第1章 繁華街での出会い

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 雅の経営する整体院は都心部を始発とする私鉄の沿線上に三店舗がそれぞれ並んでいる。十年近く前に立ち上げた本院ともう一店舗は地域に根ざした整体院として愛されている。そして今年の春にオープンした新院は他の二店舗に比べて立地も良く、人の入りもまずまずと言ったところだ。  しかし、新しい院ゆえにオペレーションやスタッフ研修などが追いついていない部分もある。日々出てくる課題を整理して一つずつ解決しながらスタッフの技術、ホスピタリティーを向上させるのが今後の課題だ。  娯楽にうつつを抜かしている暇はない。雅は患者の満足度を高めて利益を出し、スタッフの生活の基盤を守らなければならないのだ。  受付は店の顔である、とスタッフに徹底的に整頓させた受付に雅は同僚と二人、並びながら声を顰めつつ世間話をしていた。 「昨日、飲みに行ったのにどうしてそんなに不機嫌なんですか」 「ちょっと失敗してな。ほっといてくれ」 「嫌です。もっと聞かせて下さい。松本さんの酒の失敗なんて滅多に聞けないから」 「人の失敗を笑うな」  不機嫌を露わにする雅に怯むことなく、男は柔和な笑みで話の続きを促した。どうやら雅がいう失敗というのを酒の失敗だと勘違いしたらしく、面白がって続きを言わせてようとしてくる。 「それより熊川。この前、宮崎が担当した腰痛が主訴の方が今日来るんだろ?」 「はい。ただその時間は僕も含めてベテランは予約が入ってます。松本さんが担当してもらうしかないですね」  熊川は雅が独立する時に以前勤めていた院から引き抜いたベテランスタッフだ。雅よりも大柄で恰幅もよいが、人の良さが滲み出ている顔つきをしている。それに加えて確かな技術と几帳面さを持ち合わせているので患者からも人気が高い。自分がゲイであるということは打ち明けてないが、それでも仕事帰りに飲みに行ったりするくらいには仲がいい。部下の中でも唯一肩の力を抜いて話せる相手だ。 「そろそろいらっしゃる頃かな? 松本さん、後で話の続きを聞かせて下さいね」 「だからしないと言っているだろう」  受付でくだらない世間話をしてスタンバイをしていたら、あっという間に予約の十分前になった。最近はスタッフのフォローにばかり回っていたので、久々の本格的な施術に不思議と心が躍る。  ガラス張りの扉の向こうに人影が見えた。最初はしっかりした体格だな……ぐらいにしか思っていなかったが、いざ人影が近づいてくると既視感を覚えて思わず眼鏡の位置を直してしまった。目を凝らして人影を追っているうちに嫌な予感が雅の頭に過ぎる。 「まさか」  扉が開く。何も知らない熊川は「こんにちは」と朗らかな笑顔で彼を出迎える。 「あっ! 昨日のお兄さんっ!」 「き、君は……」 「松本さん、知り合いですか?」  雅の顔を見るなり思い切り指を指してくるものだから、熊川もキョトンとした様子で二人の顔を交互に見る。 「あのっ、昨日はありがとうございました! それで、あの……本当にすんません。嫌な思いさせて」  熊川が不思議そうな顔をして雅に視線を向ける。 「取り敢えずメンバーズカードを。着替えはもう用意してあります。どうぞ、こちらへ」  混乱した頭をどうにか整理し、メンバーズカードを受け取った。そこには〝岩田虎臣〟と書かれている。人違いであって欲しかった。だがそんな都合のいい展開になるはずもない。  足早に施術ベットがある個室へと向かう。白と緑が基調の院内には全部で八つの個室がある。カーテンでの仕切りではない、独立した部屋の造りにしたのは患者にリラックスして施術をうけてもらうためだ。それがこんなところで役に立つとは誰が想像しただろうか。  