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「しんどそうな顔してるから。でも人に簡単に言えるもんなら苦労しねぇよな。気楽に聞いてごめんよ」
そう言って、九条さんは腕時計の巻きついた腕をカウンターの上に置いた。グラスの中の氷がカランと鳴って、質問されていた意味に気付いた。
「俺は言えないことまみれ。大きな壺でもあったら、そこに叫んじゃいたいな」
「えっ。壺……ですか? 」
「そうそう。何かアニメとかでなかった? 叫んだら、嫌なことも全部その壺が吸い込んでくれる……みたいな」
「あはははは。何か可愛いですね」
「欲しくない? その壺……あ! あ、違うよ? あの良くある壺を売りつける詐欺じゃないからね。ほら! 手ぶらでしょ? 」
九条さんは慌てて両手をぱっと開いて笑った。
「あー笑った」
「え……」
「さっきから、ここ……シワ寄ってるような顔してたよ」
そう言って私の眉間に指先をトンとあてて、少し唇を尖らせるように笑った。少しだけ触れた指先から、目の前に広がった大きな手に飲み込まれてしまいたいと思った。
視界に入った九条さんの腕時計の針は重なっていた。もう12時だ。
「もう帰る時間? 」
ほんの2秒くらいだと思ったのに、九条さんは私の視線を感じ取ってぱっと腕時計を見た。
「シンデレラみたいだね」
そう言われて「シンデレラ」なんて言葉は、どこのタイミングで聞いたとしても悪い気がしないものだと思った。
例えば施設の子供同士が喧嘩をしてる最中でも、小学校の父兄が
「おたくの施設の子達はどう言う教育をなさっているのですか? だから親の居ない子は……」
などど差別万歳、屈辱満載の言葉を浴びせられている時でも「シンデレラみたいに貧乏なくせに」と言われたら、そこまで悪い気もしない気がした。
「……シンデレラでは……」
謙遜するつもりだったのに、本当にシンデレラのように魔法のかかった時間だったことに気が付いた。
「ヤクザは……嫌いですか? 」
「え……」
そう言って私に微笑んでから、九条さんはマスターに指先で合図をした。マスターは電話を取り出し、カウンターからキッチンへと姿を消す。
前にもされた同じ問いに、自分の中の答えが変化していることに気が付いた。
「今度は……何も言わないんだね。じゃあちょっとあっち向いて」
「えっ……」
そう言うと私の座っている椅子を回転させ、出口に向いた所でピタッと止めた。
「今タクシー頼んだ。また会いたいと思ってくれるなら、このままそのタクシーに乗ってホテルに連れ込むよ。それとも、こんなヤクザにそんな事言われて、最低! やっぱり体目当てだったのね! もう! こんなヤクザとなんて2度と会いたくないわ! と思ったのなら振り返らないで……このままタクシーに乗ってお帰り。今夜はたまたま出会っただけ。もう会うことはない」
茶目っ気のある喋り方で途中笑ってしまいそうになった。だけど最後の落ち着いたトーンは九条さんの本音だろうと思った。
ヤクザのあなたを断ち切る事に罪悪感が残らない言葉だった。
私がこのまま振り返ったのなら、あなたはどんな顔をするんだろう。少しは驚いて喜んでくれるのだろうか。それとも、勘違いをした地味な女と溜め息をつくのだろうか。
慣れないヒールの指先に力を込めて、振り向いた先の未来が脳内に広がる。ただ振り向けば良いだけ。私はこの人に触れることができる。
「……あの……」
少しだけ後ろに向けた視界に九条さんが映る。強引に腕を取って抱き寄せてくれる姿を望んだ。だけどきっと彼はしない。そして言いかけた言葉を吐き出すことも出来ずに、彼の姿を見ることをやめた。
私は私の人生を守ることにした。夢は見れない。
手に入れることが出来ないものなんて、この世にたくさんあって、私はそれを諦めることにも慣れている。交わってはいけない人。差別されてきたからこそ、差別は嫌いだ。幼い頃から私を見下してきた人達が憎かった。だけど結局、差別することが自分の身を守ることに繋がっていると思うと、どうにもやり切れない。だけどきっと今日こんなにもやり切れないのは、彼に強引にでも連れ去られない自分の価値。心は矛盾だらけだ。
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