犬飼夏月

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犬飼夏月

頬を撫でる風は冷たいまま、体温だけはじわりじわりと熱を上げていく。腹の奥から見ず知らずの鉛玉が育ち始め、脇腹の痛みを誘発させる。 気温の移り変わりなんて関係ないように、露出した美しい女性たちは肩をすくめて暖を取ろうとしているのに、私の額と首元にはじっとりとした汗が滲み始めていた。 「沙羅(さら)っ! 沙羅! や……やっと見つけた」 運動をした記憶など学生時代にまで遡らないと思い出せない。訛った体にムチをうって、どれ程の距離を走ってきたのだろうか。もう帰り道を自分の足で歩くことなんて出来る気がしない。 求め続けていた沙羅の細い腕を掴むも顔を上げる気力は失せ、腰を折り曲げて生きる為だけに息を吐き出す。声を発することは、とりあえず後回しだ。 ようやく見つけた安堵と苛立ちが混雑しながら肩で息をする。沙羅の顔が見たくても上下に揺れる体を伸ばすことが出来ずにいると、鬱陶しさを露わにした沙羅の声が聞こえる。 「……なっちゃん」 「沙羅! こんな所で何してるの! 危ないでしょ? 1人でこんな時間に……」 大きく息を吸い込んでから、勢いのまま言葉を吐き出した。薄白い夜空にネオンの光が目ざといくらいに映し出され、行き交う人々は私の張り上げた声に一瞥する。 「……何で……わかったの? ここ」 舌打ちを飲み込むような顔で沙羅が呟いた。秋晴れが残暑を忘れさせないこの頃も、日が暮れてからは暦通りに冬の訪れを感じ始めていた。沙羅の冷えた指先に汗ばんだ手のひらの熱が絆されていく。 「美和に聞いたの。最近、夜抜け出して夜の町に行ってるって」 「なんだよ美和。チクリやがって」 飲み込んだはずの沙羅の舌打ちは吐き出され、大きく溜息をこぼす。 「沙羅! 美和のこと責めたら駄目だからね。私が無理やり聞き出したの! 」 「放っておいてよっ。行く所があるの! 」 私の手を引き剥がして、沙羅は逃げるように走り出す。 「沙羅っ。沙羅! 待ちなさい! もう……走れな……」 「さーらちゃん。今日はお姉さんと一緒? 」 「マナトっ」 不貞腐れた脱兎を捕まえたのは、猫撫で声の男だった。その男は異様なほど光沢のあるグレーの上下のスーツに尖った靴を履いていて、ライオンの様な黄金の立て髪をなびかせる。沙羅の顔を覗き込みながら、慣れた手つきで髪を優しく撫でた。 「沙羅ー待ってたよ。今日も可愛いじゃん」 「マナトー。会いたかったー」 「ちょっ、ちょっと! 待って! だっだれ? あ、あなた」 沙羅が躊躇なく男に抱きつき、その姿は恋人同士のようであり、どこか違和感があった。 「ん? 僕ですか? 僕はそこのサキュバスってお店で働いていますマナトと申します」 マナトという男は城で姫を出迎える王子の様に胸元に手をあて、軽く頭を下げ、視線を外すことなく妖艶に微笑んだ。 「ホ、ホスト? サ、サキュバスって……えっ……ちょっ、ちょっと沙羅? まさかそんなお店に出入りしてる訳じゃないわよね? 」 「そんなお店って酷いなぁお姉さん。そういうのは偏見じゃないの? 」 マナトはぶりっ子するように頬に指をあてる。首を傾げて、私の狼狽した姿を愉しむように鼻で笑った。 「この子は未成年なのよ? そういったお店にはまだ入れないの。そっちだって未成年がお店に出入りしてたら営業停止になりかねないんじゃ無いの? 」 「こんばんはお姉さん。威勢がいいねぇ」 クスクスと笑いを堪える様なご機嫌な声が背後から届く。その声の持ち主を目で捉える前に、マナトはすっと体を引いて頭を下げた。 「九条さん。ちわっす」 「営業停止とか随分物騒な話が聞こえたもんでさ、ちょっとお邪魔しますよ」 九条と呼ばれた男は、咥えていた煙草を指先でスッと外し、それが礼儀かのように穏やかに笑った。周りにはスーツ姿の男たちが数人。艶っぽい香りを纏い、昼間見ても遜色ない品のあるグレーのストライプ柄のスーツを着ていた。
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