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夜の都会。キラキラ輝く表層の底にわだかまる闇の中を、一人の男が走っていた。
「いたか!」
「こっちじゃない!」
「あっちへいったぞ!」
怒号が飛び交う方向を避けるように進み、ばらばらと足音が遠ざかるのを聞いて、足を止め耳を澄ます。
と。
静寂の中に、ゆっくりとした、けれども確実にこちらへ近づいてくる、落ち着いた様子の足音を聞きとり、男は顔を青ざめさせた。
やつだ。
音を立てないように慎重に、その足音から遠ざかろうとする。
闇と悪臭が立ち込める路地裏を、右へ、左へ。だがその甲斐なく、足音は近づいてくる。足音は一定のリズムを刻んでいる。走ってなどいない。なのになぜ、すでに小走りになっている自分が、距離を取ることができないのか。
きっと、もう少し行けば。もう少しだけ時間を稼げば、逃げ切ることができるのに。
もはや音を気にする余裕もなく、息を切らせながら一つの角を曲がる。すぐ後ろ、まさに今男が後にしてきたその通りに、間をおかず足音が入ったきたように感じる。もうだめなのか。足を動かしつつも胸の内に覚悟が芽生えた、まさにその時。
「こっちだ」
傍から声がする。見ると建物と建物の間に、朽ちかけた小さな木戸があり、そこを押しあけて何者かが男を手招いている。
躊躇は一瞬だった。もしこれが何かの罠だとしても、このままでは間もなくあの足音の主に捕まってしまうだけだ。どちらにしても破滅するだけなら……賭けてみる価値はある。
男は招きに従い、路地裏からさらに細いその隙間に潜り込んだ。
細く暗い隙間を奥へ奥へと誘うそいつの顔を、男ははっきりとみることができなかった。わずかにもれ入ってくる光はあまりに頼りなく、その上なかに入ってからはそいつはずっと向こうを向いていた。最初に手招きしていたそいつの姿を思い出そうとしても、あまりにも一瞬のことだったせいか、全てが曖昧で思い出すことができない。
ただ時折、隙間から別の隙間へ、折れ曲がり分岐して続く、意外なほどに複雑な隙間のネットワークの中で道を指し示すとき、「こっちだ」と小さな声が聞こえるばかり。その声も高い男の声なのか、低い女の声なのか、ひょっとすると少年の声なのか、どうにも判別し難い。
やがて突如として、男は自分が、建物に囲まれた、二メートル四方ばかりの空間に立っているのを発見した。街が無秩序に形作られていく中で、奇跡のように取り残された、僅かな別世界。
「ここまでくれば大丈夫だ」
そいつは言った。
「少し、待て」
男は改めてそいつを見つめる。相変わらず闇は深く、その上よくみるとまぶかにフードのようなものをかぶっていて、相変わらず顔を見てとることは困難だ。だが、全身をコートのような長い衣服で覆っているらしいことは、そのシルエットから判別できた。
「なあ、あんた」
一息ついた後、男は話しかけた。
「助けてくれたんだよな? ありがとよ。だがなんだって、見ず知らずの俺を」
「王の思し召しだ」
「王? 思し召し?」
意外すぎる答えに男は目を丸くした。
「なんのことだ。どっかの小国の王様でもお忍びでやってきてるっていうのか」
「なあお前」
そいつは質問に答えずに、話し始めた。
「お前、足は早い方か?」
「なんの話だ」
「いいから、答えろ。どっちだ」
「それは……遅いほう、かな」
「子供の頃は? 例えば、鬼ごっこはやったか。どうだった」
「そりゃ、大体すぐに捕まったし、鬼になれば誰も捕まえられないし」
「それだけか。逆に、最後まで残ることはなかったか」
「それは……」
遠い記憶が呼び覚まされる。そうだ、そういえば……すぐに捕まるか、最後まで一度も捕まらないか。大体はどちらかだったような気もしてくる。
「そうかもな。特に缶蹴りやなんかだと、最後まで捕まらないこともそれなりにあった」
「なぜだと思う」
「知るか」
そいつは身を震わせた。笑っているのだろうか。
「それは、お前が、長距離タイプだったからだよ」
「長距離?」
「人には主に二つのタイプがいる。短距離タイプか、長距離タイプか。短距離タイプはスタートダッシュに優れているが持続力に欠ける。長距離タイプは最高速度は短距離タイプに及ばないが、そのかわり長い距離を安定して一定以上のスピードで走り続けることができる。鬼ごっこで言うなら、鬼に見つかった時点で一定の距離が保てていれば、かなり長いこと逃げ続けられるのが長距離タイプだ。だが、特に鬼が短距離タイプだった場合、近くにいるのに気づかれたら、まず逃げきれない。逆に短距離タイプが逃げる場合には、いかに早く相手の目を逃れ隠れる、ないし他のターゲットに目標を変えさせるかが勝負になるだろう」
「なんだよ、いったいなんでこんなところで鬼ごっこの講義なんか」
