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贖罪の夜
「わんちゃん……会いに来てくれて……嬉しい」
呼び出されたホテルの部屋に行くと、薄暗い部屋で石鹸の香りをまとい、酷く泥酔した九条さんがいた。
「……だって電話で……」
「ごめん。わんちゃん……そうだよね。無理やり呼び出して……ごめん」
「……私は良いんです……それより九条さん……どうしたんですか? 」
「……ごめん……俺……」
扉を閉めるとすぐに、九条さんはもたれかかるように私を抱き寄せる。あの日、超えなかった一線は泡のように消えた。
髪の毛から水滴がポタポタと落ちてきて、寒くて震えているのかと思ったけど、声が泣いているように思えてそのままそっと髪に触れた。
「何も……しないから。お願い……そばに居て」
九条さんはそのまま私の足にしがみ付くように崩れ落ちて、石鹸の香りの合間に漂白剤のようなツンとした香りを感じた。
「手……どうしたんですか。カサカサだし……漂白剤みたいな……」
「洗っても洗っても……おちない」
追いかけるようにかがむと、少し硬い絨毯のざらつきが足に触れる。
何がだろう。と思って目をやっても薄暗い中では、綺麗な指先にしか見えなかった。
「……ごめん。入れ墨だらけの体で怖いよね。嫌なら逃げて……同情はいらないから」
少しはだけたバスローブから入れ墨が見えて、白い肌に濃い色が痛みのように際立っていた。
「……わんちゃんはお人好しだね。ヤクザの俺が怖くないの? ヤクザなんて関わりたくもないでしょ? 自分で呼び出しておいて……何言ってんだって感じだけど」
「……怖くなんてないです」
言いたい事は溢れるほど胸にあるのに、それを言葉にするのは難しかった。肩からバスローブがずり落ちて、不意に触れた入れ墨は、しっとりとした場所と、少しざらっとした息苦しそうな肌触りで、今の九条さんによく似ていた。
「……やっぱり……嘘。ごめん……同情して。俺みたいな人間はされるべきじゃ無いんだけど……今日だけは……わんちゃんの子供たちに向ける愛情を……俺への同情に変えて」
九条さんの指先が強く体にしがみ付く。奥へ奥へと私の中に入り込もうとするみたいに、体を押し付けてくる。小さく消え入りそうな声が耳元に届いて、唇はかすかに頬に触れていた。
「そばにいて……ひとりにしないで」
何か耐えられないほどの辛い出来事があったことは分かった。小さな声で、そばにいてと繰り返す。理由は分からなくても、心の痛みは十分に伝わってきた。
「そばにいます。ずっとそばにいますから……」
後ろ髪引かれるように帰ったあの日。もう会えないと思っていた。あの時、私が振り返れば……と何度も後悔を繰り返した。ここに来ることに何も迷いはなかった。タクシーに飛び乗って、あなたに会いにきた。
「……ひとりにしないで」
髪に触れていた手で、九条さんの頬を撫でる。髪の毛の雫なのか、頬が濡れていたのかは分からなかった。唇が触れる。生気のない目は私を力無く見て、ゆっくりと目を閉じた。初めてのキスはウィスキーの強い香りと煙草の味がした。
許しを請うような、捨てないでと縋るようなそんな悲しい目だった。私が唇を離そうとすると顔を抑えられ、震えていた唇が激しく音を立てる。噛み付くような舌と唇は、息をする間もなく重なり合った。
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