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三、
夏も終わりが近付き、日中こそ汗ばむほどに気温が上がるものの、日暮れにもなれば涼しい空気が流れる。
康介は縁側で虫除けの線香を焚き、安物の日本酒と、腹持ちの良さそうなつまみを用意して、鈴香のことを待った。
ビルを肴に晩酌。何とも馬鹿馬鹿しい催しではあるが、明日は休みだ、酒を煽るのも悪くはない。そう思っていると、裏門の軋む音が響き、鈴香が姿を現した。それを見て声を掛ける。
「珍しい格好をしているな」
彼女は浴衣を着ていた。紺地の絞り柄に藁色の帯という古風な組み合わせで、薄闇の中、とても大人びて見える。
「変、ですか?」
「いいや、似合っているよ。ただ、君が着付けを出来たとは意外だ」
「あいにく帯はマジックテープなんですけどね。スーパーで安売りをしていたので買ってきちゃいました」
はにかみながら縁側に腰を掛ける彼女にグラスを差し出し、酒を注ぐ。準備を終えると、何を祝うでもなくそれを小さく掲げ、二口、三口、喉に流し込んだ。久しぶりに飲むアルコールは、しみるような味がする。
それから当初の予定通り、二人は、ビルを鑑賞することにした。
+ + +
康介にとってビルは花を奪った象徴ではあるが、実際のところ、そのことを意識するのは花火の頃だけで、日頃は単なる風景の一部でしかない。このように、まじまじと観察をするのは初めてであろう。
「十二階建てですね」
「ここらでは最も背の高い建物だな」
改めて見てみても、そびえ立つ影はやはり大きく、視界を妨げるものという印象は拭えない。当然ながら感動など得られるはずもなく、康介は並ぶ窓の明かりをただぼんやりと見つめた。
それに対して鈴香は、両足をぶらつかせながらビルの細部を指し示し、あれやこれやと嬉しそうに批評を述べている。
「最上階の右端の部屋に明かりが点きましたね」
「そうだな」
「こんな時間までお仕事をしていたんですかね?」
「いや、単身者が住むような物件ではないから、家族で食事にでも行って帰ってきたところじゃないか」
繰り返し実のない話ばかりを振られる。とはいえ、思い返せばこれまでのやり取りにしても似たようなものだ。建設的な会話などしたことがない。康介は、いつも通り素気なく相槌を打った。
そうしてしばらくすると、唐突に鈴香が声を出して笑った。
「何がおかしいんだ?」
「いえ、本当にビルを見ながらお酒を飲んでいるなって」
「君が言いだしたことだろ」
彼女は微笑みながら、覗き込むように康介の顔を見つめた。
「良い思い出になります」
その真っ直ぐな目から逃れるように視線を逸らす。
「良い思い出なのに写真を撮らないのか?」
「はい、撮らないです。関口さんが情報も時間も共有してくれていますから」
「俺が拗ねるんじゃないかと心配でもしているのか?」
「バレちゃいました?」
彼女は無邪気に笑い続けた。康介も釣られて笑う。すると、胸の奥を撫でられたような感触がした。どこか懐かしい、ふわりとした感触だ。康介はそれを否定するかのように細かく首を横に振った。
「しかしな、共有と共感は別物だ。俺は君のそばにいるが、同じ気持ちを抱いているとは限らない」
鈴香は笑うのをやめた。そして、ふいに立ち上がり、腕を伸ばして大袈裟にビルを指差すと、勢いよく言い放った。
「それじゃあ、確認をしましょう。あのビルに対する感想を、『せーの』で一緒に言うんです」
続けて康介のほうへ向き直り、柔らかな口調で言葉を付け足す。
「意見が一致したら、恋におちてしまうかも知れませんね」
康介は呆れたように鼻で笑った。
「なんだ、もう酔っているのか?」
彼女はその問い掛けを無視し、大きな声で、「せーの」と叫んだ。突然のことに考えをまとめる暇もなく、反射的に答える。
「邪魔だな」「立派ですね」
二つの声が重なった直後、静寂が訪れた。吐き出した息を吸い込む。たったそれだけの時間でさえ長く感じられる。
こんなものだ。康介は心の内で呟いた。偶然にも発言が一致するなんてことは滅多にない。仮に隣にいる人物が妻であったとしても、考えの相違は免れようがなかったであろう。劇的な出来事は想像の中にのみ存在し、現実は。
