犬飼夏月

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車が去った後は、門扉にあるライトだけが小さく光っていて、遠くを見てももう何も見えない。 怒りや悲しみ、いろんなものが入り混ざって、不思議と心は穏やかになっていた。 「沙羅……今日は私の部屋においで。美和に気付かれちゃう」 住み込み部屋は子供部屋とは離れているので、気配を気にしながら食堂を過ぎて、四畳半の自分の住み込み部屋に沙羅を連れて行った。 「服と下着。とりあえず私ので良いよね。そのジャージだと大きすぎる。あ……砂が。シャワー行ける? 嫌だったらタオル濡らして来てあげるよ。どうする? 」 「タオル……にする」 食堂に戻って、牛乳をカップに入れてレンジに入れる。子供の頃、砂糖の入った温かい牛乳がチョコレートを貰うくらい特別だった。お湯でタオルを濡らし、温まった鈍い優しい香りのマグカップを手に取る。 「体拭いてから、これに着替えな。私のだけどサイズ大丈夫だよね……」 「……ありがとう」 そろそろと体を拭く沙羅を見て、ああ。まだこの子は穢れていないのだと思った。奪われていない。失っていない。逃げ出せる勇気があって良かった。この施設に居る子たちは生まれながらに、与えられるべき愛情が少ない。だからせめて……この子達から生きる希望だけは取り上げないで欲しい。 「ホットミルク飲みな。温まるよ」 「……ありがとう」 「足……傷付いちゃったね」 汚れた足をタオルで拭くと、血が滲んでいた。砂でざらついた冷えた指先。一本一本、拭い取る。 「……沙羅……お金が欲しかったの? 」 「……うん」 沙羅のマグカップは小学校の修学旅行で自分で絵を描いてきたもので、大切に使っている。カップを持つ手があの頃とリンクする。沙羅は大人になった。 「彼に……会う為に? 」 「……うん」 「……そっか。私はあんまり良く分からないんだけど、その……デリヘル? とか売春……は、どうやってそのお客さんを見つけるの? 自分で? 」 偏見を持ってはいけない。私たち施設で育つ人間はただでさえ偏見の目で見られている。どんな仕事をしている人にだって偏見を持つなんて間違っている。だけど……心が穏やかではいられなかった。 「……友達に……良いバイトがあるって誘われて……最初は普通にオジサンとご飯食べたりカラオケ行ったりするだけだったんだけど……その……ホテルに行って……下着見せるだけで……5万円くれるって言われて……そ、そしたら、下着の上から、さ、触ってきて……舐め……ようとしてきて……あ、あたし……気持ち悪くなっちゃって……手を振り払ったの。それで思わず「キモっ」て口にしたら……相手の人が怒っちゃって……」 沙羅の言葉に耳を塞ぎたくなった。怒りや悲しみを超えて、腹の奥が虚しさに襲われていく。 「……暴力を振るわれたの? 」 「頬っぺたは叩かれた。ぎゅっと腕を掴まれて、それで下着脱がされて……」 口を開けば責めてしまいそうで、頷くことしか出来なかった。 「気が付けば全部脱ぎ捨てて、逃げ出してた。携帯は……携帯だけ手に取れる場所にあったから……携帯だけ掴んで……」 「……そう。それで逃げてきたの」 誰が悪いか。何が悪かったのか。悪いものしかないこの出来事に、言葉が詰まる。胸が痛む。叫びたくなった。
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