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しんでれら
薄暗いと感じたのは、ほんの一瞬であとは壁に埋め込まれた大きな水槽が光っている事とか、慣れないヒールを履いた足を乗せたカーペットの上がふかふかで心地良かったとか、ダークグレーのスーツに白いワイシャツが映えていて、肩につくくらいの髪を後ろで少し束ねている九条さんが格好良かったとかで頭はいっぱいになっていた。
「こんばんは。まさかお酒が飲める所に行きたいなんて言われるとは思いませんでした」
真っ直ぐに伸びた光沢のある黒いカウンターテーブル。そこに手を置いて座っていた九条さんは立ち上がって、私の方へ、その手を差し出した。それは手を乗せるべきものなか、こちらへどうぞ。の意味なのか分からず、会釈だけしてそばに寄った。
重厚感のある黒革の椅子をくるっと回し、すっと伸びた指先でそこに私に座るように促す。
「……私もたまには飲みたい時があるんです。でも友人もいませんし、お店も知らないので」
「カウンター以外の席にはお客さんは来ますが、このカウンターは今日は貸切です。それとマスターはお客の注文や接客に必要な言葉は聞き取れますが、その他の会話は聞こえない特殊な耳をお持ちです」
「ようこそ。いらっしゃいました」
その特殊な耳を持つというマスターは、すっとした細身の体型で、目尻のしわが人柄を表しているのような優しそうな人だった。柔らかな目を細め、軽く微笑んだ表情は妙に色気があって、私なんてすぐ手玉に取られてしまいそうだった。
「……あ、ありがとうございます。とても素敵なお店で……」
「ありがとうございます。九条さまにはいつもご贔屓にして頂いております。本日はどうぞごゆっくり」
心地の良い声が場違いな自分を受け入れてくれたように思えた。軽く会釈をされ、優しい香りをしたおしぼりを手渡される。冷えた指先に熱を持つおしぼりがじとっと体温を上げてくれて、胸の高揚感と共鳴していくようだった。
「お飲み物はいかがなさいますか? 」
「あ……その……こんな場所でどんなものを頼めば良いのか……分からなくて……その……」
「あーメニュー表あったっけ。マスター。大丈夫だよ、わんちゃん。気取る必要はないから。好きなものを好きなだけ。マスターはホットミルクだって出してくれるよ」
「ホットミルク……? 」
「めーっちゃ疲れ切ってて、連日飲みすぎてて、もう酒も不味くて、煙草しか口にできなかった時……ハチミツの入ったホットミルク貰った時あるの」
九条さんは頬杖をついて、少し唇を歪ませ満足そうに笑う。
「めっちゃ美味かったよ。甘いもんなんていつも口にしないけど、胃に染みるって言うか、荒れた口の中が甘みで保護されていくみたいなね」
その表情が無邪気な子供みたいで、私も好きです。とは何となく言い出せなかった。
手渡された細く小ぶりなメニュー表に書かれていたのは、職員達で行くランチメニューなんかより、ずっと高く、ビールと書かれたもの以外は読めそうも無かった。
「嫌いなものはない? 」
「あ、はい」
「じゃあマスター……」
九条さんはマスターを手招きし、耳元でこそっと話した後、マスターはすぐカクテルを作り始めた。計りのようなものにお酒を入れると、マスターの流れるような仕草に目が奪われていく。
「ここなら大丈夫そう? わんちゃんの条件に合った? 」
「えっ? え……何でしたっけ」
テレビでしか見たことのないシルバーのシェイカーは、最初ゆっくりとシャカシャカと音を奏で、瞬く間にスピードを上げていく。氷が液体と同化していくリズムカルな気持ちよさ。程よい存在感が相まって、すぐにパッとマスターの手が止まった時は物足りなさでいっぱいだった。
もっと聞きたい。もっと見たい。思わず「もう一回」と言ってしまいそうになった。
「人目がある所で、ヤクザしか居ないお店は嫌。裏路地とか怪しいクラブとかは駄目で、俺と酒を飲む場所に対しての条件がいっぱいあって、ここはそれをクリアした場所なんだけどさぁ。でもさぁー傷付いた。傷付いたなぁー。俺って信用ないなー」
長い指先を一つ二つと折り曲げながら、九条さんは悪戯そうに笑う。電話口で、文句のような酷い条件をつらつらと述べる過去の自分を思い出した。
「すっ……すみません。で、でもそれは九条さんだからと言う訳では無く、やはり自分の身は自分で守らなければなりませんので、相手がどなたであろうと男と女が2人きりと言うのは……」
「堅いなぁーわんちゃんは。お礼したいのか貶したいのか、とにかく俺があまり歓迎されていないのは良く分かっております」
「まさかっ。本当に心から感謝していますから」
「あはは。冗談だよ。少しだけ……不貞腐れてみただけ」
「あ、あ、これお借りしたスーツとジャージ……あ、サンダルも。本当に本当にありがとうございました」
手に負えない自分の性格。目を背けるように慌ててスーツとジャージ、洗ったサンダルと新しいサンダルを入れた紙袋を手渡した。
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