犬飼夏月

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「あ……あなた……この人の上司? 悪いんですけど、この子は未成年なので連れて帰ります。そっちだって営業停止になりたくないでしょ? 」 沙羅を体に引き寄せ、上擦った声を勢い任せに吐き捨てた。男の刺すような瞳に思わず視線がぶれる。 「上司って訳では無いけど……営業停止は……んー確かに色々と困る立場にはいるかな。でもまだ22時前だし、彼女がマナトに店外で会ってる分には何にも問題ないんじゃないの? 」 「いいえ! この子は未成年なんです。まだ大人の保護の元で過ごすべきなんです。それを大人の男の人が揃いも揃って、こんな時間に女の子が出歩くのを良しとしている時点であなた達は間違っているわ。本当にこの子の事を考えるのであれば昼間に会うなり、こんな時間帯に出歩く事を注意するべきです」 「……ちょっと! もっもう……止めてよ! なっちゃん! わ、わかったから……も、もう……止めてよ」 「なっちゃん……の方がよっぽどこの子に嫌がられている気もするけどねぇ。この子のママって年でも無さそうだしお姉さんかな? 」 少し目を細め、薄く形の良い唇は私を諭すように笑う。スーツ姿の彼らの視線は私に集中し、それは動物園のパンダを愛でるというより、当然ながら、間抜けなピエロが次は何をするのだと言う好奇の目だった。 空気が読めないなんて分かっている。目がくらむ程のネオンに囲まれた夜の町に、自分のよれたパーカーとデニムが悪目立ちしている。それでも、ここで引くわけにはいかない。自分を奮い立たせる様に咳払いをする。 「私は児童養護施設で働いている者です。この子の事は幼い頃から知っています。姉以上、親以上の存在だと自負しています。それなので今後、沙羅と会いたい場合は健全な時間帯にお誘い頂ければ思います。では」 財布から慌てて名刺を取り出し、一番上司であろう九条という男の胸元に押し付ける。他のスーツ姿の男たちがふいっと名刺に目をやった隙に、沙羅の手を引いてその場から逃げるように去った。 もう走れないと思っていたはずなのに「人間やれば出来る」と名言を自分に言い聞かせた。 「沙羅……ねえ……」 「……なっちゃん! 自転車で来たの? 」 言葉から逃げるように沙羅がご機嫌に問いかける。 「自転車置き場分からなくて、ちょっと遠いとこに停めてあるの。沙羅はどうやってここまで来たの? 」 「……バス」 「帰りは? バス無くなっちゃうでしょ? さっきの人が送ってくれるの? 」 「……後ろ乗せてよ。久しぶりに」 「駄目よ。捕まっちゃう」 「良いじゃん。早く帰んないとバレたらヤバいでしょ、なっちゃん」 確かに1分でも早く施設に戻りたかった。自転車置き場まで辿り着いて、サドルに跨ると沙羅が止める間もなく荷台に乗り込む。 「わっ。危なっ」 「あはは。なっちゃん、しっかり! 」 沙羅の体重がずしっと自転車にかけられる。バランスが崩れそうになって、スニーカーに力を込めて慌てて足を踏ん張った。気が付けば汗が夜風に冷やされて、体の熱が下げられていた。沙羅が背中からぎゅっと手を回してくると、沙羅の体温がじんわりと熱を分けてくれる。優しい子だった。と、ふと思い出した。 「行くよっ。捕まったら、どうしよ……」 「なっちゃんは昔から心配性だよね。頭が硬いというか」 「悪いことはしちゃダメなの。必ず自分に返ってくるんだから……」 「自転車の2ケツで自分に返ってくる罰ってなによ。あはは。本当なっちゃん真面目すぎっ。ほらっ! あたしが運転する。なっちゃん後ろ乗ってよ」 「えっ? むっ無理だよっ。沙羅に私乗せて運転できる訳ないじゃん。重いんだから……」 「何言ってんの! あたしもう18になるんだよ。子供じゃないんだから。ほら、早く! 」 力任せに自転車から降ろされると、沙羅はサドルにさっと跨った。早く乗るようにと荷台をポンポンと叩かれて、渋々乗り込む。ルール違反はやっぱり気分が良くない。 「無理だよー。本当に? ちょっと……怖いよ」 「平気! 平気! ほら行くよ! 」 「えっえっ……ちょっと……えー。きゃっっ」 乗り出しに少しグラっとして、すぐに沙羅の体にしがみ付いた。肉付きの良くなった沙羅の体はすっかり大人になっていた。 「あー気持ちいいーっっ。でも寒いー」 「こらっ。夜なんだから声大きいよっ」 「なっちゃんもたまには大きい声出してみなよ。気持ちいいよー。あーっ」 夜の空気に沙羅の声が風を含んで、振動する。真似をして声を出そうかなって思ったけど、恥ずかしくて空を見上げた。月はやけに遠く高く見えて、延々と光が続くように道を照らしていた。あっという間に居場所を変えていく星が見たくて、未練がましく目で追いかけた。 「月が綺麗だねー」 そう言って無邪気に笑う沙羅は立ち漕ぎをしながら、すごい勢いで自転車を走らせていく。 「そうだね」 夜、外に出るのはいつ以来だろうか。混じり気のない澄んだ風がすうっと体に入りこんで、さっきまでの喧騒が遠い昔のように思えた。木の振れる音、風の匂い、終わりの見えない空に自由が降ってくるような気がして大きく息を吸い込んだ。 「なっちゃん鍵は? 」 「あーポケット……」 施設について自転車を置くと、沙羅がポケットから玄関の鍵を抜いていく。 「沙羅……ちょっと待っ……」 小声で沙羅を呼ぶと、沙羅はしーっと指を口に当てて、自分の部屋に滑り込むように逃げ込んだ。少しだけ大きめな声で 「美和を責めないでね」とだけ言った。 その言葉は、自分を擁護しているようで少しだけ申し訳なくなった。 沙羅がここに来た日は良く覚えている。3歳になる頃の小さな小さな泣き虫の女の子だった。 「ママ、ママ」と毎日、泣きじゃくっていた。だけどここに来る子達はそんなものは息をするように当たり前で、誰も同情はしてくれない。寝静まった施設の中は、子ども達の涙が染み込んでいるようで喉の奥が詰まるように乾いていた。そのうちの小さな染みは自分のものだ。何を持って自由なのか、1人外に戻って大きく息を吸い込んだ。体の奥まで空気が通っていって静かに鍵を閉めた。月明かりはここには届いて来ない。
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