第2話「知るわけないじゃん……」

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 瓜生田が去った後の生物部部室は静かなものだった。部員はみんな飼育舎の方で作業をしており、川路も今は別の場所にいる。聞こえるのは風にそよぐ草木の葉音と学園そばの道路を通る車の音だけだ。何の疑いもかけられていないきれいな体であれば、気持ちの良い夕方だと感じたかも知れない。しかしいま牟児津の心は、いつ川路が帰ってくるか分からない緊張感と、帰ってきたらどうしようという焦燥感と、早く瓜生田が大眉を連れて帰って来てほしいという期待感とがごちゃ混ぜになっていて、日常のわびさびなど感じている余裕はない。ただ座ってもいられないなので、立ち上がって辺りをうろうろしている。  「あーやべ、落ち着かね。しぬしぬしぬしぬしぬしぬしぬしぬしぬ。緊張でしぬ。ヤバすぎてしぬ。てかもうあの人帰ってくんなし。帰って来るならうりゅにして。うりゅしか帰って来なくていいよもう。うりゅ早くぅ……うりゅぅ……」  震える心のままに言葉を吐いて不安を体外に排出しようとする。しかし泉のように溢れてくる不安に対して閉め損ねた蛇口のような排出速度では間に合っていない。胸の底に沈んだ不安の(おり)を撹拌して薄めるように、辺りをうろつく牟児津の足はどんどん速まっていく。  部室とされている東屋の庇からはみ出し、周りの砂利道や草むらにまで立ち入る。今の牟児津にとっては不安を紛らわせるために歩き回るのが最優先で、足下のことにまで気を配る余裕がないのだ。とにかく歩き回る。緊張をほぐすため、不安を和らげるため、念仏のように感情を吐き出しながら牟児津は歩く。しかしそれは唐突に止まった。  「うわっ!?」  踏みしめた地面が後ろに滑った。支えを失った牟児津は前のめりに倒れる。受け身をとることもできず、顔面をもろに打ち付けてしまった。  「ぎゃっ」  重たい音と鈍痛が頭に響く。何が起きたか理解するのは一瞬だが、理解したときには遅かった。牟児津はすでに、草むらでうつ伏せに転んでいたのだった。土と雑草が放つこもった臭いが鼻を覆う。髪にも口にも体にも汚れが付いた。緊張で強張っていた体からすっと力が抜けて、牟児津は気怠げに首をもたげた。  「へへっ……やってらんね……」  たった1人で待たされることが不安で仕方なく、独り言をつぶやきながら歩き回っていたら転び、受け身も取れず全身が汚れた。状況を自省して、牟児津は泣きそうなほど自分が情けなくなった。もっと落ち着きのある瓜生田のような人間になりたいとも感じた。  「いたた……もう、なんだよこれ」  体についた土を払って牟児津はゆっくり立ち上がる。自分を転ばせた原因を探るため足下に目をやると、実に明確な原因がそこにあった。  それはタオルだった。くしゃくしゃに丸まった白いフェイスタオルだ。土に汚れているのは、たったいま牟児津が踏んだせいだけではないようだ。しかしずっと放置されていたにしては汚れが染みていない。妙な汚れ方だった。隅にサインペンで“生物部”と書いてある。どうやらこの部の備品のようだ。  「なにこれ、きたな──お゛っっっごっっっ!!くっせえ!!」  生物部で使用していたことに加え草むらに落ちていたので、手に持っているだけでもかなりの臭いがする。小飼育舎と同じ獣臭の中に、極めて不快な悪臭も混ざっていた。牟児津は拾ったことを後悔し、コンクリートになっている部室の隅に放り捨てた。処分は部の関係者に任せよう。そして今度こそ大人しくしていようと、木製の椅子に腰掛け直した。  そこへ、小飼育舎の方から八知がやって来た。小屋の扉を開けておく仕事は終わったらしく、何やら冊子をつまらなさそうに眺めている。テーブルにその冊子を置くと、やる気のなさそうな態度で椅子にどっかと腰を下ろした。冊子のタイトルは『生物部活動日誌』だった。どうやら顧問として勉強をしていたようだが、捗っていないようだ。  腰掛けて一息吐いてから、八知は斜め向かいに座る牟児津に気付いたようだ。  「あ、風紀委員じゃない子」  「牟児津です」  「へー」  牟児津が名乗ったとき、たいていの相手がする反応は3パターンに分けられる。珍しい苗字だという感想を述べるか、漢字でどう書くかという質問をするか、その両方かだ。しかしこの八知という男の反応はそのどれでもない。全く興味なさそうに、ぼーっとした目で遠くを眺めていた。おそらく大眉よりも若い、大学を出て数年といったところなのだが、その雰囲気はひどくくたびれている。あまりにもやる気がなさ過ぎてオーラが老けている、と牟児津は感じた。  「さっきそこにタオルが落ちてましたよ」  「え?タオル?」  「汚いし臭かったからそこ置いてます」  牟児津が指さした先を八知が見る。くしゃくしゃに丸まったタオルがコンクリートの床に落ちている。八知は立ち上がってそのタオルを拾いに行った。いかにも汚いものを持つように指先でつまんだそれを、八知は気味悪そうに眺めてから、近くの適当なラックの下に詰め込んだ。  「え、なんで?」  牟児津は思わず声が出た。行動の意味が分からなすぎた。  「やだね。汚いタオルって」  「いや、なんでそんなとこ詰め込むんですか」  「だってどこにしまっとけばいいか分かんないし」  「しまうっていうか汚れてんだから、普通に洗濯カゴとかに入れときゃいいんじゃないですか?」  「洗濯カゴかあ。どこだっけ」  「知るわけないじゃん……」  なんだこいつ、と口にするのを牟児津はぎりぎりでこらえた。教師以前に大人としてだらしなさ過ぎると感じた。いくら石純の穴埋めで急遽採用されたのだとしても、それを言い訳にしてだらだらすることが許されると思っているのだろうか。この八知という男からは、責任感とか使命感とか、そういったものが一切感じられなかった。  こういう大人にはならないようにしよう、と牟児津は心に固く誓った。
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