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月が、欠けてゆく。
仕事の合間に空を見上げると、まだ日中だというのに月が浮いていた。鈴香の姿を初めて見た時、それは夜空にあいた穴のように白く眩い光を降らせていたが、今では、消え入りそうなほどに細い。
それだけの時間が過ぎたのだ。ふと思い立ち、康介は鈴香にメールを送った。
『今夜は俺が食事の用意をするよ』
数分で返信が届く。そこには、『楽しみです』とだけ書かれていた。大袈裟な謝辞を期待していたわけではないが、その簡素な文面を見て、康介は自身が感傷に浸っていたことに気が付いた。鈴香が間もなく去ってしまうということが、何だというのだ。心の中で一人ごち、自らを鼻で笑う。
とはいえ、既に食事の用意をするという約束はしてしまっている。康介は自宅に着くと、すぐに調理を始めた。薄切り肉を炒め、あわせて、市販の素で作ったスープと、野菜を盛っただけの副菜を用意する。
その後、米が炊けたことを確認すると、康介はスマートフォンを手に取って鈴香を呼び出そうとした。ところが、それよりも先に縁側に通ずる戸が叩かれた。
「こんばんは」
耳に馴染んだ声。鈴香だ。
「よお、ちょうど呼ぼうと思っていたところだよ」
「予感がしました」
「適当なことを言うな」
軽口を叩く彼女の顔を見て、康介は違和感を覚えた。
「どうした? 目が腫れてるぞ」
鈴香が相好を崩して肩をすくめる。
「昼寝し過ぎちゃって、顔がむくんでいるんです」
「ずっと寝ていたなら腹は減っていないんじゃないか?」
「美味しそうな匂いを嗅いだら減りました」
彼女は康介の横を通り過ぎると、並べられた料理の目の前に立ってスマートフォンを構えた。カシャッと音が鳴る。
「おい、また素材集めか?」
その嫌味を気にも留めず、彼女はスマートフォンを操作し続ける。
「おじさんの手料理ナウ」
「くだらないことしてないで、さっさと席に着けよ」
鈴香は素直に席に着き、おどけるように笑った。
「関口さんの手料理は、くだらないものではないですよ」
「そういうことを言っているんじゃない」
彼女はますます笑う。
康介は向かいの席に座って話を続けた。
「わざわざネットに写真を上げなくても、俺が情報も時間も共有しているだろ」
すると、彼女は表情を引き締めた。
「言われてみれば、そうですね」
「その様子だと、俺は君にとって共感者たり得ないってことだな」
「拗ねてるんですか?」
「そんなわけないだろ。ただ、それなのにどうして、俺と一緒に食事をしようと思ったのかが分からない」
短い静寂の後に、細い声が漂う。
「わたしも、どうしてだか分からないです」
彼女の言葉を聞いて、康介は鼻から息を吐き出し、「とりあえず」と前置きをしてから、目の前の料理を手で示した。
鈴香が、大きく頷く。
+ + +
食事を始めると、鈴香は何事もなかったかのように再び微笑みを作り、感謝と称賛の言葉を並べ立てた。
これまでに用意して貰った料理のほうが明らかに味も見た目も良く、社交辞令も多分に含まれていることと思う。しかしながら、それを差し引いたとしても、彼女は心の底から喜んでいるように見えた。
「関口さんと一緒に食事をすることにして、正解だったと思います」
「まあ、悪くはないな」
「さっきの質問ですけど、関口さんは? 関口さんは、どうしてわたしからの食事の誘いを受け入れたんですか?」
思いもしなかった問い掛けをされ、康介は戸惑いながら考えを巡らせた。なぜ受け入れたのだろう。彼女と出会ってからの記憶を辿る。月と花と、花。頭の中でドンッという音と共に光の粒が散り散りに広がる。
「花火だ」
無意識のうちに言葉が零れ落ちた。
「そう、君が、花火を見ていたからだ」
鈴香は、怪訝そうな面持ちで首を傾げた。
それを見て我に返り、慌てて取り繕う。
「すぐ向かいに大きなビルがあるだろ。数年前に建てられたマンションなんだが、それが邪魔で、この家から花火が見えなくなってしまったんだ。けれど、君は隣の庭から見ていた。それで、興味が湧いたんだ。俺は……」
花火を見たい、そういった内容のみを伝えるつもりだった。しかし、話をしているうちに様々な想いがないまぜになり、やがて、康介は自身の過去の出来事について語り始めた。妻の願いを叶えるために家を買ったこと、離婚をしたこと、ひらけた空に救いを求めたこと。
もちろん、そんな話を二十歳の学生にしても意味はない。助言を欲しているわけでもなく、慰めも不要だ。それでも、堰を切った言葉は止めどなく流れ続けた。
彼女は黙って料理をつついていた。その表情から考えを読み取ることは出来ないが、時折頷いているので、話は聞いているようだ。
「……つまり、俺の求める景色を、君は何の苦も無く手に入れていた。だから、妬んだわけではないが、とにかく、気になったんだと思う」
話の終わりを察したのか、鈴香が康介のことをじっと見据える。
「求める、景色、ですか?」
「ああ。求めるもの、と言い換えても良い。とうの昔に失われた花だ」
そう返すと、彼女は独り言のように呟いた。
「本当に、奥さんは花火を見たかったんでしょうか」
「確かにそう言っていたよ」
「そうではなくて、本心についてです」
その発言の真意が分からず、康介は続く言葉を待った。
「わたしの想像ですけど、奥さんは、関口さんと一緒に、何かを見たかっただけなんじゃないでしょうか」
「情報共有したかっただけだとでも言いたいのか?」
「そう、それです。花火を見たいというのは単なる例え話で、本当は旦那さんと一緒にいたかっただけなんだと思うんです。一緒にさえいられれば、見るものなんて何でも良かった。それこそ……」
彼女の視線が縁側のほうに移る。
「それこそ、向かいに立つビルでも」
言わんとしていることは理解できる。だが、それを認めてしまえば、これまでの自身の労苦を否定することになってしまう。
康介は、虚勢を張って平然と述べた。
「それは極論だろ。視界を妨げるビルを見たがる奴なんて、いるわけがない」
すると鈴香は、「そうでしょうか?」と一つ呟き、それから、思うところがあったのか、勢いよく康介のほうへ向き直った。
「関口さん、明日、一緒にお酒を飲みましょう」
「突然どういう風の吹き回しだ?」
彼女の口角が、ゆっくりと引き上げられる。
「明日、向かいのビルを見ながら、縁側で晩酌をしませんか?」
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