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「ねえ、ちぃちゃん、変なことって何?」
急にぐいっとリィは身を寄せた。
「えっ?」
「だからさ、変なことってどういう事? 教えてよ。気をつけるからさあ」
更に彼は智沙子に近寄った。思わず後ずさり身を固くする。 この人、何をする気なんだろう。そんな気持ちとはうらはらに緩い風が体を通り抜けていく。
「変なことって、た、た、例えば……変なことですっ!」
思いっきり吐き出した言葉にブハッと吹き出すと、リィはこれでもかと更に距離を詰める。
「その中身を教えて欲しいな」
こいつっ! 絶対にわざと言ってる! 智沙子は顔が赤くなるのを感じて腹に力が入った。
「そういうことはあなたがよく知ってるでしょう! たくさん噂を聞いてますよ!」
頭の中がパンクしそうになる。
「どんな噂?」
「新人女優さんをヤリ捨てしたとか、芸の肥やしとか言って、ななな、何股もしてることとかっ!」
もはや立場を忘れたものの言い方だ。
「酷いな……そんな事信じてるの?」
リィは真正面から智沙子を見つめた。
そして悲しそうな声で言った。
「俺の事、そんなふうに見てるの? それ、信じてるの?」
「え……っ あ、いや、そんなわけじゃないけど……」
「みんなが陥れようとする業界だって知ってるでしょ? ちぃちゃん。それはただの噂だよ」
「……そ、そ、そうですか……私ったらなにも知らないで……ご、ごめんなさい」
自然と謝るテイになった。なにゆえだ。
「……ぷっ!」
リィは両手で口元を覆う。
「え……」
「おもしれー! やっぱちぃちゃんはいいわ。思った通り! 俺が好きなタイプ!! ほら、行こう!」
強引に手を繋がれて、二人で駐車場から続く細い路地へと入った。夜の闇もあって、人幅しかない狭さは、まるで異世界に続く道に見える。この時すでに智沙子は舞い上がっていたのかもしれない。自覚はしてないけれど。
入り込んだ視界には、奥に灯籠がいくつも見えて、その先にあるのは和風作りのお店だった。今まで聞こえていた車の排気音や雑音は、もはや鳴りを潜め、足を進めると一軒の料亭が見える。
「さぁ、どうぞ。ちぃちゃん。ここは遠慮なくていいからね」
エスコートされ、智沙子は異世界へと足を踏み入れた。自分の稼ぎでは絶対に来られないような場所へと。
ほんの些細なこの時間が、まさか自分の人生を左右する事になろうとは、智沙子はまだ知らなかった――。
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