虎臣を部屋に無理やり押し込み、自身も個室に入ると部屋をバタンと閉める。冷や汗をかきながらどうしようかと試行錯誤する雅とは対照的に、虎臣は心底嬉しそうな表情で雅を見つめていた。 「お兄さん……いや、松本さん。すげぇ会いたかったっす。昨日、せっかく助けてもらったのにあんな失礼なことしちまって」  なぜ名前を、と問いただそうとしたところで胸元にある名札に気が付いた。そこには「松本雅」とフルネームがしっかりと刻まれている。 「いや、いい。昨日のことは忘れてくれ」 「忘れないっす。だって、俺……あんなの初めてで」 「君は俺を拒否しただろ? 気を使わなくていい。生理的に無理なこともあるのは仕方がないことだから」  あの時、虎臣は雅の口淫を拒否したのだ。調子に乗った雅も悪いが、無理という言葉に雅は確かに傷ついた。 「違うんすよ!」 「何が?」 「俺……その……」  何かを言いかけては飲み込む。そして目を伏せて息を整えた後に意を決したように雅の方に視線を投げた。 「俺、男の人とどうこうなるの、初めてで」 「はぁ?」  まさかの言葉に思わず大きな声が出てしまった。慌てて口を塞いでももう遅い。ノンケに手を出さないという雅の中でのルールが音を立てて崩れていく。確かに彼は自分がゲイだとは一言も言っていなかった。迂闊すぎる自分を頭の中で責めていると虎臣が矢継ぎ早に言葉をぶつけてくる。 「男だから嫌だってわけじゃなくて……ちゃんと付き合ってからしたい。セックスってそういうもんすよね?」  話の展開が全く読めない。これまでの施術家人生で接客中にトラブルがあったことはあるが、これほどまでに突拍子もない事態は初めてだ。戸惑う雅を他所に虎臣は捲し立てる。 「あの、だから……俺、セックスするならちゃんと付き合ってほしいんすよ。俺、男に惚れたことないから分からないんすけど、ま、松本さんへの気持ちは今まで感じたことのない気持ちで」 「いやいやいやいや、待ってくれ。話が飛躍し過ぎてる。君は女が好きなんだろう?」 「そうっすけど……でも、俺のちんこ舐めてくれたってことは俺のこと……す、す、好き、ってことなんすよね?」  ジリジリとにじり寄ってくる虎臣。確かに好みではあったがつき合うなんて絶対に嫌だ。特定の相手を作っても無駄。ましてやノンケだなんて──過去の苦い記憶が蘇る。  ここでこれ以上話していたら他の患者の耳にも入りかねない。院長がゲイだなんてバレたら、それこそ患者やスタッフの信頼を失くしてしまう。また同じ失敗をしたくない。トラウマがフラッシュバックして冷や汗が一気に噴き出てくる。 「取り敢えず後で話そう。今は施術が先だ。とにかく落ち着け。ベットに横になってくれないか」 「後っていつっすか?」 「仕事終わり……そうだな、二十三時頃に近くの店で話す。必ずだ。約束する」  興奮気味の虎臣をどうにか宥めて施術台に寝かせる。タオルをかけて背中に手のひらを当てた。そのままさする。身体の状態は昨日よりはいい。このまま虎臣の突飛な思考回路も手のひら越しに理解出来たらいいのに。 「絶対に今夜、空けておいて下さいね」  うつ伏せになりながらも何度も声をかけてくる虎臣。顔は見えなくても声から必死さが伝わってくる。  愛だとか恋だとか、全部面倒だ。  仕事で成果を出して、金が稼げればそれでいい。身体が寂しくなれば適当に見繕う。そこに感情なんかなくていい。  絶対、ノンケには手を出さない──そう心に誓っていたはずなのに、とんでもなく面倒な事態に巻き込まれてしまった。  それでも今はプロとして、虎臣の身体に向き合わなければならない。ゆっくりと深呼吸をして気持ちを整えた後、指をツボに押し込んでいった。
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