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寿退社
それから数日後。経理部での朝礼では寿退社をする山中亜里沙の挨拶があった。
___てか、いつのまに?
結婚どころか、彼氏もいないと思い込んでたのに。
「今日まで色々お世話になりました。ありがとうございました」
「おめでとう!亜里沙さん、幸せになってください」
「おめでとう!」
「お疲れ様、素敵なお母さんになってね」
部を代表して、課長から大きな花束が渡されて、花の中に顔を埋めている亜里沙。
「いや、もうなんていうか…もう幸せなんですけどね。これからもっと幸せになりますね!みなさんもお元気で」
拍手の中、うれしくてたまらないという亜里沙の笑顔が眩しく見える、悔しいくらいに。
___どうせ大した男じゃないだろう
「あの、亜里沙先輩の結婚相手ってどんな人なんですか?」
すぐ隣にいた別の女性先輩に訊いた。
「うちの取引先のちょっと偉い人みたいだよ。営業部の連中なんて、亜里沙さんの結婚相手を知ってからすっかり態度が変わったもんね」
「そうなんですか…」
「年上の幼馴染で、もう付き合いは長いみたい。とっくに籍は入れてたんだけど出産までは働きたいって、頑張ってた。でもちょっと体調がよくないらしくてね」
「え?」
勝手に太ってるだけだと思っていたのは、妊娠してたからだったのか。
「あれ、でも、この前懇親会に参加してましたよ、結婚してるのに」
「あー、あれ?ご主人も参加してなかった?子どもが産まれたらそんな会にも出られなくなるからって、一緒に参加して楽しんでたみたいだけど」
___知らなかった…
というか、ちっとも気にしていなかったからわからなかったと言うべきか。あの日は駿をどうやって落とすか?それしか考えてなかった。
「もともと、そういうところはお互いに認め合ってるみたいよ。これまでにも飲み会とかよく参加してたよ、亜里沙さん。いいよね、理想の夫婦って感じで」
「…そう、ですね」
私の方が先に幸せになれると確信してたのに、まさか亜里沙の方が先だったとは。
その時、入り口から誰かが入ってきた気配がした。
「あ、ご主人の登場よ、ほら、あの人、懇親会にいたでしょ?」
言われてみればいた気がする。
「このたびは、妻がお世話になり、ありがとうございました。妻は退社してしまいますが、これからも何かのおりには仲良くしてやってください。それからこれはみなさんでどうぞ…」
そう言って部長に渡されたのは有名パティシエが作るチョコレートの詰め合わせだった。
「これはこれは山中室長、ありがとうございます。今後ともうちの会社をよろしくお願いします」
急に前へ出て、亜里沙のご主人という人に挨拶をする部長。
「まぁ、仕事は仕事として別の機会に。今日は妻のお礼に来ただけですから」
「は!失礼しました」
慌てて部長が頭を下げる。部長よりも偉い人なんだろうか。
「じゃあ、行こうか?荷物は?…」
亜里沙の背中にそっと手を添えて、優しくエスコートするご主人。出口でもう一度深く頭を下げて、2人は出て行った。
___なんでみんな、幸せになれるの?
誰かにおしえてほしかった。
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