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思いがけない癒しにほんわかしていた牟児津と瓜生田だが、入れ替わりに大飼育舎から出て来た上野の顔を見て再び緊張が走った。小飼育舎で会ったときよりは苛立ちも落ち着いたようだが、相変わらず厳しい表情で2人を見ている。
「部長。お忙しいところすみません」
「手短にお願いね」
「はい。それじゃあまず、お昼にカギを借りてからのことを伺いたいんですけど」
「……そうね。今日は午前中最後の授業が体育で、いつもより早めに終わったの。だから一足先に部室に行ってようと思ってカギを借りたのよ」
「そのまま小飼育舎に?」
「ええ。小飼育舎はちゃんとカギがかかってたわ。開けて、手前から順番にご飯をあげたり状態をチェックしたりしていったわ」
「生き物のお世話って大変なんですね」
「いつもしてることだし、生き物は好きだから別に大変と思ったことはないわ」
思いの外、上野はすんなりと話をしてくれた。先ほどは何者か分からない牟児津と瓜生田を警戒していたのだろうが、今は事件の真相解明に向け、いちおうは協力すべき立場であると理解を得られたのだろうか。瓜生田が最低限の相槌を打つだけで、上野はすらすらと淀みなくしゃべる。
「それが半分くらい終わってヒノまるのケージを見たら、中が空だったわ。ケージが開いてたからヒノまるが脱走したのかと思って、人を呼ぼうと思って部室に向かったら、ちょうど旭山さんたちが来たから皆に伝えた、って感じね」
「脱走だと思ったんですか?」
「そりゃあいきなり誘拐なんて思わないでしょ?さっきも言ったけど小飼育舎はカギがかかってたし、入口以外でヒノまるが出入りできるところなんてないし。普通は脱走したって思うわよ」
「でも……最初に誘拐だって言いだしたのは部長だと伺ってますが」
「そうだったかしら。あんまり覚えてないけど、誘拐の可能性を考えたのは本当よ。脱走だとしてもケージのカギをヒノまるが自分で開けられるわけないし。だけど……誘拐だとしてもおかしいわよね」
「おかしいというのは?」
「なんでヒノまるなのかが、いくら考えても分からないのよ」
それは、つい先ほど瓜生田が白浜に尋ねたことだった。上野が同じ疑問を持っているということは、小飼育舎の構造やヒノまるについてよく知っている生物部員ですら、ヒノまるを誘拐する理由はないということになる。上野のその言葉を聞いて、2人はますます訳が分からなくなる。
「結局のところ、部長は脱走と誘拐のどちらだとお考えですか?」
「その質問、意味ある?分かんないけど、風紀委員が誘拐だって言うなら誘拐なんじゃない?」
「風紀委員が誘拐だって言ったんですか?」
「そうよ、実際に誘拐犯を捕まえたっていう報告もあったし。まあ、その誘拐犯がいま目の前にいるから、余計に訳分かんないんだけど」
「だから私は違いますって!」
聞けば聞くほど話がややこしくなっていくような気がした。動物がカギのかかったケージを自力で開けられるはずがないから、外部から人の力が加わっているのはほぼ確実だ。しかし誘拐だとすると、敢えて連れ出しにくいヒノまるを狙う理由が分からない。しかも、牟児津が取り囲まれる直前、ヒノまるは草むらから飛び出してきたのだ。誰かに攫われたのだとしたら、野生のように駆け回っていたのはおかしい。脱走だとしても誘拐だとしても、一連の出来事のどこかに説明できない箇所が生まれてしまう。
「誘拐犯捜そうとしてんのに、そもそも誘拐かどうかも分からないってなんだよ……。脱走だったらこれ、私どうすりゃいいの?」
「脱走の証拠を見つければ、連れ出したんじゃないってことの説明になるかな」
「脱走の証拠って?」
「うーん、分かんない」
「そりゃないようりゅ〜!助けて〜!」
「私もう戻っていいかしら?」
話を聞いて前進するどころか余計にこんがらがってしまい、牟児津は頭を抱えた。真犯人を見つければ潔白を証明できると考えていたのに、真犯人の存在すら疑わしくなってきてしまった。どうすればいいか分からず瓜生田に泣きつく牟児津と、泣きつかれながらも呑気に笑う瓜生田。そのやり取りを、上野は冷めた目で見ていた。
その緩んだ空気を、甲高い金属音が打ち砕いた。大飼育舎の中から大きな音がしたのだ。軽い金属が転がるような音と液体が床に流れ出す音。それらとほぼ同時に部員たちの悲鳴も聞こえた。
「どうしたの!」
上野がとっさに大飼育舎の中に戻る。牟児津と瓜生田は驚いて出遅れたが、上野に続いて大飼育舎に入っていった。