「まあ聞け。この短距離タイプと長距離タイプの特性だが、自然界ではおおよそ捕食者と被食者の関係に当てはまる。肉食動物はスタートダッシュに優れ、近くまで忍び寄って一瞬で獲物を捉えることが多い。一方草食動物は、捕食者の接近をいち早く感じ取る鋭敏な感覚と、長い時間逃げ続けられる持続力に優れている」
「だからそれがどうしたと」
「思ったことはないか。自分はなぜこんなに逃げてばかりいるのだろうと」
「何?」
「誰かに食い物にされ、そこから逃げ出す。お前の人生にはそんな場面が多かったんじゃないか? たまに相手を騙そうとすれば、失敗して結局は追われる立場になる。今回のように」
「お前、何を知ってる?」
「やはりそうか。別に知ってていっているわけではない。お前の置かれた状況からの推測に過ぎない。そして、お前のような長距離タイプは、往々にして、そう言う状況に追い込まれがちなものなのだ」
「なんだと」
「短距離タイプと長距離タイプがいるということは、とりもなおさず、人間にも、食う側と食われる側がいるってことなんだよ。その上、思い出しても見ろ、小学校の運動会や体育の時間で、長距離タイプが評価される機会がどれだけあった? 足が速い男子はモテると言うが、そのベースになるのはほとんどが短距離走だ。それに対して、スタートダッシュの遅い長距離タイプが評価される機会はほとんどない。どちらだって、形は違えど「生き残るための優れた資質」ではあるはずなのに、長距離で早く走れることをアピールする機会がないんだ。その結果、長距離タイプは自分の身体能力に対する無力感を募らせるケースが多い。自分はあいつらに敵わないと、刷り込まれてしまうのさ。ただでさえ、『食われる側』だと言うのにな」
「そんなことが……」
「違う、と言い切れるか。自分の人生をよく振り返ってみろ」
「……」
男は黙った。心当たりが多過ぎた。小学校五年生で、ほのかな初恋の相手が目で追うのが、運動会のヒーローだと気がついたあのとき。あの時から、自分の敗北の連鎖は始まっていたのではなかったか。
「さて、一方で、人間には、じつはあと二つのタイプがいる。一つは万能タイプ。長距離と短距離の利点を併せ持つ、一種の化け物だ。こういうやつらは数は少ないが、その特性を活かして、周囲から全てを奪いとってある種の支配者として君臨するようになる。そしてもう一つが、単純に、足が遅いタイプだ」
「いいとこなしってわけか」
「そう思うか? だが、考えても見ろ。奪い奪われ、食うか食われるか、そんな世界の中で、足が遅いだけの遺伝子が、どうやって生き延びてこれたと言うんだ。追うものにはあっという間に捕まり、追われるものを捉えることもできない、そんな遺伝子は、早々に淘汰されるほうが自然だ」
「何が言いたい?」
「答えは一つ。足が遅いタイプが生き延びてこれた理由は、他に圧倒的な利点があるから。いや、むしろ、それがあるからこそ、彼らは足を早くする、という進化をする必要がなかったのだとも言える」
そいつは一旦言葉を区切り、空を見上げた。
そろそろ時間だ。王がお会いになる。ついてこい。
男は戸惑いながらも、他に行くあてもなく、そいつに従った。再び隙間のネットワークの中へ。ある時点でそいつは「くだるぞ」と声をかけた。なんのことかと思ったが、確かにその先には細い階段のようなものがある。周囲がどうなっているのか、その頃には男にはもうよくわからなくなっていた。細い道を延々と進むうちに、現実把握能力が失われていったようだった。夢の中を進むような心地で、男は長い階段を降りた。降り続けた。そして、ついにそれが終わったのは、薄青い光に照らされた、広大な洞窟のような場所だった。
「王だ」
そいつが跪き、言った。
そこにあったのは、一つの巨大な塊だった。
蠢き、息づき、脈動する、巨大な肉の塊。
「王はまだ世に出る時ではないと言われる。今はその日のために、お前のような、行き場のなくなった人間を集め、勢力を伸ばしているところなのだ」
そいつの声すら、遠くに聞こえていた。
一瞬で、理解した。
王だ。これは王だ
その天性である、絶大なカリスマと、超常能力か催眠力のような、説明不能の支配力によって、周囲の全てを結び、統べ、繋ぎ止める存在。
彼を知った全ての存在が、従うこと以外何も考えられなくなり、喜んで忠誠を誓い、命すら投げ出すことを厭わなくなる、そんな存在。王の中の王。
逃げる必要がなく、自ら生きるために動く必要もないが故に、際限なくその身を肥太らせた存在。その肉と脂肪こそ、すなわち高貴の証。
男は歓喜の涙を流しながら、恍惚として王の前に跪いた。
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