん?」
東藤さんが研究所に来はじめた頃、一緒に来ていた……確か従兄だったか……
「……はい。その節は、遥が大変お世話になりました」
「………いえ」
東藤さんに似た眼差しに、どこか後ろめたい気持ちに襲われ言葉が続かない。
「……ここのケーキ、美味しいですよ」
「…………」
晴れやかに笑う彼に、返事が出来ずにいると……
「……少し……飲んでいきませんか?」
そう言って、ケーキ屋が入ったピルの2階を指差す。そして、俺の返事も待たずに、ビルの脇にある階段を上がって行ってしまった。
仕方なくその後に続くと、デニムのポケットから鍵を取り出してドアを開ける彼。
「……どうぞ…どうぞ」
明るい声に誘われるまま入ったその場所は、小さなbarだった。
「……俺、ここで働いてるんです。今、準備するんで、適当に座っててください」
そう言って持っていた荷物をカウンターに置くと、店の奥に消えた佐伯さん。
俺はゆっくりと店の中を見回した。
たぶん、そんなに新しくない店内。使い込まれた感じのするカウンターと、テーブル席が2つ。
少し落としたオレンジの照明が、温室を思い起こさせて、初めて来た場所なのに心が落ち着く。
俺はカウンターに腰かけると、奥の棚に並んだボトルをぼんやりと見つめていた。
「………お待たせしました」
白いシャツに黒いスラックスに着替えた彼が、カウンターの中に入る。
「……何か飲みたいものあります?先生にはお礼をしなきゃと思っていたので…飲みたいもの言ってください」
「……じゃあ…ウイスキーを一杯だけ」
「………じゃあ俺のお薦めでいいですか?…」
その言葉に頷くと、少し重そうなグラスに不純物のない透明な氷が入れられた。棚からボトルを取り出し、グラスに注いでいく。
よどみなく動く綺麗な手。その動きを見つめながら、小さい光の手を思い出していた。
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