慌てて駆け込んだが、大飼育舎の中はそれほど深刻な事態は起きていなかった。床に転がった空のバケツと倒れたモップ、そして辺り一帯に黒いシミを作る水たまりがあった。どうやら掃除用に水を汲んできたバケツを誰かが倒してしまったらしい。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です……!ああっ!」
部員たちが靴を濡らさないように気を付けつつ、ケージが水に浸かってしまわないよう手当たり次第に移動させている。バケツを倒したらしい部員がケージのひとつを見て声をあげた。水をこぼしたにしては大袈裟な、今にも泣き出しそうな顔だ。ケージを持ち上げると、中の動物がぐったりと横たわっていた。
「ヒ、ヒノまるちゃんが……!ヒノまるちゃんがあ……!」
「うわっ!えっ?も、もしかして……死んじゃった?」
「ひいいっ!」
そのケージはヒノまるのものだった。中のヒノまるは完全に脱力したように口を開き、中から舌がだらりと垂れている。目は苦悶するように閉じて細くなり、全身から生気が抜けたようだ。牟児津が見たままの感想を口走ると、ケージを持ち上げた部員の目から涙があふれだした。さすがに上野も焦ったようで、部員と一緒にケージを水から離して降ろすと、中からヒノまるを取りだして様子をみた。
「……ふぅ」
しばらくヒノまるをまさぐっていた上野は、ひとつため息を吐いた。無念さなどは感じられず、むしろ安堵しているようにさえ聞こえた。
「安心して。ヒノまるは大丈夫よ」
「で、でも……こんなにぐったりして」
「これはね、擬死行動っていうの。死んだふりよ」
「へ?」
「へぇ?死んだふり?」
上野はべそをかいている部員に向けて言ったのだが、近くで聞いていた牟児津が上野の言葉を復唱した。
「オポッサムは、身の危険を感じると死んだふりをする習性があるの。きっとバケツの音にびっくりしたのね。特に怪我をしたわけじゃないみたいだけど、大きい音はストレスになるから気を付けましょうね」
「は、はい。ごめんなさい……」
「へえ〜、動物って死んだふりとかするんだ」
「ウサギやタヌキもするよ。狸寝入りって言葉があるでしょ」
「うりゅはなんでも知ってるなあ」
顧問や部外者には厳しい上野だが、部員に対しては全く厳しい顔をせず、優しく注意するに留めた。旭山が言っていたとおり、牟児津たちが知る厳しい態度は余裕がないからで、本来はこの動物と部員に対して向ける顔が似合う、優しい人間のようだ。
上野たちはヒノまるをケージに戻すと、こぼれた水が広がらないようにモップで隅に寄せ始めた。牟児津は好奇心から、その隙にこっそりヒノまるのケージに近付く。中のヒノまるは、体を丸めたままぴくりとも動かない。
「うわすげ〜。本当に死んでるみたい」
「ムジツさん。あんまり近付かない方がいいよ」
「え──お゛っっっぐっっ!!」
「オポッサムは死んだふりするとき死臭も出すから」
「早く言ってよ!」
不意に鼻を襲った悪臭で、牟児津は思わず野太い声を漏らした。声に反応して上野たちが牟児津の方を振り返ったので、慌てて瓜生田のもとに戻って何でもない風を装う。ちらとヒノまるのケージを見ると、すでに何事もなかったかのように動き回っていた。呑気なものである。
「ん〜?どうかしたか」
「あ、つばセン」
そこへ、説教を終えたらしい大眉が戻って来た。後ろにはげっそりした様子の八知もいる。どうやらかなり叱られたようだ。いい大人が叱られて元気を無くしているところを見て牟児津は少し面白く感じたが、その無礼な感想は上野の声に阻まれて言葉には出せなかった。
「八知先生。部室からタオルをいっぱい持って来てください」
「ええ?俺たったいま部室から戻ってきたところなんだけど……」
「すみませんが、お願いします」
「はいはい。ったくもうしょうがねえな」
「八知先生」
「はーい。行ってきます」
戻るやいなや上野の指示を受けて、八知は部室にとんぼ返りした。相変わらずやる気のない態度だが、大眉が名前を呼んで釘を刺すと、背筋を伸ばして小走りで向かって行った。どうやら説教の効果は少しだけあったらしい。走って行く八知の背中を見て、大眉が深い深いため息を吐いた。
「先輩教師ってのも大変だね、つばセン」
「お前は生意気なこと言うな」
牟児津のにやけた顔に、大眉は疲れがのぞく呆れ顔で返した。
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