一、

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一、

 ドンッと音が響き、ほんの刹那、雲が朱色に染まる。  もう花火の頃か。二階の窓から身を乗り出して思い、関口康介は、苦々しげに向かいに立つビルを見上げた。  数年前まではここからでも花火を望むことが出来たのだが、今では新築のマンションの陰に隠れ、空気を震わす音と微かに零れる光だけが、一年という時間の経過を知らせてくれる。  花火を見たいという妻の要望に応えてこの家を購入したのだが、これでは元も子もない。とはいえ、その妻も既に康介の隣にはおらず、ケジメという点においてはこれで良かったとも言える。  一人でいるのは辛いのです。結婚して二十年目に妻はそう言った。彼女の望むものを与えたいと願って仕事に努めてきたが、結果、得られたものは緑色の字の印刷された一枚の紙切れであった。何を間違ったのだろう。思い返すが、脳裏に浮かぶのは共に見た花火。その景色を奪い去ってしまったものは。  憎しみを込めてビルを睨む。自身にも非があったとは思うものの、それを認めることが出来ずに目の前の建築物に責任を転嫁する。  花はビルに奪われた。いま一度ひらけた空を望むことさえ出来れば、安穏とした日々を取り戻せるのではないだろうか。馬鹿げた妄想であることは承知しつつも、康介は、そう思わずにはいられなかった。  長いこと花火の音に耳を澄ましていると、もう一つ別の音が届いた。カシャッ、カシャッという機械的な音。見れば、隣の家の庭に髪の長い女性がいる。月明かりの下、その女性はスマートフォンで写真を撮っていた。どうやらそこからは花火を望むことが出来るようだ。  羨ましいと思うと共に疑問を抱く。康介の知る限り、隣の家では老齢の女性が一人で生活をしていたはずだ。しかしながら、そこにいる女性は明らかに若い。おそらく二十代前半であろう。  ひとつ声を掛ければ、その疑問を解消することも出来るのだろうが、隣人とは然して親しくない上、見えもしない花火に耳を澄ましている自身の姿が恥ずかしくなり、康介は、そっと、部屋の奥へと引き戻った。  + + +  翌朝、縁側から、と言っても奥行が二尺ほどしかない小さなものだが、そこから康介はホースで庭に水を撒いた。  園芸は趣味ではないが、妻が迷惑な土産として幾つもの鉢植えを置いていってしまったため、詳しい世話の仕方を知らないながらも、毎朝、水を与えることが日課となっていた。当然、日曜日であろうと午前中のうちに目を覚まし、水を撒いている。  名も知らぬ花や草が、露に濡れ、揺れる。すると近くから声があがった。 「サボテンには、あまり水をやらないほうが良いですよ」  声の出処を求めて視線を泳がすと、隣の庭に昨晩の女性がいた。庭と庭の境界にある背の低い柵の向こう側で、康介と同じく鉢植えに水を与えている。ただし、ホースから直接ではなく、一つひとつジョウロでだ。 「多肉植物って湿気を嫌いますから、水を与え過ぎると腐っちゃいますよ」  なおも話し掛けてくる彼女に対し、康介は短く礼を述べ、それから、「君は?」と尋ねた。  彼女は我に返ったように居住まいを正し、「二ノ瀬鈴香」と名乗った。祖母の看病のために大学が夏休みの間、一人でこちらに来ているそうだ。 「二ノ瀬さん、入院したの?」 「はい。階段でつまずいて骨が折れたみたいです。ソコツ症だったかな?」 「骨粗鬆症だろ」 「ああ、それです、それです」  鈴香の口調は軽く、またショートパンツにTシャツという出で立ちの所為もあってか、その姿は非常に幼く見えた。事実、彼女はまだ二十歳で、親子ほども歳の離れた康介からしてみれば、そう思えて当然だ。だが、前夜に見た薄闇の中の彼女はどこか物憂げで、もっと大人っぽかったと記憶している。  その印象の差に戸惑っていると、彼女は軽やかに笑い、「半月程度の短い間ですけど」と述べ、続けて、「宜しくお願いします」と言って頭を下げた。  康介も小さく会釈をする。それを認めた鈴香は背を向け、家屋に向かって歩きだした。ところが、扉をくぐる直前に振り返り、彼女は一つの鉢植えを指差して言った。 「あ、その花も多肉植物ですけど、それだけは水をちゃんとあげてください」 「花?」  指し示されたのはサボテンのような植物であり、「花」という呼び名は似つかわしくない。 「はい、花です。もうすぐ咲くと思いますよ。もともと熱帯雨林の植物なんで、水を好むんです」  康介は鈴香の博識振りに感心して何度も頷いた。  すると、彼女は更に言葉を続けた。 「ちなみにその花は、月下美人って言うんです」  + + +
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