「残念だったな。気持ちは一致しなかった」
「ですね。残念です」
「俺と君は、感覚を分かち合う関係ではないってことだ」
康介が自身に言い聞かせるようにそう言うと、鈴香は口元だけで笑って、ポツリと零した。
「それでも……」
意味深な様子が気にかかり、小声で尋ねる。
「どうした?」
鈴香は康介の向かいに立ち、おもむろに語りだした。
「あの、わたし、昨日の質問について考えていたんです。どうして関口さんと食事をしようと思ったのか。それが少しだけ分かりました。安心するんです。気持ちが一致しなくても、それでも、関口さんは何を考えているのか分かり易くて、安心なんです。わたしは、心の見えない人とばかり一緒にいましたから」
その視線は康介を捉えてはいるが、どことなく虚ろで、過去の景色を思い出しているように見える。
「わたし達は臆病で、何も読み取ることの出来ない景色や表情が怖いんです。一人で舞い上がっているなんて思われたくないから、まずは感情を殺して、相手に何を考えているのか、自分のことをどう思っているのかを問い質してしまう。でも、向こうだって、同じだったんですよね……」
彼女は俯いて自嘲気味に笑い、辛うじて聞き取れるほどの声で、「馬鹿みたい」と囁いた。
鈴香に何があったのかは分からない。分かる必要もない。けれども、話に触れてはならないという気配だけは察することが出来る。そこで康介は何も言わずに瓶を手に取り、縁側の上に置かれたままの鈴香のグラスに、酒を注ぎ足した。
彼女はずっと黙っていたが、康介が瓶を床に置き、コトリと音が鳴ると、顔を上げて、力なく笑った。
「関口さんは、優しいですよね」
「君がそう思いたいだけだろ」
鈴香は顔を隠すように背を向けた。
ややあって、「あ……」という、吐息にも似た小さな声が聞こえる。
「……月下美人が、咲いています」
彼女の視線の先に目を向けると、そこには、大輪の白い花が咲いていた。庭の光源は背後にある部屋の灯りのみで、辺りは暗闇に包まれている。それにもかかわらず、その一輪の花は、自ら光を発しているかのように輝いて見えた。
鈴香が月下美人に駆け寄る。康介も夢に侵されたかのように、たどたどしい足取りで後を追う。
何歩か進むと、甘い香りが漂った。その香りが月下美人から放たれているものだと気付いた時、花は、もう目の前にあった。すぐ横で鈴香がしゃがみ込んでいる。それにならい、隣でかがみ、花を見つめる。
近くで見る月下美人の花は広げた掌よりも大きく、眩さが視界を埋めた。桃色の細いガクは四方へと散り散りに広がり、透き通るような花弁は幾枚も重なって、白を、より白く際立たせている。
綺麗だ。ひらけた闇に咲く花。それは康介の求めるものに良く似ていた。
「まるで……」
零れた言葉の続きを、二人で口にする。
「花火みたいだ」「花火みたいですね」
瞬間、鼓動が高鳴り、康介は咄嗟に彼女のほうを向いた。
鈴香は、畏怖を覚えるほどに、美しかった。
その頬は月下美人のように白く映え、瞳は葉の上の雫のように光っている。もっとその横顔を見たい。康介は手を伸ばし、彼女の髪をかき上げた。酒の所為だろうか、露わになった首筋は淡く朱色に染まっている。その朱色の肌に触れる。手に、彼女の体温が伝わってくる。
その時ようやく我に返った。自分は何をしているのだろう。だが、伸ばした腕は思う通りに動かず、彼女のほうから拒絶してくれることを願う。しかし。
鈴香は表情も変えず、花を見つめたまま唇を微かに動かしただけであった。
「花を、見ないんですか?」
康介は彼女の横顔を見つめたまま、答えた。
「見ているよ」
雫の瞳が横に動き、目が合う。康介は肩を抱き寄せ、彼女の顎の輪郭に中指を這わせた。鈴香が何かを捧げるように、目を閉じて、顔を上げる。
花は咲いた。
息さえも共有するほどの長い交わりを終え、ゆっくりと顔を離す。彼女は薄く目を開けると、康介の胸にもたれて囁いた。
「月下の花は、朝には萎れてしまうんですよ」
切なさに酔いつつ、彼女の首筋をもう一度撫でる。
「それだけ時間があれば充分だろ。空の花火に比べれば長く咲いている」
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