一、

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 仕事のある日は早朝に水を撒く。丁度その時間は鈴香の起床時間らしく、康介がホースを持って縁側に立っていると、毎日のように彼女は挨拶をしてきた。加えて花の育て方、それこそ剪定から施肥に至るまでを、さりげなく語る。  聞けば、鈴香は大学で植物について学んでいるらしく、花の知識があるとのことだった。ただし、研究職を目指している訳ではなく、手頃な理系受験の学校だったので入学しただけだそうだ。その話を聞いた際、志が低い、などと野暮なことを思いもしたが、近頃の若者はこんなものかも知れないと考え直し、康介は言葉を飲み込んだ。しかし。  本当に近頃の若者は、こんなに諦観した目をするものだろうか。  鈴香は人当たりの良い雰囲気を備えてはいるが、時折、酷く冷めた面持ちで虚空を見つめることがある。思い返せば、花火の写真を撮っていた時も、その表情に色はなかった。康介の求める、ひらけた空に浮かぶ花を、目の前にしていたにもかかわらず。  そんな彼女の様子は少なからず興味を抱かせた。けれども、相手はただの隣人。互いに深入りすることもなく、ただ日々は過ぎていった。  + + +  鈴香と出会ってから五日目の夜、康介は早くに仕事を終え、西の空にまだ薄日が残る頃に帰宅した。  いつも通り誰もいない部屋の明かりを点け、食卓の椅子に腰を落ち着かせる。その時、呼び鈴が鳴った。独り身になってからというもの滅多に人が訪れることはなく、康介は訝りながら玄関へと向かった。  扉を開けると、そこには、鈴香がいた。彼女は薄闇を背負い、頼りないポーチライトの明かりの中でビニール袋を片手に立っていた。 「やあ、珍しいね、こんな時間に」  そう声を掛けると、彼女は白い歯を見せて笑った。 「夜分遅くにすみません。お願いがあって伺ったんです」  ビニール袋を差し出される。その中には、小ぶりではあるが、丸のままのスイカが入っていた。 「これ、お婆ちゃんの友達から頂いたんですけど、一人では食べ切れないので受け取って欲しいんです。是非、ご家族で召し上がってください」  家族、という言葉を耳にするのはいつ以来であろう。おそらく鈴香は、広い戸建てと、鉢植えの並ぶ庭を見て、妻がいるものと勘違いしたに違いない。  康介は聞き流そうとも思ったが、彼女と同じくスイカ一個は多すぎるため、恐縮しつつ提案を持ちかけた。 「悪いね、俺は独り身なんだよ。そこでどうだろう、半分だけ貰えるかな」  その言葉を聞いた彼女はバツの悪そうな顔をし、慌てて返事をした。 「あ、え、じゃあ、切ってきますね」  すぐさま引き留める。 「ああ、うちで切るよ。少しくらい待てるだろ」 「それならわたしが切りますよ。台所をお借りしても良いですか」  康介が曖昧に頷くと、彼女は部屋に上がり込んで手際良くスイカを両断した。そして首だけで振り返って、こう尋ねてきた。 「関口さん、すぐに食べます?」  察するに、小分けに切るか否かの確認であろう。康介は申し訳ないと思いながらも、小分けにでもなっていなければ以降も食べることはないと考え、「ああ」と短く返事をした。 「じゃあ、一緒に食べましょう」  康介の返答を待たず、鈴香が次々とスイカを切り始める。 「おいおい、一気に全部食べるのか? 多いだろ」 「二人なら大丈夫ですよ。あ、適当なお皿を使わせていただきますね」  そうして、食卓の上に大量のスイカが並んだ。それを見た彼女は、「壮観な光景ですね」と言いながら、他人事のように嬉しそうにしている。  その向かいで康介は、諦めたように呟いた。 「まあ、晩飯もまだだったし、丁度良いだろ」  鈴香が覗き込むように康介の顔を見る。続けて、ポケットからスマートフォンを取り出し、カメラのレンズを食卓に向ける。 「せっかくだから写真撮っとこ」  カシャッと音が鳴ると同時に、冷めた気配が彼女から漂った。それは一瞬のことであったが、これまでに積み重ねられてきた違和感の所為もあって、康介は尋ねずにはいられなかった。 「記念撮影をするなら、もっと楽しそうにしたほうが良いんじゃないか?」 「え? どういう意味ですか?」  頭の中に、花火が打ち上げられた時の鈴香の姿が浮かぶ。 「とても、つまらなそうだ」  彼女は、自覚がないのか、不思議そうに首を傾げた。 「そんなこと、ないですよ」  微かに気まずい雰囲気がしたため、康介はそれ以上何も問わず、鈴香に席に着くよう促してスイカを食べることにした。  二人で噛り付く。しばらくの間、お互い無言であったが、白い部分を露わにした皮が数枚重なった時、唐突に彼女は口を開いた。 「たぶん、ただの素材なんだと思います」 「ん? 何が?」  鈴香は淡々と語りだした。 「あ、さっきの記念撮影の話ですよ。わたしにとって被写体は単なる素材なんだと思います。それをSNSなどに投稿して、誰かと情報共有することに価値があるんじゃないですかね。そうすることで、同じ気持ちを抱く人と繋がれて、安心できるんです、たぶん」 「言いたいことは分かったが、感覚的には理解しがたいな。気持ちなんて一人で抱くものだし、それで充分だ。例えば、そう、スイカは旨くないか?」 「はい、美味しいですね」 「一人で食べたとしても感動するだろ?」 「感動って、大袈裟ですよ」  何が面白いのか、彼女は声を出して笑った。その様子を見ながら康介は、スイカを一口かじって飲み込み、不服そうに述べた。 「で、その花火の、あ、いや、スイカの写真は、共感を得るための素材として利用されるのか」  鈴香はスイカの種を指で取り除きながら答えた。 「そうですね。友達や彼氏に見せてコメントを貰えると思います」 「彼氏がいるのか?」 「一応、いますよ」  その言い方は実にあっけらかんとしている。 「彼氏がいるのに、独り身の男の家に上がるのは良くないだろ」 「関口さんはお父さんみたいなものじゃないですか」 「過信しないほうが良い」 「変なことしたら駄目ですよ」 「冗談だよ」  彼女は再びクスクスと肩を震わせ、そして、ひとしきり笑うと、椅子の背もたれに寄りかかって大きく息を吐き出した。 「どうした? まだスイカは山ほど残ってるぞ」 「もうお腹いっぱいです。あとはお願いします」 「おい、冗談だろ?」  + + +  結局、スイカのほとんどを康介が一人で食べ切った。  その間、鈴香は隣で応援をしているだけであった。 「スイカをありがとう」  玄関先で嫌味っぽくそう言うと、鈴香はからかうように微笑んだ。 「どういたしまして。とても楽しかったです」  どうにも決まりが悪く、たどたどしく応じる。 「あ、そうか、うん、それなら、良かった」  彼女は肩をすくめ、それから視線を落とすと、サンダルで足元の砂利を転がしながら言葉を紡いだ。 「あの、関口さん、わたし毎日ヒマなんですよね。だから、明日から、夕食をご一緒させてくれませんか?」  まだ熱を帯びた夏の夜の風が、花の蕾を、小さく揺らした。
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