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第1話「やあ、野オポッサムだ」
私立伊之泉杜学園は、充実した教育設備を有する学校法人である。幼稚園部から初等部、中等部、高等部、そして大学までの一貫教育を採用した巨大な組織を形成しており、法人としての財力も相当なものである。各部が有する敷地は一般的な学校に比べて十分過ぎるほど広い。その中のひとつ、高等部だけを見ても、学校としての設備に留まらず、各種運動部が利用する競技場や豊かな花々が咲き誇る植物庭園などをその中に有している。
そんな広大な学園の中を、牟児津真白は鼻歌交じりに歩いていた。高い位置で2つに結んだざくろ色の髪が一歩ごとに跳ねる。白いブラウスの上にベージュのブレザーを重ね、下は濃いベージュのミニスカートを履き、首元にはレモンイエローのリボンをかけている。
「ご機嫌だね、ムジツさん」
牟児津の隣を歩く瓜生田李下は、その様子を微笑みつつ見守っていた。鼻歌を歌うほど上機嫌の牟児津に比べると、いくらか落ち着いている。平らに整えた前髪と腰まで伸ばした後ろ髪がさらさらと揺れる。丸襟のロングブラウスの上からピンクのリボンとベージュのブレザーを着用し、膝下丈のロングスカートを履いている。
「いや〜、もう塩瀬庵のあんワッフルがめちゃくちゃ楽しみなんだよ〜!」
「それ今朝からずっと言ってるね」
「15時発売で数量限定だから急がないとすぐなくなっちゃうよ」
「どっかのお店とのコラボなんだよね。テレビで結構よく見るとこ」
「東京のめっちゃオシャレなワッフル専門店ね!それだけでも美味しそうなのにあんこ挟まってんだよ?もう天才じゃん?」
時刻は15時を少し回った頃。牟児津たちは下校中である。牟児津は今日、毎朝欠かさず観ている『今日のあんこ』で紹介された、東京の有名ワッフル専門店と馴染みの菓子屋のコラボ商品のことばかり考えていた。東京の名店の味を近場で楽しめるとなれば、牟児津のような甘党でなくても買い求めるだろう。今日一日で売り切れ必至のレアものである。
「うりゅにも買ってあげるからね。この前のお礼したいから」
「やったあ。ありがとうムジツさん」
先日、牟児津はクラスで起きた黒板アート消失事件の犯人だと疑われ、瓜生田に助けを求めた。最終的には牟児津自身が解決したのだが、その過程で牟児津は瓜生田にずいぶん助けられていたのだった。
校舎の玄関で靴を履き替えて、校門までの長い小径を歩く。玄関から校門までは平坦で、道の両側によく整えられた生垣が並んでいる。生垣は暖かくなると花を咲かせ、盛夏には青々と葉をつけ、そこを通る生徒たちに季節の移ろいを感じさせていた。
その生垣の一つがガサガサと揺れる。2人が目をやると、小さな茶色が機敏に飛び出した。
「やあ、のら猫だ」
それは三毛猫だった。首輪をつけていない、汚れた体から判断するに野良猫らしい。牟児津がしゃがむと、猫はゆっくり近付いてくる。牟児津にあごを撫でられて気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「よしよし、可愛いね」
また一つ生垣がガサガサと揺れる。2人が目をやると、小さな黒色が緩慢に現れた。
「やあ、野だぬきだ」
それはたぬきだった。ずんぐり丸い体に短い手足でのそのそ歩く。自然の多いこの学園では、それほど珍しい生き物ではない。牟児津に撫でられていた猫と入れ替わるように、たぬきは牟児津の手に擦り寄ってきた。
「よしよし、いい子だね」
さらに一つ生垣がガサガサと揺れる。2人が目をやると、小さな白色が軽快に躍り出た。
「やあ、野オポッサムだ。よしよし、賢いね」
白い顔に赤い鼻のオポッサムが、生垣から一直線に牟児津の手を目掛けて走ってきた。丸まっていたたぬきを追い払い、そのまま牟児津の手から肩まで駆け上る。人に慣れているようで、可愛がる牟児津の指先を全く怖がらない。
そのとき──。
「あっ!!」
突然、背後から声がした。オポッサムだけでなく、牟児津と瓜生田もその声に驚いて身を強張らせた。何事かと振り向くより先に、どやどやと人が押し寄せてくる。行く手を阻むように、逃げ道を塞ぐように、退路を断つように、たちまち2人を取り囲んだ。取り囲む生徒は誰もかれも手に棒や網やカゴを持ち、いかにも何かを捕らえんという装備だった。
「ひえ〜〜〜」
状況を理解する暇はなく、しかし牟児津はとてつもないピンチに陥ったことだけはなんとなく理解した。肩の上にいたオポッサムはいつの間にか逃げ出し、取り囲んでいた生徒たちによって網で捕らえられている。しかし牟児津にはそれを気にしている余裕はなかった。なんと不幸なことか、牟児津らを取り囲んだ人集りの中から、見覚えのある金髪が歩み出て来た。吊り上がった切れ長の目でヘビのように牟児津を睨み付けている。
「お前は……確か、牟児津だったな」
「ひっ……!」
「あら〜、川路先輩」
名前を覚えられている、と牟児津は背筋が凍った。川路利佳は、伊之泉杜学園の治安維持を担う風紀委員会の長であり、牟児津にとってはトラウマを抱えている天敵でもある。歩み寄ってきた川路は、身をかがめて牟児津の顔を覗き込む。2人の顔がぐっと近くなる。真上から降りてきた川路の手が、牟児津の首根っこを掴む。
「現行犯だ。一緒に来てもらうぞ」
「……!!」
「あのう、私は?」
「お前も来い」
それが牟児津に聞こえていたのかは分からない。なぜ目を付けられたのかも分からず、何が起きたのかも分からず、牟児津は声も出せないほど怯えていた。そして、たったいま歩いてきた下校路を、無抵抗のまま川路によって引き戻されていったのだった。瓜生田はひとまず事態の流れに従い、牟児津の後を追った。
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