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その時
上目遣いで目標を見定め、壁に這わせた手をゆっくりと上方へ伸ばしていく。バランスを崩さないように、静かに、滑らかに、指先を布団の下へ潜り込ませるようにさりげなく……
指先から頭上のホールドまでを目測する。あと20センチと言ったところだろうか。届きそうで届かない距離。勇気を持って飛ばなければ、クリアする事の出来ない絶妙なセッティング。
最後のホールド…… あの小さな突起物に指を掛ける事が出来れば全てが終わる。この瞬間に捧げて来た情熱、人生、そして夢。
残された時間はあと僅か、間違いなくこれがラストチャンスになる。
心は熱く、頭は冷静に……
昂ぶる気持ちを鎮め、全神経を身体の末端にまで集中させる。
まずは全体重が掛かっている右の爪先、丸みを帯びたホールドに掛かっている重心をぶらす事無く踏み切る。踏み切る方向を間違えれば壁から遠ざかってしまう。壁に沿って目標へ一直線に飛ばなければならない。
空中に放たれた身体が最高点に達する瞬間、全身を瞬時に伸ばす、獲物に襲い掛かる豹の様にしなやかに、勇ましく。
身体が伸びきった瞬間、伸ばした右手指先の神経を研ぎ澄ませて、最後のホールドに食い込ませる。指紋の磨り減ってしまった指先を……
恐らく反動で身体が揺れる。揺れる身体をぎゅっと引き締めた体幹で抑え込み、揺れ戻ったタイミングで、左手を右手に添える。
そして静止…… 観客席を振り返って小さくガッツポーズ! イメージは完璧に描けた。あとはやるだけだ。
鼻から静かに酸素を吸い込み、口から細く吐き出す。チョークに塗れた白い指先をじっと見つめて覚悟を決める。
一瞬の静寂が漂う、ついにその時がやって来た。
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