犬飼夏月

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次の日の朝、沙羅は少し眠そうな顔で何事も無かったように学校に行った。言いたいことはいっぱいあったけど、子供達の視線が多くて何も言えずに送り出した。 子供達が学校に行ったあとは、洗濯や掃除、庭の手入れなどする事は山積みで、私みたいな住み込みの職員は子だくさんの母のような気持ちにもなる。それは、そうでありたいと思う気持ちと、あくまで職員なんだと言う線引きに日々葛藤する。母ではない。母であってはならない。この子達がこの場所に居られるには良くも悪くもタイムリミットがある。 「わんちゃん。わーんちゃん」 洗濯物を持つ手が冷え始め、曲げては伸ばしての繰り返しに腰が悲鳴を上げ始める頃、犬を探す声に辺りを見回す。 「わんちゃーん! わんちゃーん」 そこには平日の朝には似合わないスーツ姿の男が居た。 「わんちゃん? え……えっ! あなた昨日の……」 「あ! わんちゃん。昨日ぶり! 大丈夫だった? あの子」 「へ? え? わんちゃん? わ、わたしのこと? な、何ですか、その……わんちゃんって」 「犬飼だよね? 犬飼夏月ちゃん。昨日、名刺もらったじゃん。犬飼で、わんちゃん。可愛いでしょ」 見覚えのある名刺をピラピラと泳がせて無邪気に笑っていた。名刺をそんな風に扱う人が初めてで、見入ってしまった。 「いや……でもわんちゃ……」 「ほら! そうやって、しかめっ面ばっかしてるから、わんちゃんって呼ばれた方がずっと可愛いさが増すよ」 可愛げがないのは分かっている。だけど改めて指摘されると胸がちくりとした。 「はい、これ。お土産」 黒塗りの車の助手席から取り出されたのは、高級フルーツの詰め合わせで、大きなカゴが淡い水色のリボンで綺麗に飾られていた。 「……えっ。ちょっ……こんなもの受け取れません。だってあなた……その……」 「これは足長おじさんから渡してくれって頼まれただけ。俺たちは宅配便のお兄さんだよ」 「……でも」 「俺たちも困るのよ。受け取ってもらえなかったら足長おじさんに怒られちまう。宅配便の兄ちゃんが荷物渡さなかったらクビになっちゃうし、食べ物に罪はないだろ? 可愛い子供達に美味しいもの食べさせてやってよ」 「あっ! あ、ごっごめんなさい。ちょっと……」 施設からの人影に、慌てて九条さんとカゴを車の影に引っ張って身を隠した。 「え……なに? 」 「あ……ここの施設長の宮崎さんです。その……怪しまれると困るので……」 「ああ。ごめんね、こんな見た目じゃわんちゃんに迷惑がかかるね。すぐ帰るよ」 思わず触れたスーツは滑らかな生地で、知らない体温に戸惑ってすぐに手を離した。子供のように足を丸めて座り込んだ九条さんがあまりに優しい声で話すから、この人を隠そうとした罪悪感がすぐに募った。 「あの……」 「なに? 」 「あ……いえ。その……」 「もしかして……傷つけたとか思った? 」 九条さんの肩につきそうな髪が風に揺れる。少しウェーブがかかっていて、笑った口元に少し髪が触れる。優しい口調と鋭い指摘に、返す言葉を失う。 「あ……あの……その」 「カウンセラーもやるんだっけ? 名刺に書いてあった気がする」 太陽のせいか瞳はどことなく色素が薄く見えて、車の影に隠れてしゃがみ込んだまま、九条さんは私の顔を覗き込んだ。自分で引っ張り込んでおいて、距離感に戸惑っていた。 「……はい。一応」 「……ヤクザは嫌いですか? 」 「え? あ、その……き……嫌いとか好きとかじゃなくて……」 「冗談。嫌いで当然。真剣に受け止めないで。もう関わらないよ。悪かったな」 そう笑って、九条さんはフルーツの入ったカゴを私に手渡し、声をかける間もなく車に乗り込んだ。 「もう関わらない」その言葉は、自分が望んだ事なのに人に言われると胸が痛む。私の心は随分勝手だ。 施設で働いていると、ここに関わらずに生きて行ける事が子供達の幸せだと思う。時に望まぬ道に転がってしまう子供も多いけど、いつまでも私だけ取り残されているようでたまに息が詰まる。 空を見上げても、雲が覆って私には果てなく広がる空すらも見えないと悔やむことがある。 何故ここに居るのか。行く場所もない。ここで子供達に求められていたい。生きていても良いのだと今にも閉じてしまいそうな人生に余白をもらいたい。だけど、きっとそれは何の慰めもない独りよがりの私の願い。住宅街に似合わない車を見送りながら、自由そうなあの人の笑顔を思い出していた